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【バスキア展】営業力なしに、才能は開花しない

六本木森美術館で開催されている「バスキア展」に行ってきた。

作品1つ1つに強烈な個性が宿っており、妙に引き込まれていく。現代アートに造詣がない私でもそう思わずにはいられない。そんな不思議な時間を過ごさせてもらった。

と、ここでバスキア展の感想はおしまいだ。

このバスキア展で、私が最も注目したのは、バスキア本人の“営業力”だ。

今日は、あらためて感じた“営業・発信の大切さ”について、話をしたい。

バスキアの才能を引き上げたウォーホルとの出会い

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バスキアは27歳という若さでこの世を去った。短命な人生であったにもかかわらず、バスキアはこの世に多くの作品を残している。今回六本木に集まっている作品だけでも100点はゆうに超えていただろう。

なぜ、これほどまでに多くの作品が残されているのか?

それは、バスキアが多くの作品を生み出してきたという紛れもない事実に加え、若いうちから才能が世に見出され、作品として保存されてきたからという一面もあるのではないだろうか。(大戦を経ていない現代アートは、世に残りやすい側面もある。)

現代では名の知られた画家も、生前は無名、没後に作品の素晴らしさを見出された例は枚挙にいとまがない。ちょうど今上野で開催されているヴィンセントヴァンゴッホもその1人だ。アーティストの才能が引き上げらないと、作品が貴重視されず、後に残らないケースが多い。

逆に、若いうち(または生前)に才能が見出され、アーティストの創作物にニーズが生まれると、制作費用も調達できるため、多くの作品が次代へと残る。その最たる例がバスキアの作品達だ。

話をもとに戻す。

世が若いバスキアの才能に気づいたのは、自然の流れだったのだろうか。これほどの才能は、放っておいても勝手に見つかったのか。

私は、そうとは思えなかった。

バスキアが、18歳という異例の若さでNYアート界のスターダムを駆け上がる、そのきっかけはウォーホルとの出会いにあった。彼がバスキアをNYアート界に引っ張り上げた。出会いのきっかけはこうだ。

18歳当時、バスキアは自宅を出て、友人宅を転々とまわりながら、自身の作品をポストカードという形で販売し、その日暮らしをしていた。そんなある日、SOXOでポップアート界の巨匠アンディ・ウォーホルをレストランでみかける。そこで彼に、1枚の手書きポストカードを売ったことがきっかけで、ウォーホルに才能を見出され、その後バスキアはスター街道を駆け上がっていった。

あのバスキアですら、アート作品を自らの手で営業していたのだ。

ここでのポイントは2つだと思う。

1:バスキアが自らの作品(商品)を持っていたこと
2:その作品を、自ら発信したこと。

ウォーホルとバスキアが同じレストランでハチ合わせた、これは神様が与えてくれた偶然だ。

しかしながら、バスキアが自前のアート作品を抱え、それをその場でウォーホルに発信したのは、バスキア自身の勇気の賜物だ。

バスキアは、自分の力が及ぶ範囲で、100%のパフォーマンスを発揮した。だから、才能が見出されたのだ。

ーあのとき、もし何も自前のアート作品を持っていなかったら? 
ーあのとき、もウォーホルを見かけても、話しかける勇気がなかったら?

あのとき、バスキアが自らの才能をプレゼンテーションしていなければ、森美術館でのバスキア展も存在していなかったかもしれない。

そんなふうに思えてきた。

我々には商品(価値)を発信する勇気が必要だ

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偉大な成果を上げている人、業界のトップに君臨する人はみな、才能によってその階段を駆け上がっているようにみえる。。

でも、実際はそんなことはない。(成果何も出してない私が断言するのもなんだが。)

彼らはきっと、その業界のキーマン、プロデューサー、インフルエンサーに出会うチャンスが訪れたとき、商品(価値)を抱えており、それをプレゼンテーションしたからこそ、今の成功があるのではないか。

