ミニクヒアクマノコ

 この物語は、著者の学生時代の実体験と
 教育現場に勤めた体験を元に描いている

 社会のために個人があるのでない
 個人のために社会があるのだ

 雨が降る街の中で、中嶋は雨宿りをしていた。彼は疲れていた。心身ともにボロボロだった。心労からくる疲労困パイの状態だ。精神的にも肉体的にも疲れ果ていた。
 空を見上げる。雨はまだ降り続けている。冷たい雫が零れ、彼の心を冷やしていく。
 まるで氷のように凍てつく冷たさだ。彼という存在そのものが消えていくような気がして、それが何とも言えず心地良かった。虚無感に苛まれながら、彼は心地良さを感じて…………
 奴らがやって来る、非情に、冷酷に。社会システムの歯車として、使命を果たすべくやって来る。社会という名の、敵がやって来る。社会システムという名の悪意が来る。社会システムの下、調和という名の拘束を振りかざす、暴力装置がやって来る。それが社会の掟だから。倫理でも道徳でもなく、義理でも人情でも人間味でもない。社会規範こそが正義なのだ。それを守れない者は悪であり、排除されるべきだとされる。
『我々は君を処分しなくてはならない』
 秩序の番人。警察機構の中でも精鋭揃いのエリート部隊。秩序の守護者にして執行官。彼らは法の代弁者であり、社会の影の支配者である。
 彼らは犯罪者や反体制派を狩る組織だ。法と正義を守ることを第一とする、法の支配のための組織。教育委員会所属国民指導部。国家権力そのものであり国家が生み出す闇。その実態は国家によって生み出された公安警察部隊である。彼らの主な任務は監視だ。そして犯罪を犯した者に制裁を与えること。彼らは罪人を裁くのでない。彼らは罪人を処罰するのだ。彼らにとって正義とは手段であって目的ではない。社会の秩序と安定を守るために存在するのが、彼ら、国民指導部である。
「日教組の犬が!! オレはまだ闘える!!!!」
『投降しろ、中嶋』
「!?」
 拡声器から聞こえる声、名前を呼ぶ声は、どこか懐かしい気持ちにさせた。
「赤城か……」
 冷たいガスマスクの裏からは、先ほどまでの合成音声と打って変わって、ひと肌を微かに感じる、真面目で低い声が聞こえた。中嶋には、目の前の男の正体が分かった。この声を、忘れるワケがない。忘れられない声の主、それは……そして今は……。
「そいつぁ出来ねぇ相談だな」
『……』
「オレぁテメェの生き方が気に入らねぇよ!! ソアが死んでも眉ひとつ動かさねぇ!! 自分(テメェ)の将来とキャリア大事の生き方がよ!!」
 中嶋は、ガスマスクの奥にある眼と視線が合った気がした。合った瞬間、想い出が頭を駆け巡った。懐かし過ぎて反吐の出る想い出を、捨てたハズの想い出を、裏切った想い出を……まるで手首を引く、白い手のように。
 銃撃戦が始まった。まず中嶋が撃ち始めたのを皮切りに、仲間たちが拳銃を撃ち始めた。すると国民指導部たちも弾幕を張る。国民指導員は白いガスマスク越しに訓練された隊列を組み、銃撃しつつ接近した。一方テロリストたちは距離を保とうとした。彼らは短機関銃を撃って威嚇するが指導部側が盾にしているトラックに命中するだけで効果は薄かった。国民指導員は銃を発砲して応戦した。トラックを楯にし、身を乗り出し自動小銃を撃つ。
 銃撃戦の中、中嶋の仲間は次々に撃たれていった。仲間の死体が転がっていく。死体が障害物になり警察側は前進できない。警察側に被害が出ていく。一方テロリストたちの一人が倒れた。胸に穴が空いている。
「くっ……」
 中嶋は手にギュッと握った黒い物体を国民指導部に向けて投げた。すると……ドカーン!!!!!!!!!!  爆音と共に国民指導部トラックの窓硝子は割れて、爆発した。そして炎が燃え広がる。まるで太陽のように激しく輝いて。その炎を呆然と見つめる周辺の人々。火炎瓶だ。ガソリンと灯油を使った火炎瓶。火がついたままトラックの下に落ちていくと爆発音が響く。人々は悲鳴を上げて逃げる。逃げろ! 危ないぞ! みんな避難しろ! という声が上がるとパニックになったように、一斉に逃げ出す。火事になって燃え広がってしまうことを恐れたのか?  ただ恐怖に支配されて我を忘れてしまったのか?……わからない。でもとにかく逃げた。中嶋の投げた火炎瓶を皮切りに、仲間たちも次々に火炎瓶を投げ始めた。次々と投げられ、次々と命中していく。火が国民指導部の部隊に燃え移り激しく炎上。隊員の何人かは装甲服越しに炎にのたうつようにアスファルトへ転げる。全身火傷を負って動かなくなる者も出たようだ。だが……国民指導部はまるで、全部が織り込み済みだったかのように整然としていて、誰も取り乱していない。すぐに行動に移り出す。消火活動が始まるのだ。白いガスマスク越しに隊列を組み、淡々と消火ガスを噴出した。部隊の後ろに待機していた消防車にも指示を出し、消火器を使わせる。火の手が上がった処には放水銃を使って延焼を防いだ。その様子は明らかに慣れていて手際が良かった。どう考えてもこの火災が起こることが予測され、起こることを知っていたとしか思えないほど冷静だ。いや冷静すぎるくらいである。この部隊は最初からこの展開を見越して装備を整えてきたに違いない。中嶋たちはそれを実感した。これは計画された暴動だと確信せざるを得ない。計画的な鎮圧であり、作戦だ。
「ちっ!!」
 中嶋は思わず声を上げた。すると……
「中嶋!! 逃げよ!!」
 マンホールの中から女の子の声がした。
「海咲!?」
「早く!!」
 長い黒髪の女の子だ。中嶋はマンホールからの手に引かれるまま仲間たちとマンホールの世界に足を踏み入れた。ドンッ!! という低く鈍い音とともに蓋が閉じて……マンホールの中へ、消えていった。中嶋たちは五感が研ぎ澄まされたような感覚に襲われた。マンホールの壁の中を通り抜ける時、耳には水の流れる音が入り込み、鼻からは地下下水道独特の嫌な臭いが入ってきた。肌には湿っぽい空気と外界の光を感じ、眼は外の空間に慣れていたせいで暗順応を起こし、視界がぼやけていた。そのすべてが一瞬にして感じられた。
「また死んだの? いっぱい」
「あぁ……連中圧力を強めている」
 海咲からの声に、中嶋は答える。
「慣れてきた?」
「なわけねぇだろ!!」
「!?」
 中嶋は、声が一瞬震えた。そのことに海咲は気づいていたが、中嶋はすぐに太く小さな声に戻し
「初めて仲間が死んだ時、思ったんだ。オレは弱いって。あの日のことは、今でも忘れない」
「……」
 海咲はちょっとだが口角をニコリと上げて、すぐに真面目な表情に戻った。安心したかのように、マンホールの世界を歩き出す。
 暗闇に眼をならせば、ジメジメとした湿気がまとわりつき、カビ臭さが鼻につく。下水道の中は暗く、狭く、息苦しい。地下世界は地上世界の闇よりも濃い暗黒に包まれていた。闇の中に点々と続くオレンジ色のランプだけが頼りである。
 中嶋と海咲たちはまるで勝手知ったる自分の家のように、この暗闇の中をスタスタと歩いている。慣れた様子だ。二人にとって仲間にとって、ここの景色は日常だった。やがて目の前がパッと明るくなる。眩しくて眼を閉じてしまった……眼を開ける頃にはもうすでにそこは先程とは全然違う場所にいた。
 中嶋たちの前に現れたのは巨大な被差別部落である。部落の北側に駅と高架線が見える。線路を越えると華やかな街並みが見え、その向こうには輝くビル群が立ち並んでいる。それはまるで未来都市のように電飾されてキラキラとしていて、明々とネオンの灯りが一帯を照らす。ここからよく見える紫の灯りは、どうやらパチンコ屋らしい。大きな看板が出ている。さらに目を凝らすと、風俗店もあった。おそらくそこらがいわゆるソープランドという奴だろう。さらに目を移すとその先にラブホテルらしき電飾の看板も確認できた。どの建物も大きくて豪華だ。高級志向のクラブやキャバクラが多いようである。
 その華やかさとは裏腹に駅からすぐ南側一帯は日本でありながら日本の風景とは思えなかった。どこか違う世界へ来たような違和感があった。しかし同時にひどく居心地の良さを感じた。不思議な感覚だった。
 高い建物は一切なく空が広く見える。巨大なビルもない。あるのはトタン屋根とバラックの家々、そして小さな屋台だけだった。舗装されていない道には人がごった返している。老若男女を問わず皆笑顔であり活気があり生き生きとしている。屋台には鳥や豚の生肉が吊されている光景がよく見え、肉料理を売っていたり魚貝類の網焼きを売っている店が多いようだ。その屋台の奥からは香ばしい煙とともにいい匂いが立ち込めている。そしてママの呼ぶ声に、子どもたちが裸足で駆けていく。その先の三角公園では、自販機で酒を買った大人たちが集まって談笑したり遊んだりして笑い合っている。そんな日常があった。

「中嶋ー! 見て見てー」
 命がけで還ってきた中嶋と仲間たち……そんな彼らの前に、またひとつ日常が迎え入れてきた。
「おーサラン! また舞りを見せてくれるのか?」
「うん!」
 サランはニッコリ微笑み大きくうなずいた。そして舞りを元気よく見せる。彼女の舞う姿は、日常の幸せや笑顔、活気、そして居心地の良さを体現するような、不思議な力があった。その美しさに見惚れると、時間が止まるような錯覚を憶える。
 時が止まったかのような錯覚を憶えながらも、 時は確かに流れているという矛盾を感じることができる。
「どおー?」
「ハハハ、とても素敵だよ、サラン」
「よかった!」
 中嶋は命がけで還ってきた所だ。疲れているハズだというのに、なんだかとても嬉しそうだった。だが海咲は……
「……」
 中嶋の余所でふくれっ面だ。
「ねぇねぇ中嶋! 私、明日夢叶えるんだ!」
「うん? 夢ってなんだい? サラン」
「私ね! 明日、アイドルグループ宝の入団テストに出るんだ!」
「え……」
 アイドルグループ宝、それは、ここの地元では知らない人などいない、最大のステージと最高のパフォーマンスを見せる大きなアイドルグループである。
 宝直営の劇場にはいつも人が溢れていて、公演は満員御礼となることが多いというほど人気であり、数々の名優を生み出した由緒ある歴史のあるアイドルグループでもある。また、歌やダンスだけでなく、演劇にも手掛けているのも特徴の一つである。そして、最近ではミュージカルにも力を入れており、世界的にも注目されている存在となった。特に近年は海外からの観光客も多く訪れるようになり、海外公演の機会も増えた。そのため外国人のスターも増えてきたというわけだ。
「中嶋がサランの舞り、いっぱい褒めてくれたのが嬉しかったから!」
「……」
 そう話す彼女の笑顔に、一辺の曇りもあるハズがなく、また、彼女が語る夢にも一切の濁りもなかった。とても純粋で、穢れなき夢であることは、痛いほどに伝わってきた。
「……」
 だからこそ中嶋は、
「そうか! 素敵だな! 受かるといいな」
「うん!」
 黙って彼女の背中を押した。
「……」
 だがその表情には、一辺の曇りがあった。そのことに気づいたのは、実は、海咲ひとりだった。
「私がステージに立ったら一番に観に来てよね! 中嶋!」
「え……」
「宝のステージに立つの緊張するな~だってアイドルだよー私!」
「……」
 そう話す彼女の笑顔に、一辺の曇りもあるハズがなく、また、彼女が語る夢にも一切の濁りもなかった。とても純粋で、穢れなき夢であることは、痛いほどに伝わってきた。だから……
「ああそうだな! 一番に観に行ってやる!」
 中嶋がそう答えることを、ここにいる誰が責められるだろう?
「……」
 海咲は中嶋の表情の違和感を一番最初に気づいた。だからジッと中嶋の顔を見ていた。だがその意味までは……判らなかった。
「そう言えば中嶋?」
「ん?」
「組長が呼んでたよー?」
「親父が!?」
「“シノギ”と“ジョーノーキン”のことだって」
「……」
 中嶋は緊張感ある顔つきに戻った。眉間にシワを寄せた表情だった。
「判った。すぐ行く」

 狂骨会三叉組事務所

 木造建築二階建てビル。正面には古びた木製の表札、黒塗りされた窓枠からは白い蛍光灯の灯りか漏れる。ビルの玄関前には小さな駐車場。立て付けの悪い引き戸の上には大きな「三叉組」の看板。建物の右側には「ラーメン煉極」、「餃子王冠」「しゃぶ彩」「中華飯店天華國」というチェーン店が並ぶ飲食店。向かい側には赤茶色の壁をした喫茶店『ローズガーデン』、右隣りには煙草屋と金物屋のセット販売所。左隣の美容室は店名『ヘアーサロンR.A』。さらに左側には『スーパー万世』、『ドラッグストア西薬局』『魚肉市場』といった商店が並んでいる。
 立て付けの悪い引き戸を中嶋が開く。ギーという音を立てて開かれた引き戸の向こうには石の土間がある。中嶋は靴を脱ぎ式台を昇った。無愛想さを持ちながらも何処か敬意と礼節を重んじる態度で石畳の上を歩く。板張りの床を踏みしめていく。それから狭く急な階段を昇り、狭い廊下を向かった先に、大きな黒檀の大机があり椅子があった。そこに体格の大きな男がいる。額に傷痕のある男は、白髪混じりの頭をオールバックにし顎鬚を生やした貫禄のある男だ。彼は大柄の身体に和服を着ている。黒い紋付羽織に紺色の袴を身につけている。
「よく来たな」
 三叉組長はニッコリ笑った顔で言う。彼はヤクザにしては温厚で柔和な雰囲気を持っていた。
「座ってくれ」
 そう言う彼の前には革張りのソファがある。中嶋はその言葉に従い、ペコリと一礼をして席に着く。そしてダークスーツの裏から、金の入った封筒を出した。
「今月の上納金です。お納めください」
「うむ……」
「それでは失礼します」
「ああ、待て」
 席を立とうとした中嶋に、三叉組長は……
「メシ、喰ってかねぇか?」

