見出し画像

私のクリスマス1992 (「夜明け前」編)

今日は、年に一度なんで、クリスマスにちなんでのnote。私的な経緯を綴りつつ、クリスマスのお祝い!?をしてみます。クリスチャンとは縁もゆかりもない家で育ちましたが、上京を機に導かれるように、今に至っております。30年前、聖書を開く前のお話です。

教会での初めてのクリスマスは去年、下記に、少し書かせてもらいました。この頃は、教会には毎週のように、英語の勉強のために、通っているといったところで、次に遭遇したキリスト教は初海外でした。

渋谷「ドイツ語ゼミナール」

 92年夏、1年越しで準備していた初めての海外旅行はドイツ。
なぜ、ドイツ?
戦後の復興は似ていると言われているが、本当にそうなのか?ということと、第2外国語(今は必須ではないのか)でドイツ語を選んだのがきっかけ。

学校が終わってから、渋谷の繁華街とは無縁のひと気の少ないビルの一角、熊本ラーメンが近くにあり、ラーメン啜って、
週に2回、渋谷にあるドイツ語の学校に通う。(まだあった!↓)

耳から覚えるドイツ語は新鮮で、教室はアットホーム、ドイツ人は率直で裏表なく対話するし、楽しく学んでいました。生徒さんは、仕事でドイツ語が必要なサラリーマン、趣味のおばさん、慶応のドイツ語専攻の女子学生、ドイツに渡って仕事したいという10代後半の若者、そして、授業についていくのが精一杯の自分。
驚いた二つの出来事は、
高校卒業して、ドイツに渡り仕事をしたいという同世代の若者は、ある時から突如、ドイツに渡ってしまったこと!何か手に職を持っていたということでもなかったので、今はどのように生きているのか…。

もう一つは、ドイツ語ゼミナールの先生、語学の先生なのに、無口な先生がいました。
ある日授業の前にKO女子が
「〇×先生、語学の先生なのにしゃべらないし、笑ったことないよね!」
と言い出し、(確かに笑わない…)
「今日はこちらから先生の私的なこと、質問攻めにしませんか?」と提案。
サラリーマン筆頭に全会一致で、授業のプログラムを無視して、バンバン質問が始まります。

東ドイツの先生はブレードランナーのハリソン・フォードではなく、
レプリカント風(ブライオン・ジェームズ) ちょっと怖すぎた…

聞けば、先生は、まだ統一まもない東ドイツ出身なのでした。まだ、東ドイツに家があり、妻子を置いて、出稼ぎのように日本に来ているということが分かりました…
「東ドイツ、普段の暮らしはどんなだったんですか?」と聞けば、
あまり自由が無く、
例えば、夜の家族団らんの時間なら、
毎週木曜の夜7時からテレビの前にいすを並べ、家族全員で国営放送を30分だったか、1時間、見なければならない。西側の情報はそこで知るようになると。もし、家族で見ていないことがバレると、秘密警察に知れて、連れていかれる…(どこへだ??)。
笑顔が少なるしかないような現実世界。

冷戦はまだ終わったばかり

という感じで、いつも以上に、静まり返った授業になってしまったのでした。

初海外旅行の「ドイツ」

語学の学校へ通うこと、1年以上が過ぎ、今思えば高かったルフトハンザの飛行機代、お金はとびのバイトや測量のバイトで半分稼ぎ、半分は親のすねをかじって、晴れて、ドイツへ。

ベルリンの壁が壊れて間もないドイツに1か月半、半分はドイツ語の学校(Goethe institute)、半分はバックパッカーで歩きました。残念ながら当時の光景を収めたカメラはベルリン駅で盗難。気をつけなさいと散々、Goetheの先生に注意されたのですが…。

ドイツ語の学校は、Boppard(ボッパルト)というライン川沿いの小さな街にありました。日本人が知っている有名な都市ではなく、一日あれば見て回れるような、このこじんまりした都市が自分には心地が良かったです。

 それと、ドイツ語の学校に入ると、仲良くなれるのはドイツ人ではなく、欧州各国の人たち。一番多いのはフランス・イタリア、次にイギリス・アメリカ、東欧からは人の行き来がようやく始まったころで、ロシア、ハンガリー、ポーランドから僅かながら人が来ていました。東洋では当時は、日本人、韓国人が多く来ていました。日本人やイタリア人は群れるんで、そこには入りませんでした。

Boppard ライン川沿いの観光都市 (世界遺産オンラインガイドより)

ホームステイしていた同じ家にはフランス人の年下の18歳の学生。将来は政治家になりたいという彼は、家はお城!と言っており、どうもお金持ち、しかし謙虚で、物腰柔らか、毎夕に「ライン川に散歩行かない?」と誘ってくるのでした。

ライン川沿い(青梅・ボッパルト友好協会HPより)

こんな川沿いを毎日夕方にふたりで歩いて、ゆっくり散歩。そのあと、外で食事をするのですが、一番仲良くなり、毎晩一緒に食事をしたのは、ほとんどフランス人でした。フランス人は十代後半には、ほとんど自分の進路を決めており、将来こういうことをしたい、こんな仕事をして、夢をかなえたいとかみんな話すのです。これは全く日本人とは違うなと。自分の意見を持ち、毎晩話が尽きなくて、面白い!結局日本に帰った後も、ここで知り合った二人の男女のフランス人とはしばらく文通してました笑(ペンパルですね、もう死語か)

街の中心 マルクト広場 photo credit: Boppard20130730_0044 via photopin (license)

