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映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』(2017年)が攻殻機動隊になれなかった理由から見る日米アイデンティティの根本的な差

---ネタバレなしです---

■『ゴースト・イン・ザ・シェル』の楽しみ方

つい最近Netflixで『攻殻機動隊』 の新作『SAC_2045』が世界公開され、あらためて『攻殻機動隊』の歴史を振り返ってみたとき、自分でも意外だったのですが、実写版攻殻こと『ゴースト・イン・ザ・シェル』(監督ルパート・サンダース・2017年・米国)の存在意義について書いてみたくなりました(注意:本作は今のところNetflixには入っていません。他社の配信サービスにはありますが有料です。例えばAmazonでは299円)。

スカーレット・ヨハンソンの肉襦袢姿やホワイトウォッシュ(有色人種の役柄を白人が演じること)ばかりが話題になって、すっかり攻殻機動隊の黒歴史化してしまった『ゴースト・イン・ザ・シェル』ですが、本作の重要性は、他の作品と比べることで析出してきます。

もちろん、比べて観るべきは、本作のアニメ原作とも言うべき押井守監督映画『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年)または一部配役の変更があるにせよ基本的にその画質音質向上版と言える『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊2.0』(2008年)、そして本作とほぼ同時期に公開された『ブレードランナー2049』(監督ドゥニ・ヴィルヌーヴ・2017年・米国)です。

いや、全部みたけど『ゴースト・イン・ザ・シェル』はつまんなかったぜ、なんて声が聞こえてきそうですが、ちょっと待ってください。「攻殻」であるはずなのに、「攻殻」自体になりきれなかったARISE(アライズ)とか『SAC_2045』(それぞれのファンの皆さんにはすみません。個人の感想です)とは違って、「ゴースト・イン・ザ・シェルは、「攻殻機動隊」になれなかったところ、「攻殻」との差分がおいしい作品なのです。どうおいしいかは後述します。

その前に。


■3つのオリジナル

攻殻好きの皆さんには周知のように、「攻殻機動隊」は3つのオリジナルで成り立っています。士郎正宗の原作漫画3部作(以下、「士郎原作」)と押井守監督の劇場アニメ2本(以下、「押井攻殻」)、神山健治監督の『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』3シリーズ(以下、「S.A.C.」)です。

■原作漫画(士郎正宗作品=士郎原作)
『攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』(1991年)
『攻殻機動隊2 MANMACHINE INTERFACE』(2001年)
『攻殻機動隊1.5 HUMAN-ERROR PROCESSER』(2003年CD-ROM版/2008年書籍版)

■劇場映画(押井守監督作品=押井攻殻)
『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年)
『イノセンス』(2004年)
『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊2.0』(2008年)

■TVアニメ(神山健治監督作品=S.A.C.)
『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX(S.A.C.)』(2002-2003年・全26話)
『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』(2004-2005年・全26話)
『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society(S.A.C.SSS)』(2006年・全1話)
 押井監督の2作品は、士郎原作の1作目(第1巻)『攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』を基にしたアニメ映画です。
 また、神山監督のS.A.C.を受けて、士郎原作の3作目(第1.5巻)『攻殻機動隊1.5 HUMAN-ERROR PROCESSER』が刊行されたという関係にあります。
 士郎原作の2作目(第2巻)『攻殻機動隊2 MANMACHINE INTERFACE』(2001年)に対応した映像作品は創られていません。

その他にも、前述のARISE(アライズ)とか、『攻殻機動隊 SAC_2045』とかいろいろあるのですが、面白いのは、それらについては、「あれは攻殻じゃないよねー。」という発言が許容されてしまうのに対し(そういう言説はけっこう目にしたり耳にしたりします)、押井劇場作品と神山TVシリーズ(S.A.C.)に対しては、士郎原作とはそれぞれテイストがかなり違うものの、そのような発言は(原作原理主義者でない限り)ほとんど聞かれないことです。

つまり作者の異なる3系統の作品がオリジナルと認められているのです。

そして、『攻殻機動隊SAC_2045』に至っては、オリジナルの一角と見なされているS.A.C.と同じ神山健治監督作品でありながら(荒牧伸志監督との共同監督ではありますが)、シーズン1が終了した今のところ、新しいオリジナルだとの評価を受け損ねているのがさらに面白いところです。第四の攻殻は、いまだ空位なのです。

