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小説「宇宙犬マチ」 第5話



十四 改革 マチ
一年が経った。
二十九人の仲間は英知を絞り、力を合わせて人間の改革法に挑んだ。共通の思いは地球上の人と生き物と自然を愛しているということ。手法は見つかりつつあった。
しかし、いきなり大変な事が起きた。世界中に強力な新型ウイルスが、蔓延し人が死に始めた。歴史的にみれば、各国がそろって行動し、新型ウイルスに立ち向かうはずなのに、各国のトップが利権を競い合い、その発生原因をなすり付けるという、醜い争いに発展していった。
ますます国と国、人と人、人種間に不信と諍いが起き、デモが始まり、小さな紛争やクーデターやテロ、しまいには戦争まで起きてしまった。キナ臭い状況がすべての地球上に広がり、宇宙への脅威が高まってきてしまったんだ。宇宙司令からは、状況が悪くなった場合、途中で対策を放棄し、地球を消してしまうように、と指示されていた。
早く対処しないと、とんでもないことになる。仲間も不安に陥っていた。
ほぼ人間の欲望をコントロールする手法は見つかっていた。ある成分に絞った超高調波を聞かせればいいことが明らかになっていたんだ。見出した超高調波を、SNSをはじめあらゆるメディアに乗っけて、発信し世界中にバラまけばいいはず。
同時に僕たちは地球規模で影響を与えている新型ウイルスを取り除こう考えていた。これはさほど難しいことではなかった。
 
綿密な準備が終わり、あと一か月で実行できるという時に問題が起きた。イタリアの仲間に危機が迫ったのだ。彼はドーベルマンという大型犬に乗り移ったので、すでに十二歳を超え、寿命が近づいていたのだ。
宿犬が死ぬ前に、抜け出して宇宙に戻らないと、仲間自体が一緒に消えてしまうことになる。
僕は、宇宙司令にメッセージを送り、嘆願した。彼はしばらくして、無事還っていった。
彼は僕の片腕のような重要な存在だった。彼を失ってしまったのは、大きな痛手であった。『人類改革計画』の実施まであと七日というところまで来ていたのに……。
しかし少しでも早く実行しないと、次々に各地の起点となる宿犬たちが寿命を迎えてしまいそうな状況でもあった。
 
ようやく超高調波の発信準備が整った。この間、宿犬の問題から九人の仲間が宇宙に還っていった。いずれも地球で世話をしてくれた親切な人々のことに思いを馳せながら……。今までの調査では、偶発的な事故や災害で命を失った事例はあったが、このような形で命を失わせてはいけないんだ。
その九人もなんとかギリギリのところで宇宙に戻ることができて良かった。
地球に残るのは二十人ほどの仲間。彼らと力を合わせて、人間の欲望を失わせる“音”をあらゆるメディアに乗せて発信した。
発信を終えると、達成感と大きな疲労感と喪失感が入り混じった複雑な感覚を覚えた。
あとは効果を確認しながら、地球の研究を続けていくことになる。
 
地球は本当に宇宙全体を見渡しても、稀有な存在の星だ。生き物の知性はゆっくりと進化し、無数の生き物は多様で、複雑に絡みあって共存している。連鎖というのだろう。突き詰めていくと何ひとつとして関わりのないものは見当たらない。
だからこそ、研究を続けることはとても興味深いことであり、必ず宇宙全体のためになることだと確信している。ある意味、地球は宇宙の起源の塊かもしれない。研究は『人類改革計画』を実行するより、はるかに喜びもある。例の音を発信後は、無理をしない範囲で仲間と交信して研究データを集め、分析に没頭した。
夜中ずっと起きていることもあり、昼は寝ていることが多くなった。おとうさんとおかあさんは心配をしてくれる。僕は、なるべく心配をかけないようにふるまっていたが、二人の優しさはとても嬉しい。
おとうさんもおかあさんも、あの“音”を聴いていた。でも、まったく性格が変わった感じはしなかった。その後よく調べてみると、思考と行動が変わる人がほとんどだけど、ほとんど変わらない人たちがいる。それがどうしてなのかは、わからないけれど、何らかの要因で欲望を制御できている人たちがいることは、不思議でならない。
 
