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余白(誰も追い詰めない優しさ)

好きな文章を書く人がいる。その人の文章をなぜ好きなのかと自分に問いかけてみる。


『花に心を寄せ、鳥と会話し、風に目を閉じて、星を想う。そうして歩くこの道を、愛しいと思わずにはいられない。』(『春愁のうた』夕星みみさん)


美しい詩に触れると、いつか街の片隅で見かけた風景が浮かぶ。その風景に詩がぴたっとはまる


もうそれ以上ないような適合性で
やっと巡り会えた恋人同士のように

詩は風景に収まる

優しい余白を残しながら…



夕星みみさんのnote
    『春愁のうた』より



今日訃報が届いた。首から下の麻痺を抱えながら、美しい詩画を描いた星野富弘さんが亡くなった。彼の短い詩を添えた、余白のたっぷりある美しい風景画が好きだった。



『悲しみの意味』星野富弘





『いのち』より大切なもの…

星野さんは、たくさんの余白を残して、私たちに問いかけた

星野さんは答えを見つけたのだろう


『いのちより大切なものがあると知った日
生きているのが嬉しかった』

(『いのちよりも大切なもの』星野富弘)



『いのちより大切なもの』星野富弘




「星野富弘さんの事故」


星野富弘さんは、1946年に群馬県の現在のみどり市に生まれ、群馬大学を卒業して、中学の体育の教師になります。しかし1970年6月に器械体操の跳び箱で宙返りした時に、首の骨を折る大事故をし、頸髄損傷で、肩から下が麻連し、用便も食事もできない状態になりました。生きる意味を見失い、何度も自殺を考えたということです。彼は、「舌を噛み切ったら死ぬかもしれないと考えたりした。食事をしないで餓死しようともした。が、はらがへって死にそうだった。死にそうになると生きたいと思った。母に首をしめてもらおうと思ったが、母を殺人犯にさせるわけにはいかなかった。」と当時のことを述懐しています。


「自分の弱さを徹底して知る」


人生に絶望していた時に、大学の友人でクリスチャンの米谷さんが病院に星野さんを見舞いに聖書を持ってきました。しかし、星野さんはその聖書を読まないで、段ボール箱に入れて放置していたそうです。どうしてでしょうか?彼が、聖書を開くことに抵抗感を感じたのは、「あいつは、苦しくて、とうとうキリスト教という神様まですがりついたのか」と言われることを恐れていたからです。神様を言じるのは弱いからであって、もっと自分は強くならなければという思いがあったのです。実際、星野さんのそれまでの歩みは、自分の身体を鍛えて、強くなるという意思に貫かれていました。


しかし、気管切開して口も開けなくなった時に、自分の弱さを痛切に感じざるを得ませんでした。自分の弱さを知らなければ、人は神に白旗を上げようとはしません。彼は、人工呼吸器に繋がれて、天井を見て生活する日が続くなかで、「私が強くなろうと思ってやった色々なことは、その時私を強くしてくれていたのではなく、弱さを、いつだって自分の弱さを思い知らしていたのではなかったのか。私はその弱さを自分で認めることが恐くて、無理に強くなったと自分にごまかしていいきかしてきたのではなかったか」と自問自答し、それは、「強さという衣を着たに過ぎない私の引さそのものではなかったのか」と述べています。そして彼は、「もしかしたら、私はほんとうの自分の姿にもどったのではないだろうか」と述べています。これは大事な気づきです。人は自分の弱さやちっぽけさを知る時に、自分を超えた神の力と愛に眼が開かれていきます。人は自分で生きているのではなく、神によって生かされていることを知るようになります。