このような、一つの原作とそれ以外の派生作品ではなく、一つの原作と後の二つの関連作品がともにオリジナルと認識され、以降が派生作品とみなされる関係は、寡聞にして攻殻機動隊以外には聞いたことがありません。

士郎原作第二巻に寄せてマニアックに言えば、士郎原作と押井攻殻とS.A.C.のオリジナル攻殻群は、三位一体ではなく(それぞれ作者が異なるので父と子と精霊の関係にはない)、『古事記』の「造化の三神」の関係にあります(士郎原作第二巻では、しばしば日本の神話が言及されるのが興味深いです。)
「造化の三神」とは、『古事記』の第一神から第三神までを指す言葉です。聖書の神と違い、第一神は創造神ではなく、創造神は第二神と第三神です。攻殻機動隊も様々な派生作品は、士郎原作ではなく、押井攻殻やS.A.C.にインスパイアされたものばかりです。
もっと言えば、同じ神山健治監督作品であるのにオリジナルに連ねられない『攻殻機動隊SAC_2045』は、第二神の高御産巣日神(タカミムスヒの神)、第三神の神産巣日神(カミムスヒの神)と同じ産巣日神(むすひの神)でありながら、別天神(ことあまつかみ)とはされない和久産巣日神(ワクムスヒの神)とそっくりです。


話をもとに戻します。

■攻殻機動隊とアイデンティティの改変

さて、本作『ゴースト・イン・ザ・シェル』(2017・米、以下、「ルパ攻」とします。ルパート・サンダース監督作品の攻殻機動隊だから「ルパ攻」)ですが、押井守監督の映画『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊(1995年)/『同2.0』(2008年)の実写化という趣を持っています。

押井作品は、士郎原作第一巻の劇場アニメ化ですから、時系列的に、

『攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』(1991年)
 ↓
GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊(1995年)/『同2.0』(2008年)
 ↓
ゴースト・イン・ザ・シェル』(2017年・米国)

という進化(改変)の系統にあります。

押井攻殻は、士郎原作に少佐の苦悩という改変を持ち込みました。そして、ルパ攻は、押井攻殻から少佐の苦悩の中身を改変しています。この三部作(?)は、少佐の苦悩の改変の歴史でもあるのです。


■押井攻殻のオリジナリティ

押井攻殻が持ち込んだ主人公たる少佐の苦悩は、自らのアイデンティティに関する苦悩です。そしてその苦悩が作品のテーマ=アイデンティティにもなっています。つまり、押井守監督が行ったことは、攻殻機動隊という作品のアイデンティティの変更です。

押井攻殻が、士郎原作の単なる映画化ではなく、もうひとつの攻殻機動隊のオリジナルと見なされているのは、両者間でアイデンティティが複製されていないからなのですね。複製物はオリジナルではないですから。


■異物としての『ゴースト・イン・ザ・シェル』

また、同様にアイデンティティを変更したルパ攻が、アイデンティティの複製物ではないのに、第四の攻殻オリジナルと見なされることがなかったのは、あたかも異なった血液型の血液を輸血してしまい抗体抗原反応が起きてしまったかのように、ルパ攻のアイデンティティが異物として攻殻ファンに認識されてしまったからだと思われます。この押井攻殻とルパ攻の差が何に起因するのかについては後述します。

ところで、S.A.C.は、草薙素子少佐のアイデンティティについて、押井守監督作品ほど意識されていません。士郎原作とS.A.C.はアイデンティティの面では地続きと言っていいと思います。
このことは、逆に、押井攻殻とS.A.C.とでは、同じ士郎原作からの映像化作品でありながら、草薙素子少佐のアイデンティティが異なっていることを意味します。S.A.C.は、その放映時期において、士郎原作との間に押井攻殻の公開があったために、士郎原作の単なるTVアニメ化とは見なされず、オリジナルの一角を占めることができたのだと思います。

ちなみに、ARISE(アライズ)や『SAC_2045』や新劇場版とS.A.C.のアイデンティティは地続きですから、第四のオリジナルにはなりようがないわけです(アイデンティティが複製では、オリジナルにはなりえません)。


■押井攻殻が行ったアイデンティティの改変

押井攻殻は、士郎甲殻にアイデンティティに悩む少佐という設定を持ち込みました。少佐(素子)がバトーに悩みを語ったときのセリフは次のとおりです。

「もしかしたら自分はとっくの昔に死んじゃってて、今の自分は電脳と義体で構成された模擬人格なんじゃないか、いやそもそも初めから私なんてものは存在しなかったんじゃないかって。自分の脳を見た人間なんていやしないわ、所詮は周囲の状況で”私らしきもの”があると判断しているだけよ。もし電脳それ自体がゴーストを生み出し、魂を宿すとしたら?その時は何を根拠に自分を信じるべきだと思う?