<欲>というのは、人間の本性ではないのだろうか? また謎が増えた。身近な二人が変わらなかったころで、その効用に心配も生じたものの、変化しないことは僕にとって安堵をもたらしてくれたし、当然のことだとも思えていた。
きっと、世界中の仲間を受け入れている家族たちも、変わらなかったのだと思う。僕たちの使命を最初から理解してくれた何者かが、<欲>を持たない素晴らしい人たちに預けてくれたのだろうか?
ひょっとして人間が敬う“神様”とか“仏様”という超越した存在がいるのかもしれない。
なんと非科学的な……と思い、僕は愉快な気持ちになった。
それぞれの家族のことを聞こうと、夜中に仲間たちに交信を始めると、同じような環境にあり、同じような考えを持っている者が多い。彼らの家族はいずれもほとんど変化が見られなかったのだ。なんてこと!
 
十五 効果 マチ
“音”を発信して、一年近くが経った。僕たちの創り出したものの効果は想像以上のものだった。この一年の間で、ほとんどの戦争が止まり、国と国の諍いもほとんど下火になった。
多くの国は協働し平和条約を結び、未だ解決していない未知のウイルスや難病に立ち向かうようになった。途上国で爆発的な拡大を続けていたウイルス禍は、多くの国の力を合わせて開発された有効なワクチンにより抑え込まれてきた。実はこのワクチンの原型は実は僕らが作り発信したものだったんだけどね……。そして、僕たちは特効薬の開発にも力を注いでいた。
世界の全ての地域で、あと一年もあれば今まで通りの普通の生活に戻れるだろう。
同時に進められていた地球の研究もかなりの成果が出てきていた。宇宙にとっての有効なデータも集まり、地球の存在がなくてはならない唯一無二のものという証明もできるほどの状況になっていた。
宇宙にとって、“悪”から“善”に変わっていく地球。それを手助けし、見届けてのいられるのは、僕たちにとって大きな誇りであった。
成果が出始めたことで、多くの仲間が地球から離れる許可をもらい、宇宙に還っていった。きっと今ごろは次の星に派遣されていることだろう。
全てが順調にいっていたし、おとうさんたちと過ごす日々は楽しく喜びに満ち満ちたものだった。
 
Ⅶ 平和 ヒロキ
 最近、いきなりマチの体調がすぐれない日が増えてきた。調子の良い時と悪い時が周期的にやってくる。ハイテンションな時があると思うと、ほぼ一日中なんとなくダルそうに寝ていることもある。どんな時でもあった食べ物への執着にもムラが出てきて、食べ残しが多くなったり、とても好きだったジャーキーもいきなり食べなくなったりするようになってきた。もう十二歳を過ぎ、人間の年齢に換算すると七十歳近くなっているから、仕方のないことかもしれないが、やはり心配になってしまう。
 マチは毎年年始に定期健診をやっていたが、膵臓の数値を示すリパーゼの値が極端に高くなり、ついに薬を常用するようにもなってしまった。続いて心臓肥大による弁膜症を発症し、いきなり呼吸が荒くなってしまった時にはあせって、すぐに病院に駆けつけた。急に旅立ってしまったハッピーのトラウマが蘇った。それも薬を飲むことで安定したが、腹下しを頻繁に繰り返すようにもなっていった。
 まさに満身創痍といった感じだったが、マチはいたってケロッとしていて、いつもと変わらない感じだ。だが、やはり寝ている時間が長くなっていた。特に苦手な夏になると、すぐにハアハアとなってしまい息が荒くなってしまうので、無理はできなくなってしまった。もう一度あのリゾートホテルに行きたいと考えていたのだが……。
 今もマチは人間並みのいびきをかきながら、眠っている。朝はやっと起きて朝ご飯と薬を済ませ、また寝てしまう。こんなことが続いていた。
 ちょうどこの時、新しいウイルスの感染が増加し、同時に世界中で不思議な現象が起きだした。いきなり蔓延していた自己主義、利己主義、利権主義といった欲ばりな人間が、無欲になり出したのだ。そのおかげで世界のあちこちではびこっていた諍いや侵略戦争が急激に鎮火に向かっていった。いつもどこかで起きていた小さな戦争も休止され、紛争もテロもその後一年も経たないうちになくなっていった。今まで多くの人々が平和を願って活動をしても、一向に戦争や大小含めての諍いがなくならなかったのに、いきなり人類は平和への道を歩み出したのだ。
 いったい何が起こったのか? 全くわからない。だが身近な人を見ていても利己主義を主張していた人間がなんとなく無気力になり、意欲が消えていった。原因は不明だ。世界の人々が、人種や性別、階級、宗教の壁を超えて共存の道を歩み、お互いを尊重し協働する理想郷の姿がいきなり見え始めたのである。
 二〇二五年になり、世界の人々が手と手を取り合って共存を果たしつつあるころ、ずっと疲弊していたマチはひと息ついた安らかな顔つきになっていた。まるで、彼が望んだ世界になって安心したかのような感じであった。食欲もほぼ戻り、従来のマイペースなマチに戻ったようであった。
 戦争や紛争、あらゆる差別さえなくなれば、あとは気候変動問題、貧困問題、人種問題、食料問題などに、世界の叡智を集めて取り組めばいいのだ。ゆっくりとしたペースかもしれないが、いずれは解決できるだろう。そんな、希望に満ちた報道ばかりが世界を飛び交い、僕も期待で胸がいっぱいになっていた。新型の殺人ウイルスも発生したが、それも、人類が協力して立ち向かって、偶然ワクチンと特効薬が見出され、終息した。
 
