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自分の足が憎い

18歳のわたしには、生まれつき身体障害がある。
脳室周囲白質軟化症(PVL)と呼ばれる脳性麻痺。

自立して歩行はできるものの長時間や長距離の移動は難しく、階段の昇降には手すりや補助が必要。片足立ちもままならないため、運動もできない。体育祭や運動会は今でも憂鬱極まりないイベントのひとつだ。

わたしは幼少期から中学生の頃までふくらはぎまでを覆う形の足の補助器具、いわゆる短下肢装具というものを装着していた。Google等で画像検索して頂ければわかりやすいが、装具は足に装着した際かなり目立つ。故に装具を装着していた期間は周りから好奇の目で見られたし、その視線の中には悪意あるものも沢山あった。実際、小学生〜中学生までの時期は『装具をつけている』、『身体障害者である』という理由だけで当時の学年の生徒ほぼ全員からいじめを受けた。聞くに耐えない、耳を覆いたくなるような暴言も数え切れないほどに吐かれた。

1年ほど前にわたしが投稿した、当時のいじめの状況などを綴ったnoteにも書いているが、小学生の頃、当時のいじめの主犯格から何気なく放たれた、

『障害者は普通の教室に来るな』

という言葉が今でもわたしの脳裏に絡みついてどうにも離れない。トラウマやそれに付随する精神的症状がかなり緩和された今でも、たまにこの言葉が放たれた情景が夢に出る。その度に心のどこかがチクリと痛む。この言葉に、暴言に、今までわたしは何度も滅多刺しにされた。今でこそ針のような痛みに減衰したものの、やはり痛みそのものは取れないのだ。今幸せな環境で、幸せな生活を送っていても。言った側であるいじめの主犯格は、わたしにそんな言葉を吐いたことすら、下手したらわたしの存在すら頭から消えていると思うが、わたしは一生忘れない。言われた側の、わたしは。あんな酷い言葉がすらすらと口から出る時点で、主犯格の神経どころか全てを疑う。あんたの口から当たり前のように放たれた一瞬の言葉が、今もわたしの永遠の呪いなんだと、今 主犯格に面と向かって言えるもんなら言ってやりたい。

わたしの心はズタズタにされた。
ただでさえ自分の足にコンプレックスを持っていたのに、さらに引き裂かれた。
わたしをいじめた奴らは平然とわたしの心に土足で踏み入り、好き勝手グチャグチャにして、なんの罰も報いも受けずにそれぞれの生活に消えていった。

わたしがこんな風に生まれてこなければ、
健常者として生まれていれば、
こんなことにならなかったのかな、と思う。

かといって、わたしを生んだ父や母を恨んでいる訳ではないことをはっきりと、ここで言っておく。むしろこんなわたしを粘り強く18年育ててくれたことには感謝しかない。わたしがただ生まれ方を違えて空回っただけで、父や母はなんにも悪くないのだ。むしろ、父と母には申し訳なく思っている。本来、父や母にとって幸せだったであろう出産や授乳期を、全部わたしが狂わせてしまった。仮死状態で、産声も上げずに生まれてきてしまったわたし。祝福に包まれるお産どころか、絶望させてしまったと思う。それに、いじめられたことをきっかけにわたしが精神的に不安定になってしまったことも申し訳なく思う。アイデンティティを持ち始め、確立させてゆく小学〜中学の時期に潰された心のせいで、些細なことですぐに不安定になり、泣いてしまう。辛くなってしまう。迷惑をかけてしまう。今でもそうだ。たまに何かが引き金となってやられてしまうのだ。毎回精神的に参る度に思うのだけれど、いじめられていなければこのように心を病むこともなかったのかな、と思う。じゃあどうすればいじめられなかったのかな、と考えれば、障害がなければいじめられなかった、と考える。ならばどうすれば障害なく生きていけたのだろうとなり、最終的には根本である障害は生まれつきだから仕方がないとの思考に至った末、『わたしは元から生まれこなければよかった』という結論になってしまう。

わたしは足のせいで、社会経験もろくに積んでいない。周りがアルバイトに励んでいても、わたしは足のせいでできない。一般的な仕事なんてまず迷惑をかける。この先わたしは『普通に』、健常者の人たちと共に社会に生きていけるんだろうか。足のせいで、足のせいで、足のせいで……………ずっと頭をぐるぐる巡っている。

この足でさえ、なければ。

わたしは足に枷をつけられているのではない。
わたしの足『そのもの』が枷なのだ。

歩けるだけまだ良いじゃないかと思う方もいるかもしれないが、正直なところ歩けることが要因で障害を軽く見られたこともある。『世の中にはあなたより遥かに辛い思いをしている人がいるのだ、あなたは歩けるだけ感謝しなさい』と、小学生の時の担任に言われたことがある。申し訳ないが、本当に歩けない当事者の方に言われるならまだわかるけれど、健常者の担任にそんな物言いをされて腹が立った。歩ける歩けない、障害の重い軽いじゃない。障害というハンデを背負っている時点で、誰だって辛い。わたしは歩けても辛い。短下肢装具をつけなくてもよくなった今、わたしは見た目だけは健常者になった。すなわちそれは、障害に気づかれにくくなった、ということ。助けが必要な時に助けを求めても、助けてもらえないかもしれない。それだけでなく、これから先生きていく上で、困ることがきっと沢山出てくる。ただ、何も障害を持つ人を優遇しろだとか、特別扱いしろなんて訳では微塵もない。至ってフラットに、対等に接して欲しい。誤解を恐れずに言うならば、『遠慮』ではなく『配慮』してもらいたいだけなのだ。障害というハンデを持つ以上、どうしても他者に助けを借りなければいけない場面は多々ある。その時は、必要な分の手助けをしてほしい。手を差し伸べて欲しい。わたしたちが至って平凡に、普通に生きるのにはそれが必要なのだ。

さて、ここまでつらつらと体を成さない文章で綴ってはきたが、それでもわたしは、自分の足が憎い。これまで足に包丁を突き立ててやろうと本気で考えたことが何回もある。それくらいに、憎い。やっぱり、辛い。どうか神様、お願い。来世は足に不自由のない、いじめられることもない、ごく平凡で幸せな女の子に生まれることができますように。高望みだけれどね。

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