 事務所の一角、台所のある部屋で紺色のエプロンを着けた三叉組長が料理をする。手慣れた様子で無駄のない動きだ。三叉組長が中嶋に向かい合うようにして座り込むと、おもむろに口を開く。
「まあ座れよ」
 三叉組長が椅子を勧めるように言う。中嶋が向かい合って腰かけると同時に、眼の前に皿が置かれる。中嶋が視線を上げた。そこにはナムルにキムチ、豚肉、サンチュなどが並べられていた。中嶋は箸を手に取り、ペコリと一礼をして喰べる。食事中に会話はないらしい。二人は黙々と眼の前の食事を喰べ終えた後、食器を下げる。洗い物を済ませ、またテーブルに着く。それからお茶を入れ直して三叉組長が語り出す。
「お前も、デカくなったな」
 沈黙を破った声には懐かしさが滲む。
「はい」
「自分の組を持ってみてどうだ? 困ったことはねぇか?」
 その問い掛けにも親しさが込められているような気がした。
「おかげさまで、上手くやれてます」
「そうか」
 と言った後で、組長は煙草に火をつけた。フーっと紫色の煙を吐くと、
「あっ、ワリぃ。お前煙苦手なんだったな」
「いえ、大丈夫です」
 ひと息ついた組長は、想い出すように言葉を紡ぐ。
「お前がウチの組に来て、もう十三年か」
「はい」
「しかし変わった奴だよな。成績優秀、有名大学付属の進学校への入学も決まっていて、上級国民への将来が約束されていたお前が、なんでまた中卒で極道の道に」
「ここの部落が気に入ってるんです」
「ハハハ、この部落に好き好んで来る奴なんざ、お前と海咲ぐらいのもんだろうよ」
「海咲はこの部落の文化が元々好きならしいですよ」
「それだけじゃねぇよ」
「は?」
 三叉組長は煙草の煙を吹くと、ニヤリと中嶋を見た。
「で、お前の組、サンライズ……だったか?」
「はい……」
「それは舎弟や子分を、喰わせていけるモノなのか?」
「……」
「いや、お前んとこのシノギが上手くやれてるのは判る。現に喰わせてはいけてるさ。だがな、お前がやってる日教組や教育委員会、国民指導部への抵抗活動、ありゃ必要なのか?」
「みなよく着いてきてくれてます……しかし、奴らはじき、この部落への大規模な鎮圧活動にも乗り出しますよ。現に今、多くの部落出身者が強制収容処への連行も余儀なくされている、つまらねぇ罪をなすり憑けて」
「いや、判るよ。だがオレが言いてぇのはな」
 三叉組長はフーっとひと息吐くと、静かに話し出す。
「中嶋、極道が下のもんに本来してやることは、一宿一飯を約束すること、喰わしてやることだ」
「……」
「オレの親父の代のこの部落は大変だった。メシはねぇ住む家もねぇ、みんな飢えて死ぬのを待つバカリだ」
「それを狂骨会が」
「ああ、政府に黙って闇市を開いて喰わしてやった。カタギには泥棒市とか罵られたがな」
「……」
「中嶋、ヤクザには二種類のバカがいる。ヤクザにしかなれなかったバカと、好き好んでヤクザになったバカだ。中嶋、お前はどっちだ?」
 その問いかけに、答えることができなかった。


 日教組中央教育会館

 観光客で賑わう炎大門広場のすぐ近く、高さ六メートル余りの赤い壁で囲まれ、一般人の立ち入りが制限された区画にある巨大な建物、そこが日教組の中央本部であり日教組の象徴である中央教育会館だ。日教組はこの中央教育会館に全国の小中学校の教師を集め研修を行う。全国の教員たちがここに集まり、四年をかけて教師としての心構えなどを学び合い、親睦を深めるのだと聞いている。
 その中央教育会館には様々な部屋があり、会議をする場所や、教員同士の話し合いに使う大会議室もあれば、音楽ホールもあり演劇ができる舞台もある。さらに地下一階には広い食堂もあった。地区の南、首都メトロポリスのメインストリートである曼珠街に面した正門である彼岸門には、「偉大なる革命共闘万歳」、「必勝不敗の教育思想万歳」のスローガンが電飾とネオンで明々と掲げてある。
 また正門の左右には、巨大な革命の闘士の像があった。革命の指導者である奥田剛士とその妻、繁宣風子の姿を象った像であった。二人の像は笑顔で銃を握りしめ、まさに「国民よ、武器を持て」を象徴するような勇ましい姿をしていた。
 そんな中央教育会館の門を叩く男がいる。赤城だ。国民指導部長官である赤城は、万全のセキュリティを施した自動ドアの前に赤城は立つ。監視カメラと高圧電流の流れる鉄線越しに、声紋と虹彩を確認。サーという音を立てて開かれた自動ドアの向こうにはレッドカーペットがある。赤城は是灯ライトに人民服を照らされレッドカーペットに誘われる。礼節を重んじる生真面目な態度でレッドカーペットの上を歩む。大理石の床を踏みしめていく。それからレッドカーペット引かれる緩やかな階段を昇り、広い廊下を向かった先に、大きな格子戸があった。その先にあったものは、広大なスペースを有する空間。高い天井。壁を覆うように設置された大型のモニター。まるで高級レストランのような内装。赤いカーテンで覆われた奥にあるのはVIP席だろう。
 そして部屋の真ん中に置かれた机。その上に置かれているのは、タブレット端末だった。それを囲むようにソファが置かれ、革製の背の高い椅子が置かれている。部屋に入った瞬間、思わず足を止めてしまうような雰囲気があるのにも関わらず、室内にいるのは赤城ただ一人。赤城が慣れた様子で部屋に入れば、背後の格子戸がガチャンと閉じられた。
「よく来たな」
 と誰かの声。どこか威厳に満ちた口調だが、赤城に向けられたものとは思えない。
 すると、テーブルの上にあったタブレット端末が突然、カタカタと音を鳴らして動き出す。次の瞬間、パッと画面が切り替わる。年齢は四十代後半くらいだろうか?  やや堅肥りの長身の男である。カミツ髭を豊かにたくわえている。眉間にシワを寄せ、目の下に隈があり、神経質そうに見える。服装は威厳ある人民服に勲章を幾つも着けている。髪の色は白っぽい灰色、オールバックで後ろに撫で付けている。眼は鋭い光を放ち、眼光の鋭さが窺える。口元は真一文字に引き締められ、手にはステッキを持っている。そして、左手の拳を固く握りしめ、全身からピリピリした空気を発しており、「私は不機嫌です!」と言わんばかりだ。まるで鋼鉄の人という比喩が相応しい。そんな雰囲気の人物がタブレットの液晶画面の中に映し出されている。これが独裁者の貫禄というやつか……。
「報告を受けようか」
 彼の言葉遣い、話し方は官僚的で機械的だった。抑揚がなく、棒読みに近い感じだ。その喋り方、口調は冷たく、威圧感があった。まるで機械音声のように聞こえる時もあった。あるいは録音された声を聞いていらかのような印象を覚えることもあるだろう。彼の口振りには温かみはなく、事務的であり、感情というものがまったく込められていないような気がした。
「報告致します、ヒロノブ委員長」
 赤城は敬礼をすると、力強く、生真面目に話し出す。
「抵抗勢力サンライズ並び、反逆者中嶋を取り逃がしました。しかし痕跡から、被差別部落エリア51を拠点にしている可能性が非常に高いです。今後は中嶋の拠点と思われる被差別部落エリア51を重点的に捜索します」
 彼の報告に対し、ヒロノブ委員長は眉一つ動かさず答えた。
「近日にエリア51に対し大粛清を行おう」
「は?」
「穢れは浄化するモノだ」
「お言葉ですが委員長!!」
 赤城は相も変わらず生真面目な態度で答えた。
「粛清には多くの人民の血を流す上、国民指導員へのプレッシャー・ストレスも大きいです。中嶋とサンライズの拠点という点も不確かなため、大粛清は最善とは言い難いです」
「君は嫌いだ」
「は?」
 赤城は耳を疑うように聞き返した。
「判った。国民指導部は引き続き調査を続行したまえ」
「は!」
 だがすぐに疑問を払った。
「あー、それと君」
「はい」
 ヒロノブ委員長は以前にも増して冷たく、威圧感な口調で。
「研修を命じる。第七再教育収容処へ明日向かいたまえ」
「は……」
 研修……という言葉には温かみはなく、事務的であり、感情というものがまったく込められていないような気がした。
「被差別人種共、土人、穢多、非人共の臭いと末路を、改めて学びたまえ」
 ガチャリと、まるで切り棄てるようにテーブルの上にあったタブレット端末が切れ、映像が途絶えた。
「……」
 赤城は不機嫌そうな顔つきで、部屋を後にした。
「……」
 軍靴の音を立て、彼の頭の中には、
「……」
 中嶋と過ごした時間が繰り返し想い出された。

 十三年前、中嶋と赤城は同級生だった。しかもただの同級生でない、熾烈に成績を競い合う、ライバル同士だった。二人は同じクラスで、席まで隣同士だった。一方的にではあったが、赤城は中嶋を敵視していた、まるで自分の一部であるかのように……。
 だが同時に、中嶋と赤城は幼なじみの親友同士でもあった。二人の過去を知る人物に訊けば、誰もが口を揃えてこう言うだろう。二人はいつも一緒だったと。二人の仲自体は良かった。幼なじみの親友同士なのは間違いなかったのだ。
 中嶋と赤城には共通するものがあった。それが学年トップの成績だ。優秀な成績、約束された上級国民への道、共通するそれは、友情や信頼と同時、嫉妬心とライバル意識を赤城に持たせた。赤城にとって中嶋の存在は、自分が上へ上へ駆け昇るための足掛かりだった。
 だが相反するモノもある。不良と優等生という相反するレッテルである。中嶋は成績優秀ながらも素行は不良のそれだった。対して赤城は、素行も優等生のそれだった。中学になるとその色はいっそう強くなっていった。
 中嶋は被差別部落出身の後輩、ソアとの仲を深めていった。中嶋自身も、上級国民への道を約束されていながら被差別部落に出向くことが多くなった。赤城はそんな中嶋を赦せなかった。赤城にとって自分が上へ上へ駆け昇るための足掛かりだった中嶋、ライバルであり親友だった中嶋が、どんどん自分の目指すエリート街道から外れていく。それはまるで自分の生き方を否定されたかのようであり、かつての親友を奪われたかのようでもあり、また……裏切られたかのような気持ちになった。赤城は……中嶋を、認められない、認めてはいけない。そう思った。

「それが……よりによってヤクザになった」
 赤城は不機嫌そうな顔つきで、部屋を後にした。
「日教組、教育委員会……確かに問題だらけだ」
 軍靴の音を立て、彼の頭の中には、
「だが中嶋、必要なのは革命ではない。改革だ。革命は潰される」
 中嶋と過ごした時間が繰り返し想い出された。
「……」
 ふと立ち止まった赤城は、ボソリと呟いた。
「ソアの自殺……あの事件から、中嶋は変わったな」
 赤城は生真面目な瞳を、ふっと遠い眼に変えた。
「中嶋、ソアが望んでいたことは……」


 満員電車の車内が人で溢れている。座席はすべて埋まっていて、電車内は静寂に包まれていた。ヘッドフォンをつけた人々は一様に押し黙っている。会話をする者はいない。皆、静かに座って目を閉じている。眠っている者もいる。誰も喋らない。まるで葬式会場のような雰囲気だ。皆ヘッドフォンの音楽以外は何も聞こえてこない。外界の音は全て遮断されている。ヘッドフォンをつけて無言でじっとしている乗客たち。電車はゆっくりと走っている。
 サランは初めての電車にソワソワとしていた。“どうしてみんなこんなに静かなのだろう?”と、キョトン顔でつり革を握っている。自分の産まれた部落との違いにビックリしていた。ここは静かすぎると思う。何かが変だとは思う。でもそれがなんなのか、うまく言葉にはできなかった。そんなことを考えているうちに、ふと車窓から流れる景色を見ると、
「!?」
 そこには、
「うわー!」
 サランが今まで見たことのない、北側の景色が広がっていた。まるで近未来都市のような光景である。高層建築が立ち並び、空中を自動車と自転車が飛び交い混在していた。歩道では人々がスマホ片手に行き交っている。街灯が眩しく輝き、街路樹の緑が生き生きとしていて清々しい雰囲気だった。ビル群と電柱に区切られて空が小さく見える。サランは車窓の外の風景に見惚れていた。ずっと眺めていても飽きそうもないくらい素敵な風景である。
 車内アナウンスが流れ、間もなく降車駅に到着することが告げられた。
「間もなく目的地に着きます。お降りの方は、お忘れ物のなきようご注意ください」
 車掌の声が響いた。車内にいる人々の視線が声の方へ集中した。その声はまるでロボットのような抑揚のないもので、どこか無機質な感じをサランは受けた。
 電車を降り、人々の行列に流されるようにサランは駅のホームを抜け、改札へ向かう。サランは自分の番になったことに気づくと慌てて切符を出して、改札口を通る。改札口を出ると、大きな道路に沿って沢山の高層ビルが立ち並ぶ近代的な風景が広がり、駅の周りでは沢山の人々が行き交っている。スーツ姿のサラリーマン、OL風の女性グループ、学生服に身を包んだ若者達など様々だ。道端には自動運転の車が列をなして止まっており、歩道にも人々が溢れていた。駅のロータリーには何台ものタクシーが停まっている。またバス停らしき看板もあり、その向こうにはビルが立ち並んでいる。
「ここから私の新しい生活が始まるのか……」
 サランは大きく深呼吸した。緊張して足が震えてしまう。鼓動が速くなり胸を押さえた。だが、すぐに顔を上げると真っ直ぐ前を見て歩こうとする。
「えーとアイドルグループ宝のオーディション会場は、駅を降りてここから……」
 サランは紙の地図を取り出すと、ジッと地図を見ながら歩き出した。

 アイドルグループ宝オーディション会場

 受付を済ませ、控室に入り、準備運動をし、身体を温め、水分を取り……緊張をほぐそうと必死な少女、サランが舞台裏に到着する。
「あ~、ドキドキしてきた」
 心臓が激しく高鳴る。足先まで小刻みに震えてきたような気がした。喉の奥に何かつかえたように苦しくなり呼吸さえ上手くできない。
 それでも、サランはこの胸の高まりを止められない。
「……ああ、早く舞台に立って、舞りたいなぁ」
 もうすぐチャンスが訪れるかもしれないと思うと、いても立ってもいられなくなるのだ。
「きっと中嶋、喜んでくれるよね」
 サランはクスリと咲った。そして瞳を閉じて、大きく深呼吸をした。舞台への期待で心臓が大きく高鳴っている。身体の奥底から湧いて来る熱い感情を抑えられない。全身が興奮に包まれている。まるで熱したフライパンの上に乗せられてグルングルン回されているような感覚だった。こんなにも激しく心が揺れ動くなんて産まれて初めてかもしれない。胸のドキドキが激しくて苦しい。早くこの鼓動を感じたい! そう思った。

「なに君? エリア51出身? そんなのいらないよ」
「え……」
「屍肉の臭いがウチにまで染み憑くじゃん? 部落の臭いにおい」
「……」
「てゆーかよく部落出身でウチに応募しようと思ったね? そんなにウチに入りたいのかな?  君、何かコネでもあるわけ?  それともその見た目を生かしてAV女優でもしたいとか?」
 会場を笑いが支配した。薄情の喝采と嘲笑の中、差別と蔑視に耐え切れずサランは泣き出してしまった。
「あ~あ、泣かしちゃったよ。まいっか、どうせ非人だ」
 その涙には悔しさだけではなかったかもしれない。怒りもあったがそれだけでもない。ただ哀しかったからだ。自分の中の大切な何かを、土足で踏みにじられたような、くだらない価値観によってメチャクチャにされ、辱められ、壊されていったような……そんな気がしたからだ。
 サランは無言のまま唇を噛んだ。悔しさが籠み上げると同時に惨めさに打ちのめされる。自分だけが何故ここまで貶められなければならないのか……? 思わず泣き顔を隠すようにうつむき眼を閉じてしまう。そしてうつむいたまま、小声で呟くように……
「……流れる血は」
「ん?」
「!!」
 サランは髪飾りのピンを髪から外すと、思いっきり自分の左手首に突き刺した。
「 な!?」
「見ろ! 手首を切って流れる血は同じ赤色じゃないか!!」
 手首から真っ赤な血が滴る、まるでサランの頬を伝う涙のように。その光景に誰もが息を呑み籠んだ。沈黙を会場が支配し、沈黙の舞台で、スポットを浴びたサランは血を流しながら叫んだ。
「なんで差別するんだ! 流れる血は同じ赤色なのに!!」