Ⅷ 災い ヒロキ
 しかし、幸せな時は続かなかった。このタイミングで、いきなり大きな災いが降ってきた。さらに感染力が強大で、致死率が高く以前とは全く異なる新型ウイルスが欧州から発生して、あっという間に世界のあちこちに感染が拡大し、死者が一気に増加していった。世界中の研究者が集結し血まなこになって、治療薬とワクチンの開発を急いだが、なぜか意志が高まらず思うように進まない。同時に、感染者の中の重症者が爆発的に増え、地球の隅々までパンデミックに陥った。そして、どの国でも患者が溢れ、医療機関がパニックになっていった。
 大学病院に勤めるリサもこのウイルス患者の対応に追われ、自宅に戻れない状態となった。病院に缶詰になって、ウイルス患者の対応を指揮している。僕の不安は日に日に高まっていく。ついこの前まで、安堵の気持ちが心を占めていたので、なおさらであった。マチは、当初リサが帰ってこない事を不思議そうに思っているようで、夜になると玄関あたりの音を聞きつけると、“タタタタタ”と何度もドアの所へ行って、クゥーン、クゥーンと喋るようになっていた。
 僕も以前は、ほぼ毎日のように打ち合わせとか会食とかに出かけていたが、近所に買い物に出かけるだけで、感染予防のため自宅にいて、オンラインで仕事をこなす日々となってしまった。ほとんどの人が外に出ず、職場にも行かずに、自宅にこもり仕事をこなす、そんなライフスタイルがいやおうなしに定着した。マチは、リサに会えないことは寂しく思っているようだが、僕がずっと家にいるので、甘えることが多くなった。そして僕の見えるところで安心して寝ることも……。「マチ、これから世界はどうなるんだろう? せっかく良い方向に進んでいたのに」と、彼に声を掛ける。その時、マチは何度も首を左右に傾げながら、私に何かを訴えるように喋り続けた。
 一週間ほどして、リサが帰って来た。明らかに疲労が顔に出ていて、いつもツルッとした感じだった肌はガサガサになり、目の下に明らかにクマができている。帰ってくる時はいつもきちっとしていた髪もボサボサな状態だった。
 「とにかく毎日が闘いなの。せっかく世界中から諍いがなくなりそうなのに、今度は凶悪なウイルスとの戦いの日々となってしまったわ。私の病院も野戦病院みたいで、入りきらないほどの重症患者が運ばれてくる。もう限界。どうしようもないの……」と、今まで聞いたことのない愚痴を帰ってくるなり口にして、僕を遠ざけた。マチも彼女の顔を舐めようと飛びついたが、拒否された。
 「ごめんなさい。一応検査をして陰性なんだけど、百パーセントじゃないの。家でもマスクをしてほしい。そして、私は寝室で過ごすわ。本当はマチを思いっきり抱きしめたい。もちろんあなたも……」と、続けながら、とても悲しい表情となった。「ごめんなさい。少し眠らせてもらうね。早くマスクをしてね。絶対よ」と言って、シャワーを浴びて、風呂に入り、その場を消毒した後に、寝室に入っていった。寝る時間さえ満足になかったのだろう。
 僕はマチと顔を見合わせて、「せっかく帰ってきたのに、残念だね。身体は大丈夫かなぁ。今の彼女には休息が一番だね」と言いながら、マチを抱きしめた。マチは、寂しそうな声を出し、仕方なさそうに、僕の顔を三度だけ舐めた。
 その夜は、デリバリーと共に僕が簡単な料理を少し作り、リサが起きてくるのを待つことにした。起きてきた彼女の表情には、安堵の気持ちがうかがえた。久しぶりの皆揃っての食卓だったが、テーブルの端と端のイスに座り距離を取っての食事だった。でも僕は嬉しかった。マチはずっとリサの足元にいて彼女の足にじゃれついて、何度も飛びつこうとしたり、食べているものをおねだりして、嬉しそうにシッポを振り続けていた。リサの顔色は少し赤みをおびていて、元気が出てきたように見えたので少しだけ安心した。
 「とにかく、人手も足りないし、ベッド数も、医療機器も全く足りていない。感染患者は爆発的に増えていくし、死者も増えていく。自宅に帰ることができない医師や看護師が大半なのよ。一日でも特効薬が見つからないと、大変な事になるし、みんな倒れてしまうことになりそう」とリサが強い口調で言う。医療機関は相当過酷な環境となっているのはニュースでも毎日やっていたが、現場は報道をはるかに超えているようだ。
 僕は、彼女の身体を心配した。しかし、彼女はとにかく使命感の強い人であり、“仕事に戻らないでほしい”とは口にすることはできなかった。
 とにかくあまり会話がウイルスのことに向かないように、自分が今やっていること、不在の間の日々の生活、マチのこと……といったたわいのないものを持ち出すようにしていた。「マチは、今日は元気だけど、最近は毎日寝ていることが多いんだよ。相変わらずよく喋るし、訳の分からない寝言もいっぱいさ。でも、君がいないから寂しそうだよ」と。
 リサは優しい顔になって「マチありがとう。心配しないでね。きっともう少ししたら落ち着くから。またみんなで旅行に行こうね。それまで、おとうさんのことをよろしくね!」と言い、マチの頭を何度も何度も撫でた。
 
