見出し画像

介護とコロナとアドラー?



自分の存在価値が無いように思える…

私は何の役に立っているのだろうか
私なんていない方が良いのではないか
私なんてどうせ…

ふとこのような思いをされたことはないでしょうか。

生きていく中では、うまくいくこともあればそうでない時もありますよね。
人間関係、仕事でのトラブル。
チャレンジしたことで壁にぶつかったとき。
大きなミスをしてしまったとき。
夢を断念しなければならなかったとき。
自分の思いどおりにならないとき。
以前まで出来ていたことが出来なくなったとき。

そんなとき、人は“自分の存在価値に不安”を感じてしまいます。
誰でも一度は経験されたことがあるのではないでしょうか。

自分の存在価値に不安を感じると、自分の人生である
“今、この瞬間”について前向きに考えることができない状態になってしまいます。
ポジティブに考えれば良い、
そんなこと気にしなくていい、
こんな風に声を掛けられても中々払拭できないのが、この“自分の存在価値への不安”ではないでしょうか。

なぜこのような思いになってしまうのか、
何が要因となり、どのように対処すれば良いのか。

今回は“自分自身の存在価値に不安”を感じる方に対し、人の生きる・活きるを支える介護職の視点でお伝えできればと思います。

自身の存在価値を肯定できない利用者様との出会い

「私は厄介ね」「迷惑ばかりかけてごめんね」「人様に迷惑かけて情けない」「こんな体になって、もうダメね」「私なんて…」「こんな時間まで…」「こんな汚いことさせてごめんね…」

介護サービスを受けるご利用者の方々は、このような思いを私たち介護職に打ち明けて下さることがあります。

自分の身体が思うように動かない歯がゆさ、思いと行動が一致しない、人に迷惑をかけているといった焦燥感。この先がどうなるのかという不安。思考の整理と感情のバランスがうまく保てず不安定な状態。自分の状態をわかってもらえない悲しみ。自分の感情をどのように表現したら良いのかわからない怒りや虚しさ。大事なことが少しずつ自分の意識や“今”からこぼれ落ちていく悲しみ。

以前の記事にも記載させていただきましたが、介護現場には“人のリアル”が多く存在し、全てがすぐに解決するような魔法は存在しません。

人が老いるということは人間の生物としてのプロセスの一つであり、そこから免れることはできません。その中では、喜びだけでなく不安や悲しみや苦しみを感じることもあります。
このような時、ご利用者の方々はご自身の存在について不安を感じておられます。

この思いに対し、共感的理解をもって接し、その方の思いを汲み取って支援していく。これは私たち介護職が支援を行うにあたり持たねばならない姿勢の一つです。

共感的理解、これは確かに心理学や対人援助の技法として示されるものです。
とはいえ、勿論この実践も積極的に取り組んでいたのですが、未熟な私は形式に捉われてしまい、どこか腹に落ちないような感覚を持っていました。
共感とは言えど、私自身が経験したことがないものに対して理解を示すことなどできるのだろうか、そもそも、半端な理解から生み出された言葉で、相手の方の思いにお応えすることなど失礼なのではないかと私自身の言動に疑問が残る毎日でした。

しかし、ここ数年である機会を通し、私は身をもって明確に理解しました。

ある機会、それは新型コロナウィルスの感染対応

ある機会とは、新型コロナウィルスにより発生した人と人との交流の断絶です。
私は複数の事業所を兼務させていただいているのですが、その分多くの感染対応を経験しました。

感染の可能性を減らすため面会を中止。
施設内での感染により個室で過ごす。
感染発生のため、通いのサービスが中止となり交流の場を失う。

このように今まで当然あったはずのものが様々な場面で断たれる、中断を余儀なくされる事態となりました。
しかし、その中だからこそ見えたものも多くありました。
その中の大きな一つが“人は共存共栄している”ということでした。

人が"存在することの価値"

コロナウィルス感染対応を通して私たちが見たのは、“人は共存共栄している”ということであり、アドラー心理学で言うところの『人はその存在自体に価値がある』という考え方そのものでした。

新型コロナウィルスによる様々な交流断絶の中で

電話でご利用者の状態を聞き涙されるご家族。
久々の再会に感極まり言葉すら出ないご家族とご利用者。
再会で手を握り合って互いに笑みを溢されるご利用者の方々。
容態が危ぶまれるご利用者が回復し、食事をされる姿に安堵の表情を浮かべる職員。 自宅療養を終えた職員が復帰した際に笑顔で迎えられる職員。