「で……血まみれになって還ってきたのか?」
 かやぶき屋根の下、コクリと頷くサラン。どうしてこんなことに…… この世に生を受けた瞬間から呪われていたのか。 何故こんな眼に遭わなくてはいけないのか。 何も悪いことをしていないのになぜ? どうして?  サランの頬を涙が伝う。
「……」
 中嶋は 哀しげな眼をして、黙って包帯を巻いていた。サランの左手首に白い包帯を巻きながら寡黙だった。こうなることは実は知っていたのだ。だが彼女の純朴な夢を語る眼差しに、現実を突きつけることはできなかった。それは優しさなのか? 人として中嶋のやったことは正しかったのか? サランは何も知らない。この世界の残酷さも、中嶋の葛藤も……
「サラン?」
 だから中嶋は、
「舞って」
「え?」
 そう呟いた。
「いつもみたいに、舞って」
「でも……」
 それは優しさなのか?
「いいから」
 人として正しいのか?
「……」
 サランは何も知らない。この世界の残酷さも、中嶋の葛藤も……
「わかった」
 中嶋は奥からウイスキーを取り出す。キュルキュルとウイスキーの蓋を開けると、床に腰をかけ、グラスに注いだ。そうして酒を吞みながらシアの舞りを見ていた。
「……」
 サランは舞った、包帯を左手首に巻き、かやぶき屋根の下で。白い包帯を時折揺らしながら彼女は舞う。左足を高く上げて、両手を広げて……くるりと廻り、そのたびにスカートがひらりとはためき、彼女の細い腰回りが見え隠れした。
 哀しみをのせて、でも……同時に、舞いながら浮かぶ景色は、大好きな部落の景色、いつも褒めてくれた中嶋の笑顔、くだらない価値観に踏みにじられてもなお色褪せることのない……夢? 想い出? 夢を見ていたのはサラン? 部落の人々? 中嶋? 彼女の舞りに夢を見ていたのは、一体誰だったろう……まるで花びらが舞うように可憐に美しく、彼女は舞い続けた。
「……」
 舞り終えた彼女が、ペコリと会釈をする。中嶋はウイスキーの入ったグラスをグイッと吞み干すと、
「綺麗だ」
「!?」
 ひと言だけ呟いた。
「っあ……」
 サランは、
「……」
 その場に泣き崩れた。
「大きなステージで……舞りたかったよー…………綺麗なドレスや紅い髪飾りで、スポットを浴びて……たくさんの人たちに囲まれて…………その中に……中嶋もいて………………」
「サラン……」
 中嶋はポンっと、彼女の肩に手をのせて
「そりゃオレだって、嬉しいよ。サランが晴れ舞台に上がったら、そりゃ嬉しいさ」
「……」
「でもな、オレは……アイドルみたいなデケぇ所の踊りなんかより、この故郷(ふるさと)で、舞るサランの舞りの方が、何百倍も大好きだ」
 サランはエンエンと泣き続けていた。涙に、悔しさも怒りも哀しみも……喜びも想い出も夢も、総て籠めて。

「学生時代、オレの後輩に、ソアって女子がいてな」
 ウイスキーを片手に酔った中嶋がボソボソと話し出す。中嶋の後ろで、泣き疲れたサランはベッドに横になったままうんうんと話を聴いていた。
「ソアはこの部落の出身だった」
「うん」
「あいつは気が強くてさ、先公共相手にも負けない娘だった」
「うん……」
 酒に酔った中嶋はダルそうに、しかし時折懐かしさや哀しみを滲ませて、ボソボソと話した。
「そんなソアと、なんか気が合ってさ。気がついたらオレら、いつも一緒にいてた。一緒にいて楽しかったし安心した。居心地がよかったんだ。
 ソアに連れられて、この部落にもよく足を運んだ。この部落も好きだった。ソアのにおいがするし、何より安心して、居心地がよかった。何でも受け入れてくれるみたいな、そんな感じがしたんだ。
 だけど……オレたちの時間を、奴らが奪った。教育委員会と日教組、先公共は、反抗的な態度だからか、ソアが部落出身者だからか、ソアに執拗に当たるようになっていった。ソアを管理しようとして調和という名の拘束を振りかざしてくる。もちろんソアは反抗するし、オレもソアを護ろうと必死だった。
「中嶋、もう私なんかほっといていいよ! こんなに庇ってもらうと迷惑なんだよ!!」
「何言ってんだほっとけるワケないだろ!!」
「だって私は部落出身者なの!!  中嶋と違って、フツウになりきれないし……部落出身者は差別されて虐められるのよ!!」
「オレが認めない!! オレがそうさせない!!!!」
「それにこのままじゃ、中嶋まできっと虐められるようになるよ!! せっかく上級国民になれるのに私のせいで!!  これ以上みんなを巻き込みたくないの!!!!」    
 と涙を流したソア。そんなことを言われたら何も言い返せなかったけど、納得できなかったから、せめて学校でも放課後でも、できるだけ一緒にいようとした。部落にもよく遊びにいくようにした。ソアを一人にしたくなかった。だがあの日……
 雨の日の体育館だ。先公と激しく言い合いになった。ソアを管理しようと必死の先公に、反抗するソア、やがて……先公はパイプ椅子を投げつけてきた。当時中学1年で恐くなったソアは、反射的に外に逃げ出した。その日は大雨だった。冷たい雨に打たれ、必死に逃げるソア、それを……先公は車で後ろから追いかけてきたんだ。いくらソアでも、恐くて仕方なかっただろう……恐くて、気持ち悪くて、冷たくて、そして……先公に追い憑められた時、ソアの眼に跳び籠んできた光景……先公は何か喚いて殴りつけてきたんだと。後は延々と運動場を走らされたんだ、雨の中な。たくさんの冷笑と陰口と囁き、クスクス嗤う声と流れてくるウワサ、降りしきる冷たい雨の彼方から、浴びせられ。
 オレがそのことを知ったのは、翌日の学校だった。昨日の今日だからだろうか、まだ登校してきた生徒は少ない時間なのに、みんな騒いでいた。その話題で持ちきりになっていたからだ。しかも悪い方に……。
 いつもより早く教室に入ったオレを待っていたのはあの空気の悪さだ。ソアに対する陰口や蔑みの囁き。置き去りにされたようにたたずむソア。
 オレはソアの手を引いて教室の外に出た。事情が知りたかったんだ。一体昨日何があったのか。
「何があったんだよ一体!?」
 オレがそう言うと、ソアは……張り詰めていた琴線が切れたかのように泣き崩れた。それから、昨日あったことをオレに全部話してくれた。話を聞いたオレの気分は、怒りに支配されたような感情だった……。オレは感情を抑えることができなくなっていた。だから、ついカッとなって、
「畜生!! 先公野郎!!!!」
 あんな大声を出した。
「ありがとう、中嶋。話、聴いてくれて……私は大丈夫。まだがんばれそうだから」
 だからなのか……彼女の言葉の半分も聞かず、オレは、職員室に殴り込んだんだ。赦せなかった。あの野郎どもが……。何度殺しても殺し足りないぐらい憎かった!  オレは怒りのままに殴り込んだ。でも、結果は散々だったよ。アイツらは反省なんてしない。それどころか逆ギレだ! 
「暴力教師だと!? ふざけんな! これは指導だ!  あの反抗的な穢多を社会に出て恥ずかしくないように教育してるんだ!!」
 などと、怒鳴り返すだけで、まるで話が通じなかった。赦せない。まるでオレたちが子どもだからと、何もできない、知らないとアグラをかいでるようだ!! オレは憎悪すら感じ、奴らを、教育委員会に訴えることに決めた。部落にソアと共に還り、親たちと連携して手紙を書いた、教育委員会宛への。すると親もオレたちに賛同してくれた。親たちもまた赦せなかったんだろう。こんな理不尽なことが許されることを!  そして親たちの運動もあってか、教育委員会は謝罪文を送りつけてきたが、それは口先だけの嘘だった! ただ自分たちが保身しか考えていなかった!! あいつはソアへの体罰をそれからも繰り返した!! 謝って終わりじゃねえ!! 赦さねぇぞ!! 教育委員会、校長、担任共!!  必ず報いを受けさせてやる!!!! だからオレは、今度は情報を新聞社にリークすることに決めた。そうすればマスコミが騒ぎ出し世論が高まる。これ以上隠蔽することができなくなる。オレが告発することでソアへの迫害を終わらせることができると思ったからだ!!」
 そこまで言い終えると中嶋は口を閉ざした、グラスに半分残ったウイスキーをグッと吞み干して。
「それから?」
 サランが後ろから訊くと、中嶋は溜め息をひとつ憑いて、
「話しすぎたな……今夜は」
 そう答えたが、サランには、
「ううん」
 そんなことよりも、
「ねぇ中嶋?」
 訊きたいことがあった。
「そのソアって後輩はさ、私に似てる?」
「……」
 サランが尋ねると中嶋は押し黙って
「似てほしくない……かな、できれば」
 と答えたが、サランは、
「……」
 疲れて眠りについてしまった。
「……」
 中嶋はグラスをギュッと握って、眉間にシワを寄せた。なんだかとても考え籠んだ様子で、
「……」
 溜め息をひとつ憑いて、握った手を緩めた。
「オレはな、あの時……ソアが跳び降りる直前、職員室の前で…………」
 言いかけたが口をつぐみ、中嶋は、
「……」
 思い出していた。あの男…… やや堅肥りの長身の男。カミツ髭を豊かにたくわえている。眉間にシワを寄せ、目の下に隈があり、神経質そうに見える。髪の色は白っぽい灰色、オールバックで後ろに撫で付けている。眼は鋭い光を放ち、眼光の鋭さが窺える。口元は真一文字に引き締められ、手にはステッキを持っている。そして、左手の拳を固く握りしめ、全身からピリピリした空気を発しており、「私は不機嫌です!」と言わんばかりだ。まるで鋼鉄の人という比喩が相応しい。あの男……
「ヒロノブ……」



 日教組ヒロノブ委員長からの通達を受けた赤城は、荒野へ向かう。荒野は一面、背の低い草木で覆われているだけの不毛な大地だった。ただ一つだけ特徴を挙げるとするならば、そこには、高いコンクリートの壁と高圧電流の流れる有刺鉄線に囲まれた施設があり、壁には巨大な鋼鉄製の門があって、そこだけは厳重に警備されているということだ。無数のサーチライトと番犬、銃を握った人民軍の兵士たちが辺りを警戒し、監視塔には、機関銃と自動小銃を装備した護衛兵が立っていた。ここは第七再教育収容処、赤城は研修にやって来た。ここで行われることを全て知るために……

 第七再教育収容処 研修記録

 ここでは、毎日約二,七四〇人が死ぬ。これは、死を許容して生きる洗脳という名の再教育を施すからだ。ここに来た者に人権などない。ここには、法律なんて通用しない。ここに来たら終わり。もう二度と生きて外の世界に出ることはないだろう。出られるとすれば洗脳という名の再教育を受け入れ、日教組教育と超社会主義国家に忠誠を誓った時だけだ。
 第七再教育収容処の唱える再教育、それは洗脳というなの拷問だ。つまりここにいる人間はみな、生きながらにして、死んでいるに等しい状況なのだ。そう、ここに入れられた時点で人間の尊厳は全て奪われると言っていい。

 収容処に働く人民軍と国民指導部は文書による命令を受ける。文書に記された命令は以下である。

「絶対に脱走を赦すな」
「違反行動には厳しい規律と懲罰で対応せよ」
「悔い改めと自白を促せ」
「日教組教育への矯正学習を最優先せよ」
「生徒には悔い改めと自白を促し、彼らの過去の活動が違法で犯罪的で危険な性質のものであることを深く理解させよ」
「浅い理解や悪い態度、反抗心すらうかがえる生徒には教育改革を実行し、確実に結果を達成しろ」

 彼らはこれから、収容者への再教育を担当することになる。再教育という名の洗脳……実状は拷問に近い。収容者への暴力や暴行、虐待、強姦が当たり前。得たいの知れない液体を注射することもあり、電流を何度も何度も軀に流すこともあり、幼女、少女、婦女を木の下に裸のまま極寒の中何日も立たせ気の向くままレイプし、嗤いながら顔をナイフで切り裂き挙げ句放置して衰弱死させることもある。
 また、夜になると酒に酔った人民軍と国民指導部の人間が、面白半分に収容者を銃殺し、面白半分に収容者を虐待し、面白半分に収容者を拷問し、面白半分に収容者を強姦して愉しんだ。それは、ただひたすら恐怖であり苦痛であった。それも酒の肴であり、人民軍や国民指導部の人間は嗤いながら酒を吞んでいた。
 収容者たちは死なないためだけに生きた。生きられるならば何だってやった。彼らは生きなければならなかった。生きるためなら何でもやるしかなかった。だから彼らはあらゆる悪事を行った。彼らは生きようとした。しかし生きられなかった。死んでしまった。死んだら終わりだった。
 だから仲間も売った。内通もした。少しでも収容者内での地位を上げようと工作した。全ては生きるためだった。収容者同士で騙し合い、奪い合うことも日常だった。看守たちに情報を渡し、賄賂を渡して優遇を得る者もいる。もちろん不正を行う者もいれば、逆に制裁を受ける者もいる。そして殺されたり、拷問されたりする者も少なくない。

 ここに入る人間は、街中の至る処に日教組と教育委員会が設置した監視カメラとスマートフォン、それらから個人情報を収集してアルゴリズム解析する「人民統一統合作戦プラットフォーム」による「プレディクティブ・ポリシング」というAIと機械学習によって犯罪者予備軍と判定された人間バカリである。彼らは思想調査と性格判断、職業適性テストを受けて社会不適合者と判断されると法的手続きを経ずに予防拘禁される。ここはいわば思想犯や活動家など社会的に危険とされる人物や被差別部落民を収容しておく強制収容処なのであった。