仲良かった5人のフランス人のうち、3人は敬虔なクリスチャン、日曜には町の中心の教会で礼拝を守っていたようです。
私の方は日曜午前中はクタクタに疲れていて寝ており、お昼前に彼らと合流するのでした。まさに上の写真のマルクト広場が集合場所でした。

まったく教会文化を知らない自分は、一緒に教会に入る時に、いろいろと質問しますが、彼らにとっては当たり前のことを聞かれるので、フランス人同士お互い議論して結局、よく分からないことばかり…。

ドイツ旅行の終盤には、ベルリンは行っておきたいので、ひとり列車の旅。ドイツ語の先生からは、まだ情勢不安定で事件も多くて、刺されるかもしれないから、途中の駅では降りるな、と言われ。
結局、東ドイツは、ベルリンだけでしたが、冷戦後のいわゆる「東西」の違いが今だはっきり分かる頃であり、東ドイツの地域は、何もかも遅れており、その違いを肌で感じられるくらいインパクトがありました。

トラバント こんな小さな車もまだ健在でした

ベルリンから帰る列車の中で、ボックス席に出くわした15,6歳の少年と対話、いやジェスチャーと何語で通じたか分からない方法で話したのを思い出します。ドイツ語も英語も話せない少年は、兄を頼って列車に乗って、これから西ドイツで働くんだということが分かりました。戦争直後の日本もこんな感じだったのか、日本とは違う、全く違う十代の人生に胸打たれました。

ベルリンの壁崩壊 1989.11 (© picture-alliance / dpa)

プロテスタント発祥の地ドイツ。
散々歩き回って感じたことは、
政治も経済も、街の造り(旧市街地の中心には教会)も、ドイツ人の考え方・発想も、キリスト教なしには、語れないということ。

ドイツ語に「stark」という言葉があるのですが、英語だとstrong。当時統一直後で混乱はあるとはいえ、ドイツを一言で表現するなら、何もかもがstark!!というドイツなのでした。

Bibleには至らず、しかし…

ということで、この記事も、私事も全然クリスマスまでたどり着かない(^^;
当時の自分も、世界史をやっておけば良かったとか、もっとキリスト教のことを知っておけばよかったとか考えはしたものの、聖書に行きつくことはなく、年末に至ります。
大学は忙しく、クリスマス1992は、東京ドームの近辺をぶらぶらして終わり。

こんなところをぶらぶら 当時はSPA LaQuaはまだなし 

ちょうど「恋人たちの予感」クリスマスに似合うこんな映画もありましたっけ。ビリー・クリスタルとメグ・ライアンのラブコメディ、おしゃれなジャズとNYの景色に心奪われ、そんな映画も見たりしながら、時間を使ってました。
そして、フランスからはペンパルからの手紙が届き、メリークリスマス&ハッピーニューイヤーのクリスマスメッセージが届くのでした。

そんなこんなでしたが、イエスキリスト一人から始まるこのキリスト教とは、一体何だったのか、という疑問と関心の火は心の中に確実に灯りました。

2023年目のメリークリスマス!

個人の経緯の流れから、最後イエス様について、一言。
イエスキリストは、伝説上の人物でもなく、実際に人の子として、生まれました(神か人かとか議論が尽きませんが…)。
「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである」(ヘブル人への手紙5.7)

30歳から神のことばを伝え、約3年半で十字架につけられました。昇天したのは、33歳と言われています。今のイスラエルに生まれ、ユダヤ教の中から、この一人が生まれ、キリスト教が始まったことから、その生誕を祝うのでした。
2000年以上前に生まれたひとりの人物を知るというのは、困難極まりないことです。映像も、写真もない。当然ながら、会ったことある人も、当時の証人もいない。あるのは、イエス様が話した言葉と弟子たちの記録。
しかし、そこから文化・芸術、サイエンス、政治や経済まで影響を及ぼし、西洋の歴史が進んで行くのですから、何かが有るとしか言えないです。

聖書を学ぶようになってから、こんな話を聞きました。
イエス様も、人類の平和、人の幸せを求めた人。
20世紀の巨人カール・マルクスも同じく、どうしたら人間は平和に幸せに生きられるかを模索した人でした。
しかし、このふたりは結論が全く逆。
マルクスは思索の果て、全ての人に、パンが行き渡れば、人は幸せになれる、着るもの、住む場所があってこそ人は幸せになれるというのが、彼の結論でした。
一方、イエス様は、自分はパンを食べるのにも苦労し、住む家もままならず、人生の辛酸をなめることが多かったにも関わらず、「人はパンだけで生きるのではなく、神の言葉で生きる」と話しました。
これは、悪魔に試みらた時に旧約聖書から引用した言葉ですが、これがイエス様の結論でした。
共産主義は、「理論はピカピカだが、現実は違う」ということが明らかになったのですが、学生時代に聞いたこの言葉も、東西ドイツ放浪も経て、世界の情勢を見ながら、今はさらに深く自分の中に刻まれています。
クリスマスは「天には栄光、地には平和」という合言葉が教会では飛び交いますが、今の世の中を見ながらも、今日も真心で祈りを捧げます。

↑↑こちらは、ささやかながら、クレイアニメのクリスマスプレゼント。
残念ながらが、英語版のyoutube(日本語版は絶版?!)しかありませんが、クレイアニメとは思えない出来栄えの20分の生誕劇です。ご興味ありましたらどうぞ!
それでは、良いクリスマスをお過ごしください~

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?