バスキアのウォーホルへの営業ストーリーを知ったとき、私はビルゲイツの昔話を思い出した。

これは、有名起業家に学生が次々とインタビューを仕掛ける実話本、サードドアにある話。

ビル・ゲイツは根っからのテック野郎で、中学生の頃からプログラミングに熱中。ハーバード大2年生の19歳の頃には、ソフトウェア商品を作るレベルにまで達していた。そう、すでにビルゲイツも若干19歳で商品を持っていた。ここもバスキアと似ている。

ポイントはここからだ。

実はすでに、ビル・ゲイツが生み出したソフトウェア商品で、企業が抱える課題をお助けできるかもしれない企業(MITS社)があった。

「であれば、あとは商品をMITS社に持っていけばいい」

誰もがそう思うだろう。

でも、ビル・ゲイツにはそれができなかった。

19歳のビル・ゲイツにとって、人に電話をかけることが最も億劫だったのだ。

電話をかけることに萎縮し続けたビル・ゲイツ達であったが、最終的には勇気を振り絞って一本の電話をかけた。商品の存在を自らプレゼンテーションした結果、「そのソフトウェアを見せてほしい」と約束を取り付けた。

今のビル・ゲイツがあるのは、彼がプログラミングでソフトウェアを開発したことだけではなく、その場で1本の営業電話をかけたからでもある、というはないだ。

サードドアには、教訓としてこのように記されている。

ゲイツのプログラム作りの才能はすごいが、彼が寮の部屋で普段をいだきながら電話をとってMITS(セールス先)に電話しなければ、何も始まらなかったということだ。このチャンスを彼がものにできたのは、自分にとって苦手でわずらわしいことを、ちゃんとやってのけたからだ。未来を切り開く力は、自分の手の中にある。でもその力を解き放つには、苦しいことを最初に乗り越えなくちゃいけないんだ。彼の場合、それは電話をかけることだった。

営業力なしに、才能の花は咲かない。

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バスキア展に行って、「営業力なしに、才能の花は咲かない」。そんな風に私は思った。

きっと才能を開花させた人たちの共通点は、勇気を振り絞ってキーマンに営業をかけたことにある。

ビル・ゲイツやバスキアだけではないだろう。

AKBの前田敦子も、秋元康さんの前に立たなければ才能は開花していなかっただろう。他にも、似たような事例はたくさんあるのではないか。普段の仕事でも、上司に「この仕事、私ならできます。」と手を挙げたことがきっかけで、予期せぬ大仕事が舞い込んでくる、などなど。

ある転換点は突然やってくるように見えて、そのすべては誰かへの営業がきっかけだ。誰かが勝手に掬い上げてくれる、ということはありえない。

自らの発信こそが、才能開花の起点。
自分の力が及ぶ範囲で、才能を磨く、商品を作る、価値を高める

そのすべてをステークホルダーにプレゼンする。

この大切さを、バスキア展であらためて学ばせてもらった。


最後に余談だが、バスキアの師アンディ・ウォーホルは1983年、58歳でなくなった。ウォーホルを尊敬していたバスキアは、なんと翌年の1984年薬の大量服薬でこの世を去った。ウォーホルの死が大きく影響していると言われている。

なんとも言葉では表現できない結末だ。ウォーホルに出会ったからこそのアーティストバスキアであったが、その人生はあまりにも短いものとなってしまった。

強く太く短く生きたバスキアの人生にケチをつけるつもりはない。だがしかし、ワガママ承知で言わせてもらうと、もう少し長く生きて欲しかった。あのバスキアが、現代をどのように捉え、どんな作品を残しただろうと思わずにはいわれないからだ。一枚でもいいから、その作品が見たかった。


最後に、今回展示されていたバスキアの作品で、写真撮影可だった作品を載せていきます。生命力溢れる作品を見ていただければと思います。

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この記事を読んでいただいた一人でも多くの方が、バスキアに興味を持ち、森美術館に足を運んでいただけると幸いです。別に、森美術館の中の人ではないのですが、バスキアと森美術館の一ファンとして、宣伝させていただきます。

あと、バスキア展に行くときは、バスキアの歴史を学んでいくと面白い。彼が生まれた時代背景、ニューヨークのストリートカルチャーを頭に入れて美術館に向かおう。

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