 収容処に入ると、「思想変革、学習と訓練、規律の遵守」について点数がつけられ、ランク分けが始まる。四点以上の者は「価値アリ」と判断され、番号を腕に焼き印される。皮膚の上に焼き憑く番号が、これから彼らの呼び名だ。「価値アリ」の中でも点数によってランク分けされ、主に三つ、「人体実験」のランク、「強制労働」のランク、そして「再教育」のランクだ。
 「人体実験」のランクでは人体に関する様々な研究の目的で、本人の同意に基づかない不当な人体実験が行われていた。「被験体」は「ギニーピッグ」の隠語で呼称され、その中には女性や子供も含まれていた。さらに非人道的なことに、「被験体」は脳波などをモニターするためのヘッドギア以外の着用物は認められず、下着なども一切身につけることを許されなかった。また、被験体は全裸のまま狭い部屋に閉じ籠められていた。食事は栄養バランスによる肉体の変化を見るため様々な内容が投与されたが、時には化学薬品やアルコール、ドラッグだけの場合、ひどい時には海水だけしか与えられない場合があった。海水だけしか与えられない被験体では、モップがけした部屋の床を舐める光景なども見られた。
 実験の過程で被験体は死亡することが度々あった。死因の一番多くは解体である。生きたまま拘束され麻酔もなく解剖手術を受ける被験体は多かった。実験最中の内臓の様子を観察するためや、骨、筋肉、神経の再生に関する研究と移植に関する研究のためである。被験体は麻酔無しで、骨、筋肉、神経を部分的に除去された。この結果、多くの被験者は、激しい痛みや、切断により一生涯にわたる身体的不自由に苦しむこととなった。
 他にも凍傷実験、骨折実験、火炙り実験、圧力実験などの生理実験が行われた。人体を極限まで破壊すると、人体はどのくらいの期間持ちこたえるか、あるいはそこからどのように治療すれば回復するか、といった生理学的実験だ。また、人間をどこまで苦しめれば発狂するか、発狂した人間はどうなるのか、拷問に耐える訓練を受ける者もあれば、逆に拷問をする側に廻される者もいた。そして、「死んだ方がマシ」と思うような日々が続いた。その過酷さゆえに次々と死者が出た。
 収容処には、「自殺」を赦さないという決まりがあった。もし勝手に死んでしまえば、その家族にも刑が課せられるというのだ。だから皆必死に耐えた。ある者は涙を流しながら耐えた。あるものは気が狂れてしまった。それでもまだ楽な方だ。
 性病実験、性的実験では多くの女性ギニーピッグが犠牲になった。男性ギニーピッグも犠牲になったが、主に女性のギニーピッグに被害が集中した。男性ギニーピッグは主に精液採取が目的の場合が多かった。男性でも特に若い少年が狙われた。だが最も悲惨なのは、人間として扱われなかった少女達だ。「メス豚」「肉便器」「生きたダッチワイフ」として生き長らえさせられ、人権など認められず、家畜以下だった。実験の内容は、主に意図的な性病感染による経過観察と治療実験である。また、薬物投与や高温、冷凍などの環境、電流による神経操作において強制性行為を実施、体温の変化などの経過観察なども行う。これらの性行為は強制であり、拒否すれば即刻処刑された。これらの行為は倫理的にも法的にも許されず、まさに地獄の日々であった。それでも「自殺」は赦されない。「自殺」すれば容赦なく家族も再教育収容処に強制連行される。
 細菌実験では、炭疽菌、マラリア、連鎖球菌やウェルシュ菌 (ガス壊疽の原因物質)や破傷風の原因菌である破傷風菌などのバクテリア、天然痘ウィルス、結核菌、遺伝子操作されたインフルエンザウイルス、COVID-29、HIV(エイズウイルス)、などを意図的に被験体に感染させた。また、放射線によるガンや白血病の意図的な生成や、骨髄破壊性症候群と呼ばれる病気を起こしたりした。このように人間を使って非人道的な試験を繰り返し行った。そしてこれらのデータを解析し、経過観察と共に治療法の開発に当てようとした。こうして開発された数々の薬品や治療方法は、更にギニーピッグを用いて人間の身体の構造を利用しつつ確認される。だがまた、それらの薬品や治療方法の副作用により、多くの被験体が死亡したり障害を残してしまった例もあったようだ。
 これらの実験により死亡した場合、「被験体」の遺体が遺族のもとへ返還されることもなかった。そのため、多くの場合、「被験体」の死体は廃棄処分とされた。このように「被験体」の死とは「人間としての死亡」ではなく、「実験動物としての死」なのだ。

 「強制労働」のランクでは、起床は午前六時で、消灯は午後十時。一日一回十五分の食事のとき以外のほとんどの時間は、無報酬の労働作業だ。その食事も、腐った野菜や肉で作った水分が多いスープ、わずかなパン、紅茶またはコーヒーに似た苦い飲み物だった。人間として最低限以下の栄養だ。誰もが下痢になった。脱水症や空腹で衰弱した人たちは、あっけなく収容処で広まった伝染病の犠牲になった。無報酬の労働作業、しかもノルマをこなせない者は睡眠時間がカットされるという過酷な環境だ。排尿、排便も制限がある。午前六時、午前十時、午後二時、午後六時の一日四回だ。これらの時間以外での使用は許されないために、大便を漏らす者などもいた。また、収容された被差別部落民や反体制派は身の回りのものは所持禁止で、毎回業者から購入することとなる。支給される衣服なども使い古しのものばかりで清潔感はなく、下着でさえ新品のものを期待することは難しかった。収容者に対する罰のひとつとして業者からの購入を禁止となった際には、女性は生理が来てもナプキンを入手できず、血まみれのままである。また、入浴は週に一度だけだった。それも五分しか入浴できない。身体を洗うには不充分すぎる。当然、頭髪は伸び放題となり、髭も同様であった。劣悪な衛生環境下で皮膚病を患い発疹ができる者や結核を患って喀血する者さえいた。感染症の流行も日常茶飯事となっていた。収容処にはあらゆる種類の病原菌がいたし、劣悪な衛生状態もあって当然のことながら多くの人たちが死んだ。病気や飢えで死んだ人も多かった。
 
 「再教育」のランクでは洗脳という名の再教育が施される。日教組教育と超社会主義国家教育を拷問と暴力、暴行、虐待によって徹底的に再教育するのだ。これは巨大な集団洗脳計画であり被差別部落民と反体制派を、個別の文化集団として地球上から消滅させようとする作業だ。日教組の支配体制をさらに強化するために、被差別部落民と反体制派を拉致して強制連行する。被差別部落民には人権はない、人間ではないという思想を植え憑けるためである。そうすればこの国からあらゆる種類の犯罪や事件が減るだろう。犯罪者や殺人鬼どもは喜んで人権を捨ててくれる。犯罪者や殺人鬼どものおかげで我々は安心して生きていけるのだ。素晴らしいじゃないか。
 繰り返す暴力と暴行で冷静さを亡くし、再教育を施す。電流に火鉢、水責め、爪剥ぎ、鞭打ち、逆さ吊り、顔面破壊などの肉体的苦痛と心理的恐怖を与え続ける。これは必要なことで、人道的で、人類にとって有益な行為なのだ。我々日教組に必要なことは何一つ間違っていない。我々日教組は間違っていないし、これからも間違うことはない。
 これは平等のための共闘であり平等のための革命だ。平和のための共闘であり、平和のための革命だ。みなが安心できる環境のための共闘であり、みなが安心できる環境のための革命だ。等しく有意義な労働のための共闘であり、等しく有意義な労働のための革命だ。充実した社会保障のための共闘であり、充実した社会保障のための革命だ。行き届いた福祉のための共闘であり、行き届いた福祉のための革命だ。手を取り繋ぐ未来のための共闘であり、手を取り繋ぐ未来のための革命だ。
 共闘と革命のために、人々は我々日教組を信仰しなければならない。なぜなら我々日教組は神のご意志に従い平等と平和と安心と労働と社会保障と福祉を指導、管理しているからだ。
 我々日教組は神の意志を知り、それに従う義務がある。だから我々日教組は正しいんだ。神の意思に従い続けていれば我々は幸せになれる。なぜなら我々日教組の使命は唯ひとつしかないから。すなわち幸福を実現することだ。平等と平和、みなが安心できる環境、等しく有意義な労働、充実した社会保障、行き届いた福祉、手を取り繋ぐ未来を実現するのだ。
 そのために我々日教組は全力を挙げて努力しなければならない。つまり我々日教組は神とともにあり、神が幸福を実現するために存在しているわけである。そして、我々日教組も神のご意思に従って生きることにより、神と一体となって幸福を得られるのだ。平等と平和、等しく有意義な労働、充実した社会保障、行き届いた福祉、手を取り繋ぐ未来を得るのだ。そのためには我々日教組の生命を捧げる必要がある。そうすれば我々日教組は神との絆を手に入れられるのだ。

 我々日教組の神、それは……『ハーモニー』そしてその神の地上代行が日教組最高首席、ヒロノブ委員長である。それが再教育。

 これらが再教育収容処の「価値アリ」の処遇と環境、末路である。これらでもすでに地獄絵図だが……もっと恐ろしいこの再教育収容処の実態、人民からひた隠しにするこの国の秘密、それは……再教育収容処に連行され、「思想変革、学習と訓練、規律の遵守」について点数が三点以下だった……「価値ナシ」だ。

 「価値ナシ」に振り分けられた者は、シャワー室に連れ込まれ、全身をくまなく洗浄させられる。彼らには生きる権利さえもなかった。なぜなら彼らは……誰一人として生きて帰ってこなかったからだ。つまり彼らは死んでいく。彼らは……
 洗浄された後、シャワー室を二酸化炭素が充満し、彼らは昏睡状態になる。その後国民指導部がまるでゴミのように彼らをトラックに乗せると、トラックの中で白衣を憑けた白いガスマスクの男が、彼らを解体する準備をしていた。彼らは昏睡しきった上に拘束され泣き叫ぶこともできず、恐怖に慄きながらガスマスクの男に引きずられていった。
――どうしてこんなことになったんだろう……。
 トラックに乗せられた彼らは、屠殺場に連れていかれる。臓器衛生検査処あるいは保健処に所属する地方自治体の医師「屠殺検査員」による病気等外観の生体検査を受ける。その後、大動脈を切開し放血殺する。切開後、両肢の飛節に通した鉄棒をフックで吊り上げ、失血死させる。ここからはオンライン方式で解体されていく。吊るした体は動力で階上へと引き上げてから自重と人力だけで容易に各作業場所間を移動できるようになっている。その途中で適宜屠殺検査員により病変組織のサンプリングと検査、解体後検査が実施される。そこからさらに別の作業班によって、臓器を採取して、洗浄、保存用のパッケージング等の処理がなされる。解体順序はごくおおざっぱに言って、頭部切断・剥皮・心臓、肺、肝臓、腎臓、角膜などの内臓を分別・洗浄・パッキングするための作業場があり、ラインで切り離された臓器をシュートに投入することにより下の内臓処理作業場に送られる仕組みになっている。こうして出来上がった内臓をブロックごとに真空パックにして冷凍保管しておく。

 こうして……「価値ナシ」と判断された人間の臓器が国家レベルで売買される。おかげで日教組支配のこの国は、超社会主義国家となったこの国は、臓器移植に困らず、臓器提供までに二時間、長くて二週間である。一年間で約百万人の殺処分と臓器売買を達成し、それ以上の数の人体実験と強制労働による恩恵、そして洗脳教育を達成する収容処、それが第七再教育収容処である。


 海咲は夢の中で中嶋を探していた。いつものように夢の中で中嶋に入り込んだのだが、何故か今日は様子が違う。
 今日の夢の舞台は廃墟だった。崩れかけ、窓ガラスは全て割れているビルの屋上。そこには二人の人間が立っている。一人は中嶋、もう一人は見知らぬ若い女。海咲は目を細めて見るが、誰なのかわからない。中嶋は悲痛な表情をしているように見える。その顔を見た瞬間、心臓を掴まれたように胸が苦しくなる海咲。何故自分はこれほどまでに心を痛めているのか……。海咲がそんなことを思っていると、中嶋の方へと歩み寄るもう一人の女がいた。彼女は海咲と同い年くらいに見える。彼女のことは何故かハッキリと見えた。彼女が近づいていくと、海咲は更に強く胸を締め憑けられるような感覚に襲われる。まるで心臓に直接手を置かれているかのような圧迫感があった。それは今まで見たことがない光景なのに不思議と見覚えのある気がした。
(……まさか……!?……あの子!)
 海咲は胸の中の感情に耐えきれずその場を去ろうと走り出すと、
「海咲!!」
「!?」
 中嶋の声が聴こえてきた。振り返ると、中嶋が手を伸ばしていて……
「来ないで!!」
 何故だろう……海咲はどうすればいいのか分からなかった。海咲の中で二つの感情が入り乱れていた。
 一つはこの前感じたモヤモヤした感情だった。それは嫉妬のような気持ちだったと思う。もう一つは、
「中嶋は私より復讐が大事なんでしょ? あの娘のための」
 初めて感じる感情だった。とても強い衝動を感じるけどそれが何なのか、よく分からない不思議な気持ちだった。
「でも中嶋は優しいから、私の気持ちも考えてくれて、でも……それだけでしょ!!」
 今まで一度も感じたことの無い感覚だけど、そのせいだろうか、心地好くて不思議と心が落ち着く。もっとこうしていたいと思ってしまうほどに……
「海咲……」
 中嶋はうつむき越しにジッとこちらを睨むと
「オレは……」
 瞳を段々とこちらに向け始めた。
「海咲が考えているよりは、自分勝手な人間だ」
 その瞳が、なんだかとても力強く思えて……
 
 ハッと眼を醒ますと海咲はベッドの上にいた。カーテンの隙間から微かに朝の知らせが漏れていた。そのままベッドに仰向けになりながら両手を伸ばして枕を抱え込むように抱きしめると、そのまま視線を上に向けた。天井を見ながら考える、なんだか意味深な夢だったなと。
 海咲の朝のルーティンが始まった。六時に起床するとまず歯磨き、顔を洗い化粧をする。化粧を終えた後着替えて朝食をつくる。その後、仏壇の前に座り、線香を上げ手を合わせる。これは亡くなった両親に対する祈りであり供養だった。祈り終えると食事を始める。そして七時四十分になると家を出ていった。そうして七時五十分には中学校へ登校した。
 陽の暮れ始める十七時頃、海咲は校門を抜けた。今日も無事に授業を終えたことを喜びつつ、家に帰る足取りは軽かった。
(……さて、今日はどんな話をしようかな)
 海咲は考える。ここ最近、毎日のように被差別部落であるエリア51を訪れるようになった海咲だが、話す内容は毎回違う。学校であった些細なことや、世間の出来事、テレビの話など、本当に様々だ。そして今日は何を話そうかと考えつつも、自然と笑顔になっている自分に気づく。
 被差別部落民の集まるエリア51は治安が悪いと一般的には言われ、外から見ると暗く危険な場所に映るが、実際はそうではない。少なくとも海咲の眼からはそう見えた。明るく楽しく咲い声に包まれた明るい場所だと海咲は思う。その証拠に海咲は両親を失ってからもう何年も前に捨てたはずの笑みを浮かべていた。それが嬉しい気持ちになった。
 海咲はこの部落が好きだし、ここの文化が好きだった。日教組や教育委員会がこの地上から消滅させようとする文化がここにはある。食事や服装、建築、音楽、演劇など、どれもとても良いと思う。特に演劇は好きだった。人間もようや心もようの繊細な演出と、大胆に竹を割ったような演出の両方を兼ねそなえた演劇は他にはないからだ。それに演技をする役者の演技も良い。役者たちの眼つきが皆鋭いからだ。演技する役者たちはまるで部落の外の人よりも早く大人になったような、凛々しく、力強く、そして美しい瞳をしていた。
 だが何より海咲を部落に魅力したのは……中嶋の存在だった。