 マチはしっかりお座りをして、何かをしきりに喋っていた。クゥーン、クゥーンと。リサは酒が強く、とても好きなのだが、この日は赤ワインをグラス一杯飲んだだけで、顔がまっ赤になり、それ以上飲まなかった。疲れもあるだろうが、体調も悪い気配がして、不安が胸いっぱいに広がったものの、できるだけ明るく振舞うようにしていた。
 この夜、リサは十一時過ぎに再びベッドに入って、寝息を立て始めた。僕はソファーに横になり、そのままウトウトしていたが、マチがよじ登ってきて、ペロペロ顔を舐めてきたので、書斎に行き簡易ベッドにもぐり込んだ。マチも一緒に着いてきて、僕の足元に横になった。それを確認すると、あっという間に暗闇が訪れた。
 
十六 崩壊 マチ
しかし、そんな時はもろくも崩れ去った。
欲望をコントロールすることで諍いはなくなっていったが、人類は進歩することも諦めるようになっていった。経済は停滞し、学校に行かず、仕事をせずにダラダラと過ごす人が急速に増えていった。そんな中に、新しく強力な殺人ウイルスが発生した。
今までのウイルスとは、ワクチンと特効薬により、うまく共存を図れるようになってきた。しかしこの凶悪なウイルスに対しては、性急に対応できる人があまりに少なくなってしまっていて、かつてない強い感染力があり命を落とす人が増大した。
とにかくウイルスの勢いが強く感染が早い。それに対応し、対策を先導できるのは、例の超高調波によって考えが変わらなかった人たちだけであった。
対応が後手後手になり、医療現場がパニック状態になっていった。もう人の手では手の打ちようがないことは明らかだった。
僕は、焦った。せっかく地球を守り、人が存続できるために二年以上を費やし、ここまで来たのに……。
ついに、身近なリサおかあさんにも危険が迫ってきたと感じ、僕たち宇宙犬は、パニックになりかけた。なんとかこの新しいウイルスをくい止めるワクチンを見出し、拡大を抑えなければならない。このままでは、おかあさんもおとうさんも倒れ、人類も滅亡してしまう。
何のために調査に来て、必死の対策と研究を行ってきたのか? 地球の残っている仲間と共に、緊急の対策を探った。一度病院から帰ってきたおかあさんのマスクにウイルスの一部が付着していたので、すぐに分析をして、理論的に立ち向かえるワクチンの構造を見出す行為に明け暮れる日々となった。
 