義体というのは義足が全身に拡大した概念であり、要は人工の身体です。義足を付けた人間が疑いなく人間であるように、義体を持った人間も疑いなく人間です。ところが、脳も身体の一部であるように、義体には電脳が含まれます。少佐が人間である拠り所は、自分の人格であるのですが(我思うゆえに我あり)、それが人間由来のゴーストや魂によるものではなく、電脳由来であるのではないかという恐れを抱いていることを告白しているのが、先の少佐の台詞です。つまり、精神が人工であるかないかが押井攻殻の少佐の苦悩なのです。


■義体の本質

人工物である義体は、経年劣化はしても、人体のように見た目が老いていくことはありません。逆に言えば、精神年齢と見た目の年齢を一致させる必要が無いことが義体の特徴です。

実際、押井攻殻が導入した改変は、士郎原作より少佐の精神年齢を引き下げているように思います。少佐の心は、自分が何者であるかを悩みつつ日々を熱く生きる少年少女のようです。
ですが、ジュブナイル(ティーンエイジャー向け作品のこと)な攻殻では、大人の鑑賞に限界が生じてしまいます。押井攻殻において、それを救っているのは、バトーの存在です。

ARISEや『SAC_2045』の素子少佐が、比較的幼い容姿を持っているのは、押井攻殻の重力圏に捉えられてしまっているからではないでしょうか。内面(精神年齢)に外見を合わせれば、ルックスの若い草薙素子少佐になるのは必然です。

押井攻殻では、前述の少佐の問いに対し、良き相棒のバトーは、「くだらねえ」と返します。魂が人工か天然かなんてことは、バトーは深刻には考えません。

そしてその態度は、士郎原作の少佐の態度でもあります。原作第一巻p.104にも同様のセリフがありますが、セリフが発せられるシチュエーションが押井攻殻とは異なります。士郎原作では、少佐が語る相手はバトーではなく義体を修理するドクターとのパフェを食べながらの談笑のシーンであり、少佐はそれを言ったあと青ざめながらも「へへへへへぇ」と笑っています。士郎原作では、少佐自身も、それほど深刻な問題とは認識していないのです。


■押井攻殻の少佐の悩みを換骨奪胎したルパ攻

士郎原作に少佐の苦悩という改変を持ち込み、哲学的な意匠をまとわせることに成功した押井攻殻ですが、ルパ攻は自らのアイデンティティに苦悩する少佐という設定はそのままに、苦悩の中身をまったく別のものに変えています。

そのことによって、ルパ攻は過去のどの攻殻機動隊/GHOST IN THE SHELLの焼き直しでもない全く新しい攻殻機動隊『ゴースト・イン・ザ・シェル』となることに成功したといえると思います。それが第四の攻殻機動隊としてファンに認められなかったことはまた別の問題です。

ルパ攻での少佐の悩みは、自分の記憶が本当に自分が体験した記憶であるかどうかです。
自分の記憶が、他人によって埋め込まれた偽の記憶であるかもしれないという苦しみは、少年少女期に特有な種類の苦しみではありません。したがって、少なくとも少佐の悩みを軸に展開していっても、ジュブナイルに陥ってしまう心配はありません。ルパ攻は、設定の面では押井攻殻より広く大人向けに企画されていたものと思われます。

問題は、ルパ攻の少佐の悩みが、ほぼ同時期に公開された『ブレードランナー2049』の主人公ブレードランナーKの苦悩と同質のものになってしまっていたことです。


■ルパ攻のテーマはアイデンティティと記憶

ルパ攻のテーマは「アイデンティティと記憶」です。周知の通り、ハリウッドでは「アイデンティティと記憶」をテーマにした作品が大量に製作されています。『ジェイソンボーン』、『キャプテン・アメリカ』、『トータル・リコール』…etc. 記憶の真贋の他、失われた記憶を求めるものを含めれば、映画好きなら即座に5つや6つの作品が念頭に浮かぶかと思います。つまりこのテーマはアメリカ的に受けるのです。