挙げれば言い切れないほど、様々なシーンを目にしました。

どの場面も"特別な何か"ではなく、その方の"存在自体"がそうさせたものです。ただ、人が人を感じた瞬間の温かさに溢れ、それは正に存在自体の喜びを互いに分かち合っている姿でした。


新型コロナウィルス自体が特別なことであり、普段と異なる状況であったという見方もできますが、これらを乗り越え、以前の当たり前をこんなにも喜ぶことが出来る。
それは、実際は当たり前が当たり前でなく、当たり前のこの状況が本当は“尊く有難い”ものであるという見方も出来るのではないでしょうか。

存在価値に不安を感じる要因と対処


願望と実際のズレ(要因)

不安に感じてしまう大きな要因の一つには、自分自身“今”に対する見方“自分自身の願望に偏っている”ということが言えるのではないでしょうか。

間違い探し 4箇所 左右の絵を比較(ヒントは最下部)


人は願望をもって当然であり、願望は成長や変化の糧になるものです。

しかし、願望にとらわれすぎてしまうと、願望が叶わない間の“今”に焦りや不安を感じてしまいます。この焦りや不安が生じると、自分が「出来ていない」というような、ネガティブな思考、見方に偏り「出来ていない」ことに過敏になってしまいます。
過去に自身が積み上げてきたものや、未来への可能性といった部分までもが見えなくなり、遂には自らの存在価値まで疑ってしまうようになります。
こうなると、霧の中に迷い込んだように何もかもが見えなくなってしまうのです。

一度この霧の中に迷い込むと、自分一人では中々抜け出すことはできません。

霧の中で段々と自身の無力差を感じ、次第に霧を抜け出すことすら諦めてしまうようになってしまいます。

この霧の中から抜け出すにはどうしたら良いのでしょうか。

霧を抜け出すために(対処)

自分の“今”を声に出してみてください。
霧に入ると中々姿は見えませんが、声は聞こえるはずです。
ひとりで霧の中に入っているように見えますが、それは思い込みに過ぎず、霧の外にはあなたの存在を心待ちにしていた方々がたくさん待っています。

その方々は、霧の中から出てきたあなたの存在自体喜び霧の正体はあなた自身が作り出した霧であること、不安に駆られなくても良いことを教えてくれます。
そしてこの霧との付き合い方や向き合い方を一緒に考え、手を取り合ってくれるはずです。

最後に


ここまでお時間をいただき、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。
今回の投稿を決意したのは、冒頭でもお伝えしました、ご利用者様の声がきっかけでした。
しかし、以前の記事でもお伝えしたように、私たち介護職は、人の生【活】きる、を支援させていただく仕事です。介護現場だけでなく、生活の様々な場面で応用できる思考や実践に溢れています。
今のご時世、不確実性が高まる中で、先が見えない不安や焦りを抱え、今回のような「自分自身の存在価値に不安を感じる」方はている方は多いのではないでしょうか。

介護という職種の視点であるからこそ伝えられるもの、皆さんにお届けできる経験はないかと思い記事に致しました。

私たち介護職は「人の可能性を共に信じ、思考し、その方らしさをサポートしていく専門職」でもあります。この「共に」なにかを感じられる、この経験も介護職ならではの喜びです。
今回のコロナウィルス感染対応で感じられたことも全て私の財産であり、介護職としてのやりがいでもあります。

ご利用者様は介助を受ける際にたくさんのことに対して私たちを気遣ってくださりますが、この場を借りて私の思いを文章に残しておきたいと思います。

「焦らないでください。どうか不安に押しつぶされないでください。あなたがここにいることが、あなたの存在に生(活)かされている方がたくさんいます。私もその一人です。私の“今”はあなたがいてくださったからこそなんです」

※間違い探しの画像ですが、実は3つです。
すぐに気づいた方もおられるかもしれません。
人の思い込みとは…という体験をしていただきたく誤情報を記載させていただきました。お許しください。
4つ見つかった方はいらっしゃいませんでしたか?

ヒント:以下は本当です笑
1,色が変わった〇べ
2,人が一人……
3,ボー〇?

noteを始めさせていただき、4つ目の投稿をさせていただきました。
たくさんのビューとスキ、フォローをありがとうございます。いつも励みをいただいております。
そして私自身も皆様のnoteを楽しみにいつも読ませていただき刺激と学びをいただいています。ありがとうございます。

今後は介護の専門的知識についても投稿していきたいと考えております。

お時間をいただける方、興味を持っていたる方は是非お付き合いいただければ幸いです。

今後ともよろしくお願い致します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?