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「大きい主語」が奪うものと救うもの

いつからか、主語の大きさを意識する機会が増えました。「大きい主語」という言葉の意味自体はフラットですが、「主語が大きい」「大きい主語を使わないよう気をつける」など、どちらかといえばネガティブな要素を伴った文脈で使われる表現な気がします。

実際は個別具体的な話をしているにもかかわらず、「日本人は」「男性は」など、属性の問題であるかのように一括りにして一般化するケースが典型です。ほかにも「社会人なら常識だ」「世間が許さない」など、個人の見解をあたかも普遍的な規範のごとく語るケースもこれに該当すると思います。

後者は、たとえば「人の物は盗んではいけない」「借りたお金は返さなければいけない」など、法律等による規範が存在する場合は、妥当する発言です。しかし、法律は国や地域によって異なりますし、法の規制が及ばぬ領域には文化や慣習といった別の規範があることから、やはり主語を適切に限定しなければいけない場合は存在します。

個の尊重やマイノリティへの配慮が、昔に比べて広がってきたのが影響しているのだろうと思います。以前なら目を瞑っていた言葉に対しても声を上げられる風潮や環境の醸成。望ましいものとして受け止められており、基本的に、ネガティブな側面はないものだと思います。


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もっとも、前記のとおり、語られる内容の前提条件次第で主語の大きさの妥当性は変わります。

異なる前提条件を引き合いに出すことで、「この場合は妥当しない。主語が大きすぎる」といった批判をするのは容易です。実際、SNSを見ていると、そうした安易な批判が飛び交っている光景を見ることが少なくありません。

もちろん、発言者が語った主語の大きさが受け手にとっては適切と感じられず、嫌な思いをするのは十分に想定されること。誰が受け取るのかわからないパブリックな環境で発信する以上は、配慮を凝らさなければいけないと思います。

しかし、発信者の真意を汲まずに投じられる安易な批判は、ややもすれば発信者から言葉を奪いかねない「鋭い述語」とも呼ぶべきものであり、大きな主語と同様、扱いには気をつけなければいけないと思っています。「日本国内では」「東京都在住の女性は」など、あらゆる発言に具な前提条件を求めることもできますが、それでは相手が真に伝えたい意図を損ねる場合がありますし、何より、語りや言葉の豊かさを削いでしまうおそれがあります。

大きい主語は「大きい主語」という扱いやすい名前を与えられたことにより、時代の変化を味方につけつつ、声にならない声を拾う役割を果たしているように見えますが、便利なものには必ずといっていいほど副作用が伴います。安易な批判の言葉としても使われてしまう現状は、その一つと言ってもよさそうです。

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名前を与えるとは、それほどに意味があることなのだと思います。

言語は、世界という渾沌カオスを認識し、識別するためのシステムです。特に、認識した事物に対して与えられる「名詞」というラベルは、人が世界を認識した結果のコレクションとして、日に日にその数を増しています。結果、言葉の世界を構成するパーツの多くは、名詞が占めます。

この点について、新しく生まれる言葉が名詞ばかりであることを指摘し、現代を「圧倒的に、名詞の時代なのである」と喝破したうえで、「名詞は、てんから意味を決め込む」と危惧する書籍があります。

言葉のほとんどが、ただもう名詞でしかなくなっている。政治の言葉が、行政の言葉が、宣伝の言葉が、技術の言葉が、学問の言葉が、さらにはメディアの言葉が、世代の言葉が、まだ知られない新しい意味を追いかけて、実際に競ってつくりだしてきたのは、反対に、いつもいつも新しい見なれない名詞に追いたてられているような、慌ただしい言葉の世界だ。名詞頼みというのは、言葉を窮屈に、気づまりな、権高なものにする。

長田弘『感受性の領分』(岩波新書, 1993)

「大きい主語」という名詞(正確には名詞句)が「てんから意味を決め込」んでしまうことがあるというのは、この言葉が前述したような安易な批判に使われてしまうのを見ていると、感覚的にも理解ができます。

ただ、名詞が必要とされるのも理由があります。

名詞という抽象的な説明原理によって、人は次第に世界を己のものとし、操作可能、支配可能なものとして手なずけていったのだ。そしてそれがコミュニケーションを要請し、他者との理解をより高度なものとするために文法が生まれる。こうして抽象的な議論が可能となる。

宮下誠『20世紀絵画~モダニズム美術史を問い直す』(光文社新書, 2005)

言葉、特に名詞は、世界に秩序を与えます。靄のような世界に区切りを入れるための新たな輪郭線が、日々必要とされる。その結果として、目に付く新しい言葉は名詞ばかりという状況が生まれている、という見方はあながち間違ってはいないと思います。

それに、目まぐるしく変化する世界において、埋もれてしまいそうな声を拾い、誰かを救うためには、相互理解のコミュニケーションを成立させるためには、認識の対象に輪郭を与え、共通認識を形づくることか最低限必要になります。それが名詞の必要とされる理由なのだとしたら、世界を見る目も変わってくるのではないでしょうか。

言葉があるから得られる利益があるということは、裏返せば、必要な言葉がないことによる不利益が存在することの示唆でもあります。

現在「セクシュアル・ハラスメント 」という言葉で呼ばれているような事態は、この言葉が生まれる前にも当然あったはずだ。それでもこの言葉が生まれ、言葉のストックとして保存されるまで、この言葉で名指されるべき被害について語ることは難しく、ましてやひとつの言葉で名指されるべき一般的な、多くのひとによって共有されている現象があるという理解に達するのはほとんど不可能だった。

三木那由他『言葉の展望台』(講談社, 2022)

その言葉は、マイノリティが既存の言葉ではどうしても伝えられなかった苦しみや想いを伝えるために生まれてきたものなのかもしれません。きっと「大きい主語」も、この言葉だからこそ映せる世界があり、響かせられる声があるのだと思います。

響いた声も、数を増して音が大きくなれば、ただの喧騒になってしまいます。喧騒の中では、これまで聞こえてきた声が埋もれてしまい、別の新たな言葉が与えられるまで耐え忍ぶしかない時間を過ごす人を生んでしまうかもしれません。その言葉が、先に書いたような「鋭い述語」なんて表現であるとは思いませんが、きっと、時代の流れを汲んだ答えとも言える言葉が、そのうちまた生まれてくるのだろうと思っています。

誰かを救うために生まれてきた新しい言葉。それがかえって誰かの声を奪うものになってしまいかねないのは、「大きい主語」に限らず、もしかするとあらゆる言葉が背負った運命なのかもしれません。

しかし、救いの手として望まれた言葉がそのように扱われるのは、悲しいことです。悲しみを繰り返さないためにまた新たな言葉が必要とされるのだとしたら、その応酬に終わりはあるのでしょうか。それとも、終止符の打たれないサイクルこそ言葉を生きるということであり、永遠に続く救いの手なんてないのでしょうか。

この文章の主語の大きさ。意識しながら書いてはみたものの、それがどれほどの大きさなのか自分でもわかっていません。少なくとも、誰かの言葉を奪うようなものではないようにと願うためには、書くしかないのだと思います。辿り着いた三千字の終着点がなお、靄のままの世界であっても。



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