 中嶋と出逢ったのは、実は半年前。海咲の父が亡くなった。享年六十二歳でした。膵臓癌だった。海咲が父に会ったのは父の葬儀のときが初めてだった。それまで海咲は父のことを知らず、写真すら見たことがなかった。母からは父とは離婚したということだけを聞かされていた。父が死んだと聞かされたとき、そのことは悲しかったけど辛かったけど寂しくはなかった。海咲には母がいたからだ。彼女は母子家庭で育った。物心つく頃にはもう母は働いていて、朝早くから夜遅くまで働く母の背中を見て育った。母はいつも忙しい人だったが優しかった。海咲が困って泣いていたときなどすぐに飛んできて優しく慰めてくれた。そんな母が好きで好きで堪らなかった。海咲の一番大切で唯一の宝物であり誇りだった。
 父の葬式では大勢の人が来ていた。海咲の母の親族だけでも百人は超えていただろう。父の会社は地元ではそれなりに有名な企業だったので社員も多かった。会社の社長ということもあり多くの人が弔問に来てくれた。海咲にとっては初対面となる人たちバカリだった。知らない大人たちが沢山いたこともあり緊張していた。葬儀が終わった後も喪主である母親の後について廻り挨拶をしていた。そんな忙しい時だった。急に母親が席を外すと行ってどこかに行ってしまった。親戚一同がいる部屋で一人とり残されてしまったのだ。誰も話しかけてくれない。皆、忙しく動き廻っているので邪魔をしてはいけないと思ったのか、それとも自分の存在がこの場に邪魔だと思ったのか判らない。彼女は一人で静かに待っていることにした。気がつくと母は……死んでいた。目の前にある死体を見て悲鳴を上げることもなくただ呆然と見ているだけだった。その時の海咲はまだ十三歳。母の死を理解することなど到底できなかった。しばらくして警察が来ると事情を説明するように言われた。警察の人たちは彼女の話を真面目に聞いてくれた。
「お母さんはどうして死んだんですか?」
 海咲は泣きながら警察に訊ねた。すると警察は答えてくれた。
「海咲ちゃん、落ち着いて聞くんだよ。君のお父さんが死んで……君のお母さんも、心臓麻痺を起こして死んでしまったんだ」
「そうですか……」
「きっとお母さんは、お父さんを愛していたんだよ」
 愛? それは何? 海咲は思った。後を追って死ぬのが愛? 自分というひとり娘を置いて死ぬのが愛? ワカラナイ……

 海咲は中学生心に考えていた。死んだら何処へ逝くのか。人はどうして死ぬのか。愛とはなんなのか。そうして考えていると……気がついたら一日が終わる日々が繰り返された。そんなある日だった。それでも真面目に学校へは行っていた彼女。毎日同じ日々を繰り返して……ある日、出逢ったのは……黒い街宣車に乗って演説する彼、中嶋だった。

自由に生きたい
解放されたい

それは誰もが思っていること
いや思わなければならないことだ

人間らしく
自分らしく
生きたい

それは誰もが願わなければならないことだ

拘束を憎み
自由を愛する心は

神が
人間に与えてくれた

生きる意味なのだから

弱かった人は
生きるために組織を造るようになった

組織はスピードとリズムを造り
その中で争いと不協和音を恐れた組織は

スピードとリズムの調和のために
争いと不協和音を弾圧し
拘束した

彼らは
組織の犠牲者だ

そして勇気ある闇ネズミたちは
消された

弱かった人々は
消されることを恐れ
額に刻印を打ち

いつしか考えることを止め
自分でなく組織を生きることに疑いもせず

仕方のないことと言って
自由と解放を棄てた

仕方のないことと

誰もが言ってはいるけれど
それを望んではいなかったけれど
自由と解放を棄てた

彼らも組織の……

「調和という名の拘束」の犠牲者だ

みんな想い出してほしい

弱いことは悪いことじゃない
調和することも悪いことじゃない

だけど

だけど自由と解放を棄てて
人間らしさも自分らしさも棄てて

何が調和だ!!!!!!!!!
何が進歩だ!!!!!!!!!

争うことを恐れるな!!!!
不協和音を恐れるな!!!!
ほんとの調和と進歩はその向こう側にある!!!!!!!!

ノイズを恐れることはない!!!!
カオスを恐れることはない!!!!
ほんとの調和と進歩はその向こう側にある!!!!!!!!

「自由ト平和ト愛ニ満チ溢レタ
素晴ラシイ世界ヲ創ロウ」

組織はこう言った
だが奴らは口先だけで嘘をついた!!!!

調和の名の元に支配体制を築き
無力で無知な人々を機械に変え

無表情な笑顔を強要したのは奴らだ!!!!!!!!

自由と解放を求め
人間らしく自分らしくあろうとした
あいつを消したのは奴らだ!!!!

泣き虫だけど
弱虫じゃなかった

勇敢だったあいつを消したのは
奴らだ!!!!!!!!

みんな聴いてくれ
奴らを信じるな
奴らには血も涙もない

お前たちは!!!!
オレ達は!!!!

機械じゃない!!!!
人間だ!!!!!!!!

醜くても
カッコ悪くても
泣き虫でも
一人でも

不協和音だって
ノイズだって
カオスだって
争ったって
人間だ!!!!

機械なんかじゃない!!!!!!!!

奴らの言いなりになるな!!!!!!

闘うんだ!!
立ち上がれ!!

恐れるな!!!!
立ち上がれ!!!!

自由のために
解放のために
人間らしくあるために
自分らしくあるために

取り返せ!!
奪れたものを!!

取り戻せ!!!!
奪れたものを!!!!

想い出せ
生きる意味を……

自由を……
解放を……
人間らしさを
自分らしさを

今はただ
唄うだけでも

最高にカッコいいじゃないか

違う
夢なんかじゃない
君ならできる

君は
一人じゃない……
一人ぼっちじゃない…………
オレが一人にしない!!!!

君は機械なんかじゃない!!!!
弱虫なんかじゃない!!!!
だからできる!!!!!!!!

がんばれ!!
それでも生きろ!!

がんばれ!!!!
それでも歌うんだ!!!!

見ろ!!
オレたちは

どんなに
どんなにうちのめされても

生きて
唄えるんだ!!!!!!!!

“調和という名の拘束を”
“破壊するため”

“シヴァの息子たちよ”
“立ち上がれ”

“調和したカオスへと”
“導くため”

“自由と解放のため”
“立ち上がれ”

 最初は何とも思わなかった。ただ単に、うるさいと思っただけだった。でも日に日に彼のことを眼で追っている自分に気づいた。そしていつしか、彼は彼女の心の中で大きくなっていった。彼にどんどん惹かれていく自分に戸惑いながらも、想いを止めることはできなかった。
 彼女はある日、街宣車の後を追った。そうして辿り着いたのが……被差別部落エリア51だ。最初は正直ビックリしたし、恐かった。だけど、それ以上に何故だか惹かれる自分がいた。それはこの部落に対してか、それとも……
 彼女は部落を歩く、彼を追って……部落の中はまるで迷路だった。何も知らない彼女にとって、そこは迷路だ。そこは彼女の知らない世界であり、迷路だ。彼女は迷子になった。
 恐怖が支配する。被差別部落に対する治安の悪さのイメージとウワサ。いつしか視線を感じた。視線……嫌らしい眼で自分を見る視線は、自分の心を突き刺し……嗤い声……嗤い声! 嗤い声、そしてウワサ話が、心を支配したとき!
「お嬢ちゃん。見かけない顔だな、迷ったのか?」
「!?」
 彼が声をかけてくれたのだ、中嶋が。
「駅までなら案内してやる。来い」
 そうして無愛想な彼に連れられ、海咲は元の自分の家に還ることができた。
 その夜……なぜだか眠れなかった。ベッドに入って横になって眼を閉じても眠気がやって来ず、瞼の裏に昼間見たあの光景がちらついて離れなかった。被差別部落のあの景色、そして中嶋の……
「あ……お礼、言えてない」

「なんだお前、また迷子か!?」
 海咲はもう一度、被差別部落エリア51を訪れた。
「あ、私のこと、憶えてくれたんだ」
「いや……ってか、なんでまた」
「お礼、言えてなくて」
「はぁ!?」
「ありがと、助けてくれて」
「……ぷ」

 ガハハハハハ、中嶋は大笑いした。
「なんだお前、おもしれぇ奴だな」
「お前じゃない……」
「は?」
「海咲、私は、ミ、サ、キ」
「海咲、か」
「うん」
「オレは中嶋だ」
「うん!」
 海咲は嬉しそうにニコリと微笑んだ。
「あ、せっかくだ、案内がてらちょっとメシでも喰って演劇観るか? ちょうどいくとこだったんだ」
「え?」
 と海咲が言う間もなく、中嶋は手を引いて連れ出していった。中嶋の言葉は社交辞令ではなかったらしい。彼はそのまま歩き出した。海咲は彼の背中を見つめる。高く、大きな背をしていた。それはとても大きくて、無言で何かを語るような……
「美味しい!」
 部落の屋台でホルモンの鉄板料理をご馳走になった。客は海咲と中嶋の他五人だった。アーケード沿いの高架下にポツンとあるバラックの立ち喰い屋台だった。カウンター席だけの狭い店である。
 海咲は豚レバーを一口喰べた。濃厚で美味しかった。ビールと一緒に喰べれば最高だろうと思った。
「大げさだな~」
 隣では中嶋が牛ハツを食べていた。脂身の少ない赤身の肉だが、コリコリとした食感があり、噛めば噛むほど旨みが出てくるような感じがした。
「だって今まで喰べたことないもん!」
 その味もさながら……店の雰囲気とお客さんが醸す空気感も最高だった。店主が何もしなくても、お客さんが「ここ空いてるよ!」とか、「そこティッシュあるから手ふきや」とか、「お茶飲むかー?」と言ってくれるような、お客さんたちも一緒にお店を廻しているようなそんな感じなのだ。お酒があまり吞めない海咲のためにわざわざノンアルビールを用意してくれたりと、サービス精神旺盛な店主もいた。常連さんとも仲が良く、とてもアットホームな雰囲気の屋台だった。海咲はこの店の暖かさと居心地の良さが大好きになり、何度も通いたくなった、この店にそして……この部落に。
「さて、次は演劇観に行くか!」
「うん!」
 まるでお店に元気をもらったようにノリノリに海咲は返事して、中嶋の後を着いた。そして着いた劇場、それは小さな小屋だった。看板を見ると、そこにはこう書かれていた。「劇団 悪夢囃子」……つまり舞台演劇らしい。中に入ると既に満員御礼状態でかなりの盛り上がりを見せていた。席に座って開演を待つことにする。
 幕が上がり、芝居が始まった。内容は……海咲は眼を見張った。人間もようや心もようの繊細さな演出と大胆に竹を割ったような演出の両方を兼ねそなえた演劇は他にはないからだ。それに演技をする役者の演技も良い。役者たちの眼つきが皆鋭いからだ。演技する役者たちはまるで部落の外の人よりも早く大人になったような、凛々しく、力強く、そして美しい瞳をしていた。観客達はそんな彼らに引き籠まれていった。そして彼らによって演じられているストーリーに引き籠まれるうちに、彼らの瞳の強さに感化され、いつしか自分の中に熱い情熱を感じていた。そのことに誰もが驚きながらも納得した。それは、自分もまた同じだったから。演者が、観客達までも変えていく。これが演劇なのか!  海咲もまた圧倒されていた。そして感動していた。
 舞台が暗転して幕がおりると、観客達がスタンディングオベーションをして歓声をあげた。パチパチパチパチ!!!!!!!! 大きな拍手が舞台に響く中、演者たちがステージ脇から出てきたのを見て海咲は慌てて立ち上がった。
 演者たちが出てくると客席にいた人たちが口々に言った。「良かった」「凄かった」「鳥肌が立った」海咲もそう思った一人だった。


 現在


 「劇団 悪夢囃子」の舞台に舞る、サランの姿があった。中嶋の勧めで入ったサランは、持ち前のセンスを活かし演技力を発揮していた。彼女の舞りは、舞台上で誰よりも哀しく、優しく、美しい存在感を放っていた。時に繊細に、時に力強く、時に慈悲深く、まるで心洗われるように見るものを魅了する舞りだ。その舞りはプロにも引けを取らなかった。そんなサランの舞りを見る中嶋の眼差しは……真剣そのものだった。
 海咲は思った。この瞳が、自分に向かって向けられたことが、一度でもあったのかと……この気持ちは何なのだろう? この気持ちは……胸の奥底から湧き出てくるような、この想いは……愛しさだろうか?……それとも、憎しみなのだろうか?  この気持ちの正体を探ろうにも、思考が上手く働かなかった。まるで脳ミソの中に鉛を流し込まれたかのように重かった。

“きっとお母さんは、お父さんを愛していたんだよ”

 舞台を終えた彼女に、中嶋は笑みを浮かべ労いと褒めの言葉を贈っていた。
「今日の舞台もよかったな! やっぱり似合っている」
 サランも汗をふいて、笑顔を向けた。
「中嶋も、復讐、がんばってね! 応援してるから!」

 愛? それは何? 海咲は思った。後を追って死ぬのが愛? 自分というひとり娘を置いて死ぬのが愛? ワカラナイ……

 中嶋は自殺したソアのために日教組へ、教育委員会へ、復讐を誓い……そのために、サンライズという組織をつくったのか?
 それは愛? ワカラナイ。サランがそれを応援する表情も愛? ワカラナイ。海咲が、いま胸に渦巻いている気持ちも……愛? ワカラナイ。
「海咲?」
 いたたまれない気持ちになった海咲は、長髪を風になびかせ、その場を後に……
「海咲!!」
「中嶋!?」
 サランの声も振り切って、中嶋はとっさに海咲の後を追った。
 青空の下、部落の風が吹く。海咲は一人走り出していた。その足取りは重く、表情は暗い。頭の中は中嶋のことバカリだった。
(……中嶋)
 中嶋は海咲を追いかける、部落の中を走り廻り……なぜだろう? とっさに躰が動き出してしまった。なんだかここで彼女に追いつかなければ、もう二度と逢えないような気がしてしまったのだ。それは……大切ななにかを、失ってしまうことのように、思えてならなかった。
「海咲! 待てよ!!」
 中嶋は海咲を見つけ出し、追いつくと声をかけた。海咲の肩を掴み振り向かせる。振り返った海咲の顔は悲痛だった。眉を寄せ唇を強く噛んでいた。瞳からは涙さえ零れそうになっていた。その海咲の様子を見た瞬間、思わず息を呑む。
(何でそんな顔をするんだ……?)
「来ないで!!」
 何故だろう……海咲はどうすればいいのか分からなかった。海咲の中で二つの感情が入り乱れていた。
 一つはこの前感じたモヤモヤした感情だった。それは嫉妬のような気持ちだったと思う。もう一つは、
「中嶋は私より復讐が大事なんでしょ? あの娘のための」
「はぁ!?」
 初めて感じる感情だった。とても強い衝動を感じるけどそれが何なのか、よく分からない不思議な気持ちだった。
「サンライズよ!! なんであんな危険な真似して、無理してまで、いっぱい人も仲間も死んで……それでも日教組や教育委員会と闘うのよ!!」
「……」
 海咲は泣いていた。自分でも、決して言ってはいけないことのような気にしていたが……あまりにも感情が高ぶってしまった。
「全部死んだソアのためでしょ!! いま生きてる私よりも!!」
「海咲……」
「でも中嶋は優しいから、私の気持ちも考えてくれて、でも……それだけでしょ!!」
「海咲!!」
 そのとき
「!?」
 大きな地震が起きた。
「危ねぇ!!」
「!?」