Ⅸ 急転 ヒロキ
――夢を観た。ウイルスで人類が弱った地球に、いきなり宇宙から大きな円盤で使者がやってきて、地球のあちこちを攻撃し始め、まったく抵抗できない人間は逃げまとうばかり。そんな時、マチが巨大化して、その侵略者を追い払おうとする。しかし、いきなり八つの首を持つ巨大な龍のような怪獣が円盤から現れ反撃され、マチが瀕死の状態に。“マチ!”と叫んだところで、目が覚めた。あたりを見渡すと、マチの姿はなく、寝息も聞こえない。なぜか、リビングから光が漏れていた。前にもあったような光景で気になったが、精神的な疲れですぐにまた眠気が襲ってきて夢の中に引き込まれていった。
 翌朝、リサは軽くコーヒーとトーストとオレンジを食べて、すぐに病院に向かった。少しだけ元気そうで明るい表情をしていたのが救いであった。
 「じゃあ、行ってくる。マチのことよろしくね」と言い、「マチ、おとうさんのことを頼んだぞ。またすぐ会えるよ」とマチの頭をポンポンとした。「また連絡します。くれぐれもウイルスには気をつけて。では、行ってきます!」と言い残して出かけていった。見送る僕たちに何度も大きく手を振って、見えなくなってしまった。
 それから三日間ほど家にいて、書き物を続けつつ、時々テレビやネットでウイルスの感染情報を入手していた。状況は刻一刻と悪化の一歩を辿っていて、検査スポットや病院に人が押し寄せ、怪我人まで出るようになってしまっていた。マスク不足、消毒液不足を本格化し、それを手に入れるための諍いのよる事件も続発していた。罹患した人への差別、医療従事者への偏見すらも起きていた。そして国の上層部が意欲を失くしていて、それらの問題を収束させる中人人物も不在となり、次第にカオス化していった。それは、世界のどの国でも同様で、このことが原因で再び紛争の危機性が高まっていた。せっかく平和の道筋ができてきたのに――。
 マチは僕に寄り添うようして、世界の状況を見つめていた。そして、何か険しい顔をするようになり、また日中に寝ていることが多くなった。しかも、寝ていて、言葉のような早口な寝言を発して、まるで誰かと会話しているようであった。また食欲もなくなり、みるみるうちに痩せてきた。僕の周りには心配事がたくさん渦巻いていたが、自分にできることは、まったく見出せなかった。いったいこの状況下で、どうしたらいいのか? なんて無力なんだ! こんな自問を、起きている間中続け、強い酒の力を借りて、なんとか眠りにつくようにまでなっていた。そんな時、マチが近づいてきて、お腹をなでてくれと催促したり、股の間で寝息を立てている姿を見ると、荒んだ気持ちが和らぐ。彼がいてくれて、本当に良かったという強い思いが日々積もっていった。
 リサからは時折、LINEが来るだけだった。それも“マチは元気?”“気をつけて!”“私はなんとか大丈夫”とか、一言だけ。“リサこそ気をつけて!”“元気でがんばっておくれ”“帰りをまっているよ!”とか返信しても、既読にはなるものの、返信が来ることはなかった。それだけひっ迫した状況なのだろう。
 
 リサが病院に戻って七日目の夜、スマホがブルブルと震えていた。とっさに画面を見ると、彼女が務める病院からだった。慌てて出ると、同僚の看護師の女性からだった。「リサさんが……」という一言が聞こえただけで、しばらく沈黙した。「どうしたんですか、リサに何か?」と大きな声で問うと「先ほど急に発熱をして倒れたので、ウイルス検査をしてみたら、陽性でした。今ICUに入っています」と彼女は告げた。僕は絶句した“どうして? なぜ”という言葉が頭の中をぐるぐると空回りしていた。なんとかそれを拭い去り、「それで、容態は?」と言葉を振り絞った。「かなりの高熱が続いていて、呼吸も自力ではできない状態です。効くと思われる薬を