恐らくそれは、アメリカという国家が、歴史を接ぎ木された国家であることと無関係ではないように思います。国家を擬人化すれば、歴史は記憶になります。
接ぎ木以前の歴史が自分の歴史でない国家は、記憶喪失を自覚します。また、国家創世記の歴史が思い出したくないものであれば、心理学的に忘却や都合の良い歴史への塗り替えが行われるでしょう。
自らの出生に関わる出来事や幼少期の記憶が曖昧なことは、アイデンティティ上の大問題です。

先住民虐殺や黒人問題などアメリカ人のアイデンティティに関わる事柄は、直視しなければならないけれども直視し難い歴史(記憶)に結びついています。だから、人々は繰り返し「アイデンティティと記憶」の物語を求めるのでしょう。記憶していなければならない重大な何かが忘れられているのが「アイデンティティと記憶」の物語ですから。普段は無いことになっている歴史(記憶)は彼らの宿痾であり、恐らく彼らに潜在する良心が、それをエンターテインメントとして供給し続けているのではないでしょうか。

どの国にも直視できない自国の歴史はあります。また、誰にでも直視したくない過去はあるでしょう。だから、ハリウッド製の「アイデンティティと記憶」の物語は他国でもヒットします。
しかしながら、自国の歴史が直視し難い出来事(先住民虐殺)から始まったところにアメリカのオリジナリティーがあります。贖罪の重みがゆえに、「アイデンティティと記憶」の物語は、ハリウッドが本場であり続けているのだと思います。


■日米のゴーストは融合できない

精神年齢と見た目の年齢との連関を拒否した押井攻殻では、内面の追求を諦めれば、究極的にアイデンティティを脅かすのは、存在の消滅にならざるをえません。「アイデンティティと死」が、押井攻殻のテーマとして浮上してきます。

押井攻殻からルパ攻への、「苦悩」の中身の変更は、アメリカ映画が、ファッションとして以上には『攻殻機動隊』を自らのものとして取り込むことはできないという信仰告白にもなってしまっています。ハリウッド的なゴーストは、日本的なゴーストに融合できなかったのです。


■日本ではアイデンティティは帰属の問題

そもそも士郎原作において、魂が人工か天然かが深刻な悩みとならないのは、日本的な思考が森羅万象に魂が宿ることを認めるからです。士郎原作の第二巻では、しばしば日本神話が語られます。少なくとも士郎原作の攻殻機動隊のベースには古代日本の思想があります。

一方、押井攻殻での少佐が、自分の魂が人工か天然かを深刻に悩むのは、森羅万象に魂が宿ることを認めないからではなく、自分だけが例外であることに耐えられないからであるように見えます。バトーが「くだらねえ」と返したのは、少佐にしてはくだらない悩みだとバトーが思ったからに他ありません。

日本では、アイデンティティは記憶の問題ではなく帰属の問題になります。自分だけが別のものに帰属することに、多くの少年少女期の自分は耐えられません。自分は特別な存在であって欲しいけれども、求めている特別さは、帰属を等しくする者の中での特別さなのです。この着地点の狭さが、悩みー解決が困難であることが前提となる―を成立させています。
そして、少年少女期に自分が何者かに悩むのは、少年少女期の一番の関心事が、自分だからです。

自分の問題として、魂が人工か天然かを問題にする少佐は、つまり自分が人間なのかアンドロイドに過ぎないのかを悩む少佐の悩みっぷりは、その深刻さゆえにかえって少年少女のようです。だからその悩みは「くだらねえ」のです。

大人は、自分の帰属は自分が決めるものではないことを知っています。大人は自分に生きているだけではなく、社会に生きている生き物だからです。そして、生きている場としての自分と社会の比率では、後者が高いのです。

森羅万象に魂が宿るとすれば、「電脳それ自体がゴーストを生み出し、魂を宿す」としても、宿った魂は自然の肉体に宿る魂と同質になります。
社会がそれらを区別しなければ、「自分を信じる」ことができようができまいが、社会が帰属を保証します。「へへへへへぇ」と笑って、まいっかで済ませることができるのです。
また、特定の社会に属していなければ、絆のある人間が社会の代わりになります。押井攻殻のバトーが、「くだらねえ」と返したのは、少佐の帰属は俺が保証しているんだから悩む必要は無いというメッセージでもあるのです(バトーの保証を少佐が受け入れるかどうかは別の問題)。
どちらにせよ、天然か人工かは、アイデンティティの本質ではないのです。