「自分の醜さを知る」


星野さんは病院で骨折をして入院しているクリスチャン女性から『塩狩峠』、『道ありき』、『光あるうちに』を読むように紹介されて、私たちは、「生きているのではなく、生かされているのです」という三浦綾子さんの言葉に心を動かされるようになります。この時から彼は、米谷さんが持ってきた聖書を渇きを持って読み始めるようになります。
と同時に、彼は、病院でのある出来事を通して、自分の醜さに目が開かれます。それは、スキー大会で転倒し、星野さんと同様に、四肢が全く麻連してしまった中学生のター坊が、腕も足も動くようになり、自分で排泄をし、食事が出来るようになったことでした。それまで、星野さんは、自分と同じ不自由な状態にあったター坊を励ましていましたが、この時は、ター坊の回復を喜べず、強い嫉妬を抱いたのです。後に星野さんは、この時の経験を次のように詩で表現しています。


「体のどこかが人の不幸を笑っている。
ひとのしあわせがにがにがしく
『あいつもおれみたいに動けなくなればいい』と思ったりする。
体の不自由から生じたひがみだろうか。
心の隅にあった醜いものが、しだいにふくらんできたような気がする。
自分が正しくもないのに人を許せない苦しみは手足の動かない苦しみをはるかに上回ってしまった。」



「イエス・キリストを信じる」


星野さんは、本当の自分の姿に向き合うようになり、心の底に鉛のように重く溜まっている孤独や不安、罪責感に恐れおののくようになります。その時に彼が、聖書を開き、慰めを与えられたのが、イエスの招きの言葉でした。


「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
彼は、この時の経験を後に次のように証しています。


「思い切って、イエス様の名を呼び、聖書を開いてみました。そしたら長い間苦しみながら探していた私に語りかける言葉に会うことができました。上を向いて寝ている私の目に映るものは、天井の70枚のベニヤ板だけではなくなりました。その灰色のベニヤ板のつぎ目さえ、私たちのために血を流された十字架に思えます。楽しい時に感謝し、心の沈んでいる時、名を呼べる方が、今までになかった喜びです。」
星野さんは、十字架上で「父よ彼らをお赦し下さい。
彼らは何をしているのか、自分でわからないのです。」とご自身を十字架につける者たちのためにとりなしの祈りをされたイエス・キリストのことばを、自分のために語られた言葉として受け入れ、生涯イエスの招きに従っていくことを決意します。この時こそ、星野さんがいのちよりも大切なものを見出した瞬間です


そして星野さんは、1974年12月22日、事故が起こった4年半後に、自分の救いのために祈り、訪問してくれたクリスチャンたちの前で仰告白をし、洗礼を受けます。


「新たな使命」



星野さんの教師生活はわずか2ヶ月でした。しかし彼は、9年間の入院生活の中で、キリストにあって、新たな生きる意味を見出し、新たな使命を与えられました。それは、口に筆を加え、絵や詩を書き、キリストによって生かされている喜びを多くの苦しんでいる人々に伝えることでした。確かに星野さんの詩画には、八木重吉や水野源三の詩のようにキリストの愛や救いが前面に出ているわけではありません。「いのちよりも大事なもの」の詩に答えがあるわけではありません。また「人間にとってどうしても必要なものはただ一つ」と書きながら、それが一体何であるかが書かれていません。読者は、「いのちより大事なものはなにか」、「どうしても必要なものはなにか」を自分で真剣に考えるように導かれるのです。



<本文はこちらのサイトより引用>




孫娘が生まれた時
私はお嫁さんに聞いた。

『赤ちゃんが産まれた時
“生きててよかった”
“自分のいのちより大切なものがある”って思ったやろう?』


お嫁さんは、喜びを顔いっぱいに浮かべて、少し目を潤ませながら
私をまっすぐ見て、『はい!』と答えた。

あなたもこんな風にして
お母さんに迎えられたんだよ。

そして、この赤ちゃんの父親も
こんな風にして産まれてきたんだよ。


そんな景色は本当に美しい
そして少し懐かしくて
胸がキュンとなる


いのちより大切なもの

     私にも確かにある💖




『春愁のうた』夕星みみさんのnoteより



*星野富弘さんのご冥福を心よりお祈りします✝️

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