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朝のコーヒー

どうこう言っても時は過ぎるもので、心もそれによって変わっていく。
あれほど過敏で繊細だった何者かはここにはおらず、呆けて「ああ今日もいい天気だ」とあくびする。
物語としては非常につまらぬものかもしれないけれども、一貫した人生でそのような期間があるのは一つの暁光でもあると思うのだ。

どこにも人などいないのに、頭の中では指図する何者かがいる。
太陽に意味などないのに、天啓は常にその口から語られている・・・

あの頃は安らぎを求めていたに違いないのに、ある程度の安寧を手に入れた今となっては、当時がうらやましくもある。

10年ほど前、毎日小説のことを考えていた。
明日は何を書こう、このシチュエーションは使えそうだ。感覚を、物語を、感動をつかむ。
狂気の始まりだったと思う。

言葉は甘美であり、現実の何倍もの印象を作ることができる。
悲しみとは何だろう。喜びとは。苦しみとは。
感情的であることに関して、過剰であれば常人ではないし、また逆に過小であれば生きている意味がないように思う。
物語とは感情によって書かれるものであり、当時は本当に書くのが楽しかった。今となってはいうなれば感情の「出がらし」。
ウンウンうなって何か出すのも調子が違うし、されども心に積もる澱はもの言いたげだ。

エッセイというところであれば、無理に何かをせずとも語れよう。

今朝のことを書く。
困難は朝から始まる。
禍福はあざなえる縄のごとしであり、私の一日の幸福は朝のコーヒーに依っている。
ユングのプエブロ族の話にあるように、朝一番が祈りのすべてなのであって、そういった役割が私にとって朝のコーヒー。

コーヒーの特性により、私の幸福は左右されていく。
カフェイン過敏な体質にありながらこの成分が私に与える多幸感は何にも代えがたいものとなっている。
と同時に、いくら調子がよくなるからと言って午後3時以降に濃いやつをあおってしまった日には・・・不眠である。

コーヒーの特性。
胃がやられる。
もともと胃弱でピロリ菌が常駐していた時期もあった。
バリウムより胃カメラ派。

上記の理由より、コーヒー大好きなのだけれども過剰摂取は地獄という吉凶に毎朝悩まされている。
胃が痛い日は泣く泣く紅茶を飲む。煎茶の時もある。ほうじ茶の時もある。

今朝はコーヒーを飲んだ。ただし、胃の調子がよろしくないのでドリップではなくインスタントコーヒーにした。
最近買ったもので、業務スーパーにいつもあるベトナム製のコーヒー。ベトナムの方と話す機会があり、ふと思い立ってこのコーヒーを買ったのだったっけ。

コーヒー過敏だからこその多幸感だけれど、口寂しさ程度を理由にコーヒーをがぶがぶ飲めるような体質もうらやましい。

先日は娘が誕生日にとスターバックスのコーヒーギフトをくれた。生きる喜びをプレゼントされたような気持ちになった。本当にうれしかったのだが、娘は実はバックをプレゼントしたかったとのこと(直前にそれは自分で買ってしまった・・・)。思い至らぬこと、Oヘンリのごとしである。

「一杯のコーヒーから夢が花咲くこともある」
昭和初期、戦前の曲をふと思い出す。

作詞した藤浦洸はお酒が飲めないコーヒー党。一方、作曲した服部はお酒好きなビール党。この曲のタイトルは当初「一杯のビールから」というタイトルであった。そこでお酒の飲めない藤浦は「一杯のコーヒーから」と直してしまったという裏話が残っているとか。

まあ大いに賛成である。
私自身、飲酒習慣から離れて久しい。

仏陀もコーヒーに関しては云々していないところであるし、今後も朝のジレンマを楽しんでいきたい所存である。

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