■人工物に宿った魂がヒトの魂と同質と見なされない社会

一方、アメリカのように文化基盤がキリスト教である場合には、士郎原作のように「へへへへへぇ」と笑って済ませる問題にはなりません。神の被造物である知的生命体は人間だけであるために、人工物では神の被造物とはならないからです。「電脳それ自体がゴーストを生み出し、魂を宿す」自体になっても、その魂は人間と同質とはみなされないのです。

人が作った人工物に魂が宿ることはキリスト教の枠(文化基盤)から外れてしまいます。義体は義足の全身版ですから、義足を付けても神が創った人間であることが疑いないように、義体を持った人間も、魂は天然ものと見なされます。ところが、義体を得た過程の記憶が無ければ、その魂を保証するものはなくなります。アイデンティティは記憶の問題になるのです。


■ルパ攻と『ブレードランナー2049』

はからずしもルパ攻と同じテーマとなった『ブレードランナー2049』の場合は、レプリカント(アンドロイド)が魂を持つかどうかが主題となります。ご覧になった方は首肯されると思いますが、『ブレードランナー2049』は音楽や映像がたいへん重厚なものとなっています。

レプリカントは人が創ったものであり、それに人間と同等の魂が宿ることになれば、それはキリスト教の枠から外れる一大事です。だから、『ブレードランナー2049』は、荘厳な意匠を纏っている必要があったのです。

逆説的に言えば、荘厳な意匠を纏わせてでも、アメリカ人はキリスト教の枠から外れる物語を見たいのだと言えるかもしれません。恐らくそれは、攻殻機動隊が海外でも人気を博している理由の一つだと思われます。


■ルパ攻が少佐の悩みを改変しなければならなかった理由

義体である少佐が、自分の魂が人工物であるかを疑うことは、キリスト教の文脈では、義体であったかもともとロボットであったかを問うことと等しくなります。義体でない少佐という結末は『攻殻機動隊』の否定になるためありえません。つまり、この疑いの答えはすでに出てしまっているのです。故に鑑賞者の関心を結末まで引っ張る物語を作ることは難しくなります。

つまり、キリスト教の文脈で『攻殻機動隊』を題材に義体の魂の人工/天然をテーマとしてエンターテインメント作品を作り上げることは無理筋な話なのです。もしそれをやってしまえば、それは『攻殻機動隊』ではなく『ブレードランナー』そのものになってしまいます。

『攻殻機動隊』の物語の枠内では、少佐の悩みを「アイデンティティと記憶」に置き換えた方が、彼らにとってよほど筋がいい話しなのです。

自分が何物かを問うことは、その問いの立て方自体がその答えになってしまうような問いなのです。ゴーストはそのことを知っています。だからゴーストは自分(私)にのみ囁くのです。

蛇足ですが、2020年の直前になって、ついにアイデンティティと記憶の問題を答えの出ない設定では無く、国家と個人の問題として、正面切って挑む作品がアメリカに現れました(ただしいずれも映画作品ではなくTVシリーズです)。例えば、『アメリカン・ゴッズ』シーズン1『ウエストワールド』は、『ゴースト・イン・ザ・シェル』がフォーカスを当て、『ブレードランナー2049』が答えを出さなかった問題への答えを描くことを主題としているように見えます。アメリカは、自己超克をはじめたのだと思います。
一方、日本ではまだ、自分のアイデンティティの問題をクリアするような作品は現れず、自己模倣の繰り返しゲームを続けているように思えます。
イスラム国があらわれて領域国民国家が問い直され、新型コロナがパンデミックとなってグローバル化が再考され、世界的に国家と個人の歴史と帰属とアイデンティティが問い直されている今、作られるべき攻殻機動隊の新作は、『SAC_2045』もいいけれど(ウソです。SAC_2045には落胆しましたorz)、士郎原作『攻殻機動隊2 MANMACHINE INTERFACE』を改変し映像化したものなのではないかと思う私がいます。ただ、絵が成人向けなのが難点ですが…。

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