 九月一日一一時五八分三一.六秒 第二次関東大震災だ。死者・行方不明者は推定十万五千人。被害総額は二百兆円以上とも言われている。震源地は千葉県北西部で深さはおよそ四〇kmマグニチュード八以上の規模であったと推定されている。関東地方を中心として中部地方まで揺れによる被害が生じた他、東北地方太平洋沖及び茨城県南部において津波による大きな浸水被害があった。また、東京二三区を中心にした南関東一帯においては地盤沈下によって大規模な都市機能が麻痺し停電・ガス供給ストップなど生活インフラに大きな打撃を与えただけでなく、液状化現象によって多数の住宅家屋が全壊または半壊するなど深刻な被害を受けた。なお、気象庁によると本震により、東京湾北部と神奈川県東部の一部で最大震度七を記録し、その後発生した最大震度六強の余震によって東京都内では建物の損壊が相次いだほか、多摩地区を中心とする関東内陸部全域および山梨県の一部が広範囲に亘って停電となった模様である。また、北海道から九州にかけての広い地域で緊急速報を含むすべての電波放送が停止もしくは一時的な停波状態に陥るなどして通信網にも大きな影響が出ており、携帯電話や固定電話等の通話機能に支障が出るなどの障害が出た模様である。一方インターネット上では回線混雑とサーバ故障などにより情報配信が一部困難となっている。だが……本当の災厄は、これからだった。

 海咲は危うく死ぬところだった。地震そのものは震度五程度だったが揺れ方は大きかった。震源地は近いようだが津波はない。しかし……もしあの倒壊した建物にのまれていたかと思うとゾッとする。危うく中嶋が海咲をこちら側に引き込んだのだ。
「……」
「海咲……」
「!?」
 海咲は押し倒されるようなカタチで、中嶋はジッとこちらを睨む。
「オレは……」
 瞳を段々とこちらに向け始めた。
「海咲が考えているよりは、自分勝手な人間だ」
 その瞳が、なんだかとても力強く思えて……思わず視線を逸らした。
(どうしたのかしら……わたし……。)
 ドクドクと高鳴る心臓を感じた。胸の奥底がざわめき立っているのを感じる。そのまま頬が火照っていくのも感じた。
(この気持ちはなに?)
 その問いを口に出そうとしたが、唇が思うように動かない。身体中がまだ熱を帯びていた。そして自分の心拍数が上がっていくのを感じる。まるでまだ現実を受け入れたくないように、知らない自分に自分が変わっていくように……。彼女がその気持ちに気づくのは、もう少し後の話だった。


 第二次関東大震災後の世界…………それは、もはやこの国の何処に行っても同じ光景が広がっていた。
 建物は焼けて崩れ、瓦礫となり廃墟となっていた。火災による延焼は防げたものの、建物自体が破壊されてしまったのだから、復旧しようがないからだ。つまり、復興は不可能であり、首都として以前のような機能を回復させるのは無理だった。特に都心部の被害は大きく、都心にあった高層ビル群は全て崩壊していたのである。
 人々は絶望していた、この飢えと渇きが支配する世界で。人々は生きる希望を失っていた。
 水は配給制となり、食料は高値となった。人々の心は次第に荒んでいった。暴動が起きていった。人々の間では、もう我慢の限界だった。だが国は何もしてくれない。涼しい日教組中央教育会館でただ会議と研修を繰り返すバカリだ。「冷静に」「静粛に」「秩序ある行動を」「落ち着いた行動を」などと言いながら何もしない。また政府は非常事態宣言を出したまま、有効な対策を打っていない。人々が苦しみ悶え混乱する災害を前に、まるでお役所仕事のような態度で国民はほったらかしだ。国のせいなのか、それとも日教組教育のせいなのか。暴動が起きるのでは? そう思った時……
「オラオラ! 押すな押すな! 食料も水も日用品も人数分全部あるぜ!!」
 黒いワンボックスカーや大型トラックの荷台から、黒いスーツの男たちが、ジャージ姿の男たちが、特攻服を着込んだ女たちが、迷彩柄の戦闘服の男たちが、長ランの男たちとロングスカートのセーラー服の女たちが、様々な者たちが入り乱れて食料と水、日用品を取り出し配り始めた。様々な者たちが入り乱れて作業するさまは圧巻だった。特に特攻服の女たちの勇ましい様子は、かつてレディースと呼ばれた暴走族を彷彿させた。中嶋率いるサンライズと三叉組長率いる狂骨会三叉組が炊き出しと配給を始めたのだ。
 中嶋と三叉組長率いる裏社会の勢力は、国よりも早くに食料や水、日用品を調達し、誰よりも早くこの被災地に届けていた。被差別部落民だけでなく、一般人にさえ分け隔てなく提供していた。この光景を見て、誰もが驚き、そして感動した。彼らは義賊だ。必要悪だ。彼らのおかげで暴動も起きず、治安も守られた。被災地では彼らこそ救世主だと感謝された。
 一方、日教組が支配するマスコミは彼らのことを、まるで英雄扱いせず、ただ「極道」「ヤクザ」呼ばわりして非難し、犯罪者扱いした。彼らが何をしようと、報道しなかった。だからなのか、誰も彼らを褒め称えることなく、彼らを批判するだけ批判して終わりにした。まるで最初から存在しなかったかのように……彼らはまるでいない者のように扱われていた。それが、彼らにとってはかえって都合が良かった。彼らは誰にも迷惑をかけず、ひっそりと活動することが出来たからだ。
「みんな! よく聞いてくれ!」
 中嶋の声はよく通って聞こえた。この男には何かある。人を惹きつける不思議な魅力があった。誰もがあの男がリーダーになってくれるかもしれない。革命を起こすかもしれない。そんな期待さえ抱いたが、中嶋は言った。
「もうすぐ自衛隊と警察、国民指導部が来る。そしたらオレらはあっという間に鎮圧されるだろう。だがそれまではオレらだけで喰いつなぐしかない。オレたちは弱者だ。力もない。だが頭を使うんだ。どうすればいいか考えるんだ。考えろ。考えることをやめるな。考え続ける限り道はある」
 人々の胸に希望が生まれた。革命は起こらない。だが中嶋はこの荒れ果てた東京を、世界を変えるキッカケを創ってくれた。きっとそうに違いない。
 それから数時間後、やっと国が配給を持ってやって来ると、三叉組とサンライズはそそくさと退散した。人々は国からの配給に感謝をしたが、それ以上に……あの三叉組とサンライズから貰った希望を、何よりも強く感じていたのだった……。

 廃墟のビルで中嶋がひとり黄昏ている、夜空に浮かぶ月を見ながら。
「お疲れ、中嶋」
「おう、海咲か」
 海咲はコップいっぱいのココアを持って現れた。
「ハハハハハ、ココアか、お前らしいな」
「え、変?」
「いや、海咲らしくていいんじゃね。ありがたく頂く」
 と言うと、ゴクゴクと呑み始めた。まるでビールのように吞み干すと、ふうっと息を吐いた。そして……
「美味いなあ! 海咲のくれたココアだ!」
 と言った。すると今度は一気に吞むのではなく、味わって飲んだ。
「昼間はがんばってたね。かっこよかった」
「まぁな、ったりめぇよ。困ってるときはお互いさまだ」
「でも……報道されないんだね、せっかくいいことしても、反社呼ばわりされて」
「ひっそりと活動することが出来るからいいじゃねぇ」
「でも……」
「ハッ……いいか海咲。活動は人のためにするんじゃない。自分のためにするんだ。オレらは誰かに感謝してほしくてしてるんじゃない」
 中嶋がそう言うと、海咲は
「そうね」
 ニコリと微笑んだ。海咲は思った。この人が何処か人を惹きつけるのは、実はこういう所なのかもしれない。そう思うと笑みが零れた。
「中嶋ーお疲れー」
「おう、サラン」
「はい! 日本酒持ってきたよ」
「おー! ありがてぇ」
「えへへへへ」
 中嶋は日本酒を旨そうにグイッと吞む。サランも嬉しそうに手酌をしている。二人はとても楽しそうにしている。まるで夫婦(つがい)のような雰囲気だった。そんな光景を見ながら海咲は少し寂しく思っていた。海咲は自分の杯を満たし、一気に飲み干すと、そのままその場を後にした。
「なんのよもう!」
 とふくれっ面で海咲は階段を降りていく。海咲はプーッとふくれっ面を、段々と寂しそうな表情に戻した、そんなとき
「!?」
 人のウワサ話を耳にした。東京日日新聞に「火をのがれて生存に苦しむ牛込」「雨と火と被差別部落民との三方攻め」といふ題下にて、「火に見舞れなかつた唯一つの地として残された牛込の二日夜は、不逞被差別民の放火及び井戸に毒薬投下を警戒する為め、青年団及び学生の有志達は警察、軍隊と協力して、徹宵し、横丁毎に縄を張つて万人を附し、通行人を誰何する等緊張し、各自棍棒、短刀、脇差を携帯する等殺気立ち、小中学生なども棍棒を携へて家の周囲を警戒し、宛然在外居留地に於ける義勇兵出動の感を呈した。市ヶ谷町は麹町六丁目から、平河町は風下の関係から又三日朝二人連の被差別部落民が井戸に猫イラズを投入せんとする現場を警戒員が発見して直ちに逮捕した。」  下野新聞に「東京府下大島附近」「被差別部落民と主義者が掠奪強姦をなす」と云ふ題下に 「東京府下大島附近は、多数のサンライズが空家に入り込み、夜間旺に掠奪強姦をなし、そして官憲と地方人との乱闘内乱を起させ様と努めて居る許りでなく、多数罹災民の泣き叫ぶのを聞いて、彼等は革命歌を高唱して居るので、市民の激昂はその局に達して居る。」と載してあった、というものだ。そこから……
 震災発生後の首都メトロポリスにおいて、混乱に乗じた被差別部落民とサンライズによる凶悪犯罪、暴動などの噂が民衆を通して広まろうとしていた。「日教組解体案」を掲げ、革命運動を起こすべく動き出したサンライズがテロ行為を実行するのではないかと囁かれていた。彼らは「大災害の混乱に乗じ、日教組を解体してしまおう」と企んでいた。彼らは革命派の過激派集団に属し、ある意味思想犯でありテロリストであった。そして彼らの手で起こした行動によって首都壊滅及び一般市民まで巻き込んだ大虐殺が起こる……というモノだ。
「……」
 そのウワサを聞いた海咲は、「まさか……」と思いつつも不安を覚えた。
「そんな……あの優しい中嶋が、そんなことをするハズがない。何かの間違いよ……。きっとそうよ!」
 海咲は信じようとしない。でも、どうすればいいのか解らない。



 日教組中央教育会館


「なんど言えば判るのですか!」
 ドン! と赤城が机を叩く
「エリア51への大粛清は、あまりに多くの人民の血を流します!」
 タブレットの画面越しに、ヒロノブ委員長と激しく言い合っている。
「くどい!」
 委員長はえらく不機嫌な様子だ。
「君はあの被差別部落民共の臭いにおいを学ばなかったのかね? 第七再教育収容処で」
「再教育収容処のシステムにも問題はあります。再教育機関そのものは必要ですが、その有り様、システムには大きく問題があります」
「何を戯れ言を、現に巷では震災の混乱に乗じた被差別部落民と中嶋による大反逆がウワサされているではないか」
「それもまだウワサ段階です。我々国民指導部としては下手な流言、デマに対して厳罰をもって事態にあたっております」
「……君はやはり嫌いだな」
「では、委員長。失礼します」
 委員長との話し合いを終えて部屋を出た赤城は、重い足取りで廊下を歩きながら考えた。このデマの大元はそもそも日教組によるメディアの印象操作……委員長、あの男は、なんとしてでも被差別部落民と中嶋を粛清したいのか、穢れとして。だがそこから始まるのは憎悪の連鎖……日教組と教育委員会が自ら中嶋の正当性を証明するようなモノだぞ。そんなことをしたら……もう取り返しがつかないところまで来てしまうではないか。 委員長め、何を考えている。 こんなことで何が変わる。いったい何をしようと……
「!?」
 その時突然の電話が鳴った。
「もしもし、私だ……なに!? わかった。すぐ行く。待たせておけ」
 ガチャリとスマホを切ると、赤城はスタスタと歩き出した。そこには地下へ通じる階段があった。階段の奥に進むにつれ明かるくなり始め、最奥部には鉄製の両開きの大きな門があった。赤城はその門を開けることなく、門の横に手をかざすと暗証番号入力画面が現れた。赤城がキーボードに指を走らせるとロックが解除される音が響く。その瞬間、門が自動的に開いた。そこは広い地下室であり、室内を照らすように照明が設置されていた。部屋の隅にあるソファーには……
「初めまして、海咲と言います。中嶋とは友達です」
 海咲の姿があった。
「ご足労感謝する。早速だが、話を聞かせてほしい」

 中嶋は独り部落の細道を歩いていた。夜の帳の中、空を見上げれば月はなく雲もなく星もなかった。闇だけがそこにあるような気がした。風もない静かな闇の中だった。
(意志を闇に染めるのも簡単か……)
 ふっとそう思った。この先に何があるのか、それすらわからない暗闇の中を彼はただ歩いた。何も見えない、何も聞こえない。音も光も無い世界。それは孤独であり同時に解放でもあるように思えた。このまま何処までも一人で歩んでいく。その考えは決して悪くないように感じられた。その方がずっと気が楽だった。しかし、すぐに気づいた。自分が歩いてきた道の先に、誰かが立っていることを。真っ暗なのになぜかその姿だけはハッキリ見えた。そこには……
「赤城!?」
 人民服を着けた生真面目な男が立っていた。
「久しぶりだな、中嶋」
「!?」
「安心してくれ、今日は話し合いをしたくて来たんだ。オレ独りだ」
「……」
 中嶋は周囲を警戒した……が、確かに赤城の言うとおり、彼は単身でこの被差別部落に乗り込んだようだ。
「……で、ガリ勉がなんの用だ?」
「まず確認したい。サンライズがこの震災の混乱に乗じて大規模な反攻作戦を計画している、というのは本当か?」
「ハァ!? なんの話だ!!」
「やはり……」
 赤城は軽く視線を横目に向けて考えた、ヒロノブ委員長……奴の考えを。
「中嶋、お前はこれからもサンライズと共に日教組と教育委員会に反逆し続ける気か?」
「……そうだと言ったら?」
「考え直せ。必要なのは革命でなく改革だ。革命は潰される」
「テメェはあの再教育収容処の惨状を見てもんな悠長なことが言えるのか?」
「!?」
「平等と平和、みなが安心できる環境、等しく有意義な労働、充実した社会保障、行き届いた福祉、手を取り繋ぐ未来、聞こえはいいその理想という名の奇麗事のためにやったことは、限りない独裁政権と監視社会、非人道的な弾圧と虐殺、 そして思想統制だ!!」
「……確かに、お前の言うことは正しい。日教組にも教育委員会にも、問題は多くある。だがお前のやり方は間違っている。間違ったやり方では何も生まれない」
「黙れっ!  オレは死ぬまで奴らを赦さない!!」
「ソアのことか!!」
「!?」
「中嶋……ソアが自殺したのは」
「オレの将来を護るためだ」
「!?」
「オレとこれ以上関わったら、オレの将来に関わる……そう言われたソアは、自分は生きてはいけないと思って、屋上から跳び降りたんだ」
「お前は!! そこまで知ってて!!!!」
「そうだ!! 全部知った上で!! オレは中卒でソアの部落に来て!! 狂骨会に所属し!! ここまで行動を起こした!!!!」
 中嶋は怒声を上げると拳を振り上げ、そのまま降ろした。
「中嶋……ソアはお前に、そんなことを望んだのか? ソアのためを思うなら……」
「解ってねぇな……あの日、ソアが跳び降りた日、オレは職員室に呼び出されたソアとヒロノブの話を聞いた、職員室の前で。そして職員室を飛び出していったソアを見て、ヒロノブの言葉を聞いて、オレは……」

「中嶋!? 大変だ!!」
「!?」
 突然の声に驚いて、中嶋と赤城、二人ともが振り向いた。部落の男が血相を変えた様子で慌てて駆け出してきたのだ。
「どうした!?」
「国民指導部が……白い、ガスマスクの奴らが!!」
「なに!?」
 被差別部落エリア51。巨大な被差別部落。部落の北側に駅と高架線が見える。線路を越えると華やかな街並みが見え、その向こうには輝くビル群が立ち並んでいる。それはまるで未来都市のように電飾されてキラキラとしていて、明々とネオンの灯りが一帯を照らす。ここからよく見える紫の灯りは、どうやらパチンコ屋らしい。大きな看板が出ている。さらに目を凝らすと、風俗店もあった。おそらくそこらがいわゆるソープランドという奴だろう。さらに目を移すとその先にラブホテルらしき電飾の看板も確認できた。どの建物も大きくて豪華だ。高級志向のクラブやキャバクラが多いようである。
 その華やかさとは裏腹に駅からすぐ南側一帯は日本でありながら日本の風景とは思えなかった。どこか違う世界へ来たような違和感があった。しかし同時にひどく居心地の良さを感じた。不思議な感覚だった。
 高い建物は一切なく空が広く見える。巨大なビルもない。あるのはトタン屋根とバラックの家々、そして小さな屋台だけだった。舗装されていない道には人がごった返している。老若男女を問わず皆笑顔であり活気があり生き生きとしている。屋台には鳥や豚の生肉が吊されている光景がよく見え、肉料理を売っていたり魚貝類の網焼きを売っている店が多いようだ。その屋台の奥からは香ばしい煙とともにいい匂いが立ち込めている。そしてママの呼ぶ声に、子どもたちが裸足で駆けていく。その先の三角公園では、自販機で酒を買った大人たちが集まって談笑したり遊んだりして笑い合っている。そんな日常があった。

 そんな日常に奴らがやって来る、非情に、冷酷に。社会システムの歯車として、使命を果たすべくやって来る。社会という名の、敵がやって来る。社会システムという名の悪意が来る。社会システムの下、調和という名の拘束を振りかざす、暴力装置がやって来る。それが社会の掟だから。倫理でも道徳でもなく、義理でも人情でも人間味でもない。社会的規範こそが正義なのだ。それを守れない者は悪であり、排除されるべきだとされる。
 秩序の番人。警察機構の中でも精鋭揃いのエリート部隊。秩序の守護者にして執行官。彼らは法の代弁者であり、社会の影の支配者である。
 彼らは犯罪者や反体制派を狩る組織だ。法と正義を守ることを第一とする、法の支配のための組織。教育委員会所属、国民指導部。国家権力そのものであり国家が生み出す闇。その実態は国家によって生み出された公安警察部隊である。彼らの主な任務は監視だ。そして犯罪を犯した者に制裁を与えることだ。彼らは罪人を裁くのでない。彼らは罪人を処罰するのだ。彼らにとって正義とは手段であって目的ではない。社会の秩序と安定を守るために存在するのが、彼ら、国民指導部である。
 国民指導部は白いガスマスク越しに訓練された隊列を組み、軍靴の音を挙げ、着々と部落に近づいてきた。その数は三千を超えていただろう。ガスマスク姿の軍隊がこの部落を行軍することなど前代未聞であったろう。ガスマスク姿で火炎放射器を携えて現れたとき、部落の皆の顔には絶望と恐怖しかなかった。しかし無情にも彼らの歩みは止まらなかった。まるで部落の人間の感情も表情も通り過ぎていくだけかのように彼らは歩みを止めようとしなかった。この部隊は一個連隊規模にも匹敵するほどの数であり、軍隊というよりはむしろ暴徒に近く見えたかも知れない。彼らは武器を持たない一般大衆に対する扱いに長けていたがゆえにこういう手段を選んだのだが、これはあまりに残酷過ぎる選択だった。なぜならば、これこそが真の意味での虐殺、集団による暴力行為だからだ。そうしてついにガスマスク越しの視界に部落民たちが入った瞬間、隊長らしき男が右手を上げると同時に……

 粛清が始まった。

 国民指導部は一斉に火炎放射を始めた。被差別部落エリア51の人々を、町を、生かしたまま焼き払ったのだ。逃げ惑う人々を次々と焼いていく。その表情は白いガスマスクの無表情だ。これは穢れを浄化するための粛清、一方的な作業だった。焔を踏みつけ、灰となる町を踏みにじり、奴らはやって来る。国民指導部は火を放ち続ける。やがて火の海となったエリア51は、まるで地獄の釜のようになった。その中で生きながら焼かれて死ぬ人々がいた。断末魔の声が響き渡る。その声は悲鳴ではなく泣き声でもなく、ただの奇声であった。この世の地獄とはまさにここのことだろう。人々は次々と倒れていった。そして焼け死んでいく人々の死体を踏みしめ行進する。それが国民指導部である。国民指導部の白い仮面には返り血がついている。彼らは炎の中で無表情だ。マニュアル通り計画的に、手慣れた様子で、総てを灰にする。粛清していく。虐殺していくのだ。これが国民の手本であり、模範の姿なのだ。彼らこそ真の正義であり、真の秩序である。彼らが先導する国家は間違いなどしない。正義の名の下に殺戮を行い、粛清するのだ。

「テメェ!! 騙したな赤城!!!!」
「違う……これは」
「ゴチャゴチャ言ってる場合じゃねぇ!!!!」

 中嶋は赤城を置いて部落を走り出した。人々を避難させようと必死だった。
「……ヒロノブ委員長、やってくれたな」
 赤城は眼を見開き、水でもぶっかけられたような表情で同時に怒りにも似た感情のまま、真っ先に国民指導部の元へ走り出した。
「委員長! これはどういうことですか!?」
 赤城はスマホ越しに怒りを露わにした。しかし返ってきた声は平静そのものだった。
「何を言う。総て計画通りではないか」
 その言葉には何一つ迷いがなかった。
「あれほど粛清には反対したというのに!?」
「反体制派の根城は浄化しなければならん」
「粛清には血を流しすぎます! かえって反政府意識を逆なでするのが判りませんか!」
「赤城くん。君は嫌いだよ」
「そういう話ではありません!」
「私は君とは長い付き合いだから、君の正義感の強さはよく知っている」
「なら何故このような愚行に及んだのです!?」
「君に正義があれば、この行動にも意義はあるだろう」
「では今すぐ、被差別部落の人々に謝罪して下さい!!」
「……それはできない相談だ。なぜならこれは私の政策であるからだ。私の方針に従うのは当然であろう?」
「貴方はそれでも委員長ですか!!」
「私は神の地上代行だ。私の意思は神の意思。そして奴らは人間でなく穢れた穢多・非人だ」

 大いなる焔が総てを焼き憑くす。被差別部落の人々も町も、その家族も友達も恋人さえも。国民指導部が火を放つ。彼らは逃げ出していたが、それでも火は彼らを追ってくる。火の手が廻るより早く、人々は逃げ惑う。逃げ遅れた者から順に火に巻かれていく……この地獄絵図のような惨状を奴らは「粛清」と呼んだ。
この地獄の中、ただ独り逃げるワケにはいかない人間が居る。中嶋は独り被差別部落の人々の避難経路を確保し、誘導していた。
「こっちだ! このマンホールの中に逃げろ!!」
 闇を照らす焔に怯え、エリア51地区に住む人々が叫び声を挙げながら、地下下水道へと避難した。その先頭には黒スーツの男、中嶋がいた。彼の合図で皆はマンホールの下の空間に滑り籠む。中嶋もまた、その中へ入っていった。
 ここは被差別部落地区の地下下水処理場だった。彼らはここへ逃れてきた。そしてマンホールを閉める。ドン! と低く鈍い音が木霊し、辺りは再び闇に包まれた。息遣いだけが聞こえる。焼け痕や傷口に悶えながら、生きようとする必死の叫び声が響く。その音すら消えていく、暗闇の中で。人々の憎悪と恐怖の念が渦巻き充満していた。やがて人々がやっと辿り着いた場所、そこは……ゴミ溜めだった。腐敗して異臭を放つ生ゴミの中に埋もれ、皆が絶望の声をあげる。老婆は腕に抱えた赤児の遺体を、そのゴミ溜めに埋めた、そこしか埋葬できる場所がなかった。老婆が嘆きの声を漏らすと涙が溢れ出す。嗚咽を零しながら彼女はゴミをかき集めてつくった小さな土山に手を合わせると、静かに眼を閉じ啜り泣いた。隣では若い女が夫の遺体を抱えながら泣いていた。夫は妻を守るため盾になったようだ。妻の方は背中に大きな火傷を負い、そこから黒い煙を上げていた。彼の遺体を埋めるための場所を作るのに、何時間かかっただろう。もう誰も泣かない、誰も嘆かなかった。疲れ果て、誰もが泣く力もなかった。

 この地下道の上では……歓喜の声と軍靴が聞こえる。国民指導部がパレードを行い、何も知らない人々が歓喜の声をあげている。パレードは華やかで美しく楽しげだ。地下の人々は嗚咽の涙をあげている。地下と地上、すぐ眼と鼻の先で……国民は美しい夢に騙されていた。彼らは愚かにも美しい理想を信じ、それが実現されていると信じていた。彼らが信じているのは偽りの夢なのだ。虚構であり幻想である。そして真実を知る者は、彼らよりも深い絶望の底にいた。

 深い絶望の底、嘆き哀しむ人々と、何も知らずに歓喜する人々を前に中嶋は…………

 アァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 叫んだ。叫ばざるを得なかった。絶叫した。声を張り上げなければならなかった。喉を潰さんばかりに、ありったけの声量を振り絞って叫ぶしかなかった。でなければ気が狂ってしまうと思ったからだ。この光景を眼の当たりにした瞬間に感じてしまった感情は紛れもなく絶望そのものだった。まさに狂気としか思えない残虐行為だった。これはもはや虐殺である。ここは何処だ? 何をしていた? 革命? 抵抗活動? 誰と話していた? あいつは誰だ? もう思い出せない。自分が何者なのかさえ判らなくなってくる。判らないが判ることもある。眼前に広がる地獄の絵。これこそが真実なのだ。そのとき、
「!?」
 換気扇の鉄格子から、地上の光が差し込んできた。その先にあったモノは……
「……」
 血まみれになって棄てられた、白い装甲服……国民指導部の装甲服だった。


 地下道に避難した海咲は、激しい罪悪感に苛まれていた。もし赤城に中嶋の居所を教えなかったら……こんな悲劇は起きなかったのだろうか? そんな思いばかりが頭を駆け巡っていた。眼の前で火傷と傷に悶える人々を見ると海咲はいたたまれない気持ちになった。人々の痛みに苦しむ声が耳から離れなかった。何より人々の視線が無言の非難に思えてならなかった。
 なぜ自分たちを見棄てたのか?  なぜ助けてくれなかったのか?  どうして死なせたのか? 人々は眼でそう訴えているように思えてならなかった。
「海咲……あんた」
「え?」
 そう声をかけてきたのは、サランだった。
「あんたね!」
 サランは大声で怒鳴り、バンっと海咲を壁に押しつけた。海咲はビクッとして顔を上げる。怯えたような眼で唇を噛み締めると俯きながらボソボソと言った。
「ごめんなさい……」
「じゃあやっぱり本当なのね? 中嶋の居場所を国民指導部にリークしたっていうのは?」
「……」
 海咲はボロボロと涙を零しながら、コクリと頷いた。こんなハズじゃなかった。でも……海咲はもう、自分が、罰としてどうされても良いとさえ思った。そう思い、全てを受け入れた時……
「あんたね!」
「!?」
 サランが平手打ちをしようと手を上げたとき、思わずビクッと眼を閉じてしまった。その表情を見てサランは、しばらく考えると
「あんた中嶋が日教組や教育委員会と闘うのは、自殺したソアのためだって思ってる?」
「……」
「それとも私や部落民のため?」
「……」
「違うよ。中嶋は、自分のために闘ってるんだよ」
「!?」
「自分の気持ちに納得をつけるため、自分自身が前に進むため。中嶋はね、ほんとは何処までも自分のことしか頭にないのよ! ソアよりも……私よりも…………」
「……」
 サランはボロボロと涙を零し始めた。そんな彼女を見て海咲は……何も言えなかった。慰めの言葉も思いつかなかった。何を言っても偽善にしかならない気がした。だから海咲は立ち尽くすしかなかった。どうすることもできなかった。自分なんかよりずっとサランの方が中嶋を理解している……そんな気がしてならなかった。

 一方その頃……。
「オラオラ! 押すな押すな! 食料も水も日用品も人数分全部あるぜ!!」
 三叉組長率いる狂骨会三叉組の人間が水と食料を持って来て、避難民に配布し始めた。黒いワンボックスカーや大型トラックの荷台から、黒いスーツの男たちが、ジャージ姿の男たちが、特攻服を着込んだ女たちが、迷彩柄の戦闘服の男たちが、長ランの男たちとロングスカートのセーラー服の女たちが、様々な者たちが入り乱れて食料と水、日用品を取り出し配り始めた。様々な者たちが入り乱れて作業するさまは圧巻だった。特に特攻服の女たちの勇ましい様子は、かつてレディースと呼ばれた暴走族を彷彿させた。

「……」
 中嶋は焼け落ちた廃品工場で、押し黙ったまま一心不乱に……棄てられた白い装甲服を、国民指導部の装甲服を、ひとつひとつ手づくりで修理・強化しようとしていた。
「……」
「中嶋? お前は配給に参加しないのか?」
 何度直しても火花を散らして壊れてしまう装甲服を見て、彼は何度も唇を噛み締めていた。
「中嶋?」
 彼の眼差しはまるでとり憑かれたようだった。だから見守る誰もが言葉をかけられなかった。
「……じゃあオレは行くぞ」
 だから三叉組長でさえ、彼は払いのけるようだった。
「中嶋? それは舎弟や子分を、喰わせていけるモノなのか?」
「……」
「極道が下のもんに本来してやることは、一宿一飯を約束すること、喰わしてやることだ」
「……」
「中嶋、ヤクザには二種類のバカがいる。ヤクザにしかなれなかったバカと、好き好んでヤクザになったバカだ。中嶋、お前はどっちだ?」
「……」
 中嶋の心中にあるモノ、それは……憎しみだけだった。憎悪だけが彼を突き動かしていた。復讐だ。彼はたくさんのモノを奴らに奪われた、その憎悪に支配されていた。
「……中嶋?」
 その憎悪が彼の魂を突き動かしていた。
「ねぇ? ちょっと息抜きしようよ? 久しぶりに私の舞り見てよ、ねぇ」
「……」
「キャ!?」
 だから誰も彼を止めることができなかった。彼はサランの手さえ払いのけた。ただ……ひと言
「そっとしておいてくれ」
 とだけ言うと、彼はまた無言のまま作業を続けた。まるで機械のように淡々と。今の彼には感情がない。ただ眼の前にあるものを直して強くすること……眼の前の牙を、鋭く強く研ぐことしか頭になかった。それが彼にとって唯一の贖罪であり償いだからだ。
「……」
 海咲はそんな彼を、遠くからジッと見ていた。


 日教組中央教育会館


 会議が開かれていた。白い会議室だ。淡泊はぐらい真っ白な会議室に……移動式の長机と椅子に、多くの日教組員と教師たちが集まっていた。
「今、この国は大変な危機に瀕しています! いじめや不登校が増加の一途を辿る中で我々教職員が率先して生徒たちへの正しい指導を行わなければなりません!」
 マイクを片手に力を込めて熱弁するのは校長だった。彼の言葉には多くの賛同者が拍手を送っていた。だがそんな彼を睨みつける男が一人だけいた。彼は眼光だけは鋭い刃物のように研ぎ澄まされていた。彼は壇上の校長を見つめながら拳を強く握り締めた。
(あの野郎め……何にも判っちゃいねぇ)
 赤城は心の中で呟いた。
(権力を培うために左翼を演じるなら、主義も理想もただの方便じゃないか)
 赤城が赦せなかったのは、ソアが自殺した原因をつくった奴らだ。教育委員会であり、教師たちだ。ソアの死によって利益を得たのは誰なのか。ソアを殺したのは誰か。それが許せない。ソアには生きる権利があったはずだ。ソアには選択の自由もあったはずなのだ。それなのに……ソアは死んだ。自殺した。いや……殺された。それが赦せなかった。だからこそ……必要なのは改革だと思った。だからここまでのキャリアを培ってきた。
「皆さん! 今日の会議では重大発表があります!」
 ヒロノブ委員長がマイクを片手に話し出した。
「ついに準備が整いました! 『ムーンショット計画』です」
「!?」
 ヒロノブ委員長がそう言うと資料が皆の手元に渡り、眼の前の大きな画面にパワーポイントが映し出された。その映像を見て誰もが驚愕した。そこには驚くべきことが書かれていたからだ。皆もそれを読み上げた。
「『ハーモニー』は人の意識をデジタル化し保存するシステムです。このシステムは日頃からインターネットを通じて人々のデータを蓄積しています。つまり我々の意識の一部は常にコンピューター上にあります。我々人間は『ハーモニー』の中に生きているのです。我々は常に誰かに見られているのです」
 男は語り続けた。彼の声はとても穏やかだった。
「つまり『ハーモニー』というスーパーコンピューターに人々の意思を統合し、超社会主義国家の実現。完全なる平等とグローバルを実現する計画、それが『ムーンショット計画』です」
 彼の眼は慈愛に満ちた光を放っていた。彼はまるで神の啓示を告げる宣教師のように朗々と言葉を紡いだ。
「『ハーモニー』に総ての国民の意思を統合、管理運営をする。それによって全ての人が平等になり、自由意志をなくし、監視される存在になり、手をとって繋ぐ未来を目指す。これぞ日教組、教育委員会、先生方、左翼の目指す未来の実現です!」
 人々は歓喜し、立ち上がり、拍手した。まるでその様は神の生誕を祝う祭りのような熱狂ぶりだった。誰もが手を取り合い、抱き合い、口々に叫び、踊り狂った。誰も彼もが幸福そうな笑顔を浮かべていた。だが赤城は独り……
「なんですかこの自由と権利を剥奪した計画は!」
 ヒロノブ委員長と計画に反対した。
「バカげています。必要なのは改革。ヒロノブ委員長並びに『ムーンショット計画』には不信任案を提出します」
 バン!!!! カランカラン……彼がそう答えるのと同時、ヒロノブ委員長は、赤城を撃った。
「君は嫌いだよ」
 ヒロノブ委員長は拳銃で赤城を撃ち殺した後、死体に向かってそう呟いた。
「必要なのは革命でも改革でもない」
 ヒロノブ委員長は歩き出す。
「権力と保身だ」
 すると……
「!?」
 赤城はゆっくり立ち上がった。
「な……」
 急所を外していたのか
「ヒロノブ委員長」
 血まみれになりながらも命かながら立ち上がる。
「貴方は……」
 手にはギュッと『ハーモニー』の資料を握った。
「世襲制で成り上がった人間でない……」
 赤城は今にも息絶えそうな声で、自分の意見を言った。
「あなたは……元々は……貧しい農家の…………しかも虐待児だ……そこからこの地位にまで昇った。だから……弱い人間の気持ちが…………解るモノとバカリに思っていたが……どうやら違うようだ。貴方はただの……成り上がりの、権力に肥え太った豚だ」
 バン!!!! ヒロノブ委員長が再び銃を撃ったが……赤城はサッと避けた。そして……赤城は懐に入れていた書類を確かめながら走り出した。その様子に委員たちは慌てふためく。
「おい待て!」
 しかし赤城は止まらない。赤城の足取りは速く、あっという間に部屋を出て行ってしまった。
(早く……この『ハーモニー』の資料を、中嶋に届けなければ)
 赤城は必死になって走り続けた。ここは地下十階にある秘密の部屋だ。エレベーターはすでに動かない。だが彼は階段を昇っていく。赤城は息も絶え絶えだった。もうすぐで地上というところでついに足を止めてしまった。だが、諦めきれなかった。まだ死ぬわけにはいかない。男にはまだ使命があった。男の命に代えてでも、やらなければならないことがあった。そのとき、
「長官! こちらです」
「!?」
 若い男の声がした。
「お前は!?」
「こちらです! 長官! 早くお逃げください!」
 赤城は若い男に手を引かれるまま、薄暗い地下通路を走り抜けていく。二人は走り続けた。長い時間走っている気がした。もうどれくらい走っただろうか。ようやく彼が足を止めたのは、人ひとり通れるであろう、下水管の前だった。
「この先がエリア51です。中嶋はサウス21の廃品工場にいるもよう」
「そうか……感謝する」
「では私はこれで」
「待て!!」
「?」
「お前はこれで反乱分子だ。ただでは済まない……何故そこまでして助けた」
「ハハッ、長官は相変わらず硬いですね」
「……」
「お世話になったからに決まってるでしょ。人間の行動なんて……そんなモノですよ」

 赤城は走った、中嶋のいる廃品工場へ。息が切れる、苦しい、だがそれでも走り続ける。もうすぐそこに、目的地はある! あと五メートル、四メートル、三メートル……中嶋の声が、気配を感じる。中嶋がいる、赤城は走る速度を上げていく。二、一、〇!!
「中嶋!? 赤城さんが……赤城さんが!!」
「!?」
 海咲が叫んだ。廃品工場の前に血まみれの赤城が倒れている。赤城の身体に無数の銃創があった。血の海の中に赤城が倒れていた。海咲の声に中嶋が歩き出す。ゆっくりと歩く足取りには迷いがなかった。中嶋が歩み寄るより前に海咲が赤城の肩を揺らしている。中嶋は歩み寄ると……赤城の肩を抱いた。
「中嶋………………聞いてくれ、大事な話がある」
「……」
「これを……」
「!?」
 赤城は懐から、資料の入った封筒を出した。封筒自体は血まみれだが、中の資料は……守られて綺麗だった。
「日教組が恐ろしい計画をたてている……奴らは『ハーモニー』という…………スーパーコンピューターに……国民の意思を統合するツモリだ…………」
「……」
「そこの資料に詳しい内容が書いてある……あと、USBも…………いいかよく聞け、『ハーモニー』の弱点は……」
「!?」
 中嶋は赤城の話をジッと聞いていた。まるでこの瞬間だけ……子どもの頃に戻れたかのように。
「解った。じゃあ日教組中央教育会館の地下十三階に秘密階段を降りていけばいいんだな」
「中嶋………………オレを…………信じてくれるのか?」
 二人は肩を抱き合い、
「ったりめぇだろ」
 咲った。
「だってオレら」
 まるで少年時代に戻ったように、
「親友(ダチ)じゃねぇか」
 その笑顔は少年の頃と同じだった。
「あぁ……そうか」
 赤城は純粋無垢な少年のような顔つきをして、
「親友(ダチ)か……」
 涙を零した。

 二人はまるで少年だ。だがこの世界には不釣り合いなほど眩しい輝きを放っている。二人の瞳からは涙が零れ落ちていた。
やがて二人は離れると、それぞれの道へと歩み始めた。もう二度と交わることはないだろう。それでも彼らは幸せそうであった。彼らの人生はこれから先、どうなるのか誰にもわからない。だが彼らにとって幸福であることに変わりはないはずだ。彼らがどんな道を歩んでいこうとも、彼らはお互いのことを忘れないだろう。たとえ二人が再び出逢うことになろうとも。


 月日が流れ……『ムーンショット計画』は着々と進められていく。街中の街頭広告や電車の広告に、「『ハーモニー』との融合」をうたった宣伝が四六時中流れるようになった。また、テレビ・インターネット広告でも、「脳のスーパーコンピュータ化によって人は生まれ変わる!」と喧伝していた。さらに教育現場においては、「生徒一人ひとりの能力を可視化する」という名目で、生徒が身につけるものすべてにAR(拡張現実)機能が付与されることになった。これはすでに一部実施されており、数年後には全中学生、高校生に実装されるとのことだった。この施策は文部科学省だけでなく総務省からも推奨された。特に教育委員会と学校教育委員会は率先して推し進めるよう奨励したほどだった。これらの政策により、国民の誰もが自分なりの能力を手に入れられるようになる!  という触れ込みだった。もちろん反対意見もあったが、政府高官のスピーチがそれを吹き飛ばした。曰く、「『ハーモニー』による脳統合は人類の夢であり、すべての国民に実現されるべきものである」というものだ。

 そんなあくる夜、中嶋は……焼け爛れた廃品工場の下、ついに装甲服の修理・強化を終えたようだ。黒い装甲服だった。真っ暗な装甲服に、黒い鉄兜(シュタールヘルム)、そして黒いガスマスク。ついに戦闘の準備ができたらしい。これから、最後の闘いが始まる。
「……」
 海咲はその夜、不思議と眠れなかった。なんだか胸騒ぎがしていたのだ。中嶋が自分の元を去ってしまうのか。ただの虫の知らせなのか。それとも……そんなことを考えていると
「!?」
 扉をノックする音がした。
「!!」
 海咲が慌てて扉を開くと、そこには……
「……」
 黒い装甲服を着けた中嶋がいた。
「海咲……今からオレは、『ハーモニー』を殺しにいく」
「うん……そんな気はしてた」
「オレを売るか?」
「……」
 海咲は黙って首を横に振った。
「そうか……」
「ごめんなさい……あの日、あの粛清の夜、赤城さんに中嶋を内通したのは、実は……」
「大丈夫だ……知ってたよ、全部」
「え……」
「全部知っていた、でも……海咲を憎むことはできなかった。だから……今夜も、海咲ならって」
「……」
 海咲はまるで、身をゆだねるように全身から力を抜くと、瞳をとじた。そして足を伸ばし、背伸びをする、中嶋の傍らまで。
「……」
 思えば中嶋と過ごした日々はいつも楽しかった。たくさん無茶なお願いをしたのに、中嶋はいつも聞いてくれた。二人で映画を見たり、カラオケに行ったりした。映画館では手を繋いだ。カラオケボックスでも、手を繋いでデュエットした。中嶋の手は大きくて、温かくて、力強く握られたら安心できた。まるで父親のように、いやそれ以上に頼りがいがあった。
 カラオケでは、歌が好きだった。パッションがとてもあって、聴いていて心地良かった。そして何より楽しそうに歌う姿に心惹かれた。その姿は生き生きとして輝いていた。
 何より……還りに見た夕陽が、とても綺麗だった。また一緒に夕陽を見たい。今度はもっと楽しくなりそうだ。そんな予感がする。この人とずっと一緒になりたい!  海咲は胸の中でそう願った。

 中嶋が『ハーモニー』と戦う決意を固めた時、

 中嶋とキスをした。海咲のファーストキスだった。
「……」
 唇を重ねるだけの優しいキスだったが、それで十分だった。それだけで心が満たされていた。
「これ、持っていって」
 海咲は気恥ずかしそうに顔を下に向けたまま、懐から一本の……短刀を出した。
「お守り、この部落に伝わるおまじない。生理(センニ)を迎えた女の子が鞘に模様を彫って、好きな男の人に贈るんだって」
「……」
「ずっと中嶋にあげようって彫ってたんだ」
「ああ……ありがとう」
 そう言うと中嶋は短刀を懐に入れ、黒いV-MAXバイクにまだがった。そして黒い鉄兜(シュタールヘルム)を被り、黒いガスマスクを着けようとしたそのとき……
「いいのか? これを着ければオレは、人間でなく、悪魔になる」
「でも仮面の下は、私が知ってる中嶋でしょ? じゃあ恐くない」
「ハッ……」
 中嶋はクイッと微笑んだ。そして……黒いガスマスクを着ける。ハー……ハー……という吐息が漏れ……闇夜のカラスのように、月夜に吠える狼のように、中嶋の姿が見えなくなった。まるで黒装束のような出で立ちになり、全身が黒の装備で覆われていた。漆黒の鎧武者となった中嶋は……悪魔のような赤い眼光を宿した。

 凍てつく月夜に照らされ、黒いV-MAXバイクにまたがった中嶋が走り出した。罪より暗い闇夜を照らす血よりも冷たい月夜を背に、ハンドルを握った両手は強く握られ、握りつぶしてしまいそうなくらいだ。
 Vツインエンジンの排気音が、夜の街で轟いた。風を切るように走る黒いバイクが通り過ぎていく光景は異様でありつつも幻想的で美しく、映画のワンシーンのようだ。

「……」
 国民指導部に焼かれた部落を抜け、高架線の向こうのネオンと電飾に彩られる街を抜けていく中嶋を見送った海咲は、中嶋の行く先に向かって叫んだ。
「国民指導部! 日教組! 教育委員会! 『ハーモニー』! 覚悟なさい!!」
 海咲は腰まである黒髪を夜風になびかせ、クイッと前髪を上げた。
「今からあなたたちを殺しに行く人は」
 月明かりに照らされた横顔はとても神秘的で綺麗だった。
「私の愛してる人なんだから!!」
 海咲はクスッと咲うと、真剣な眼差しで中嶋の背を見つめた。それはまるで何かを決意したように力強い瞳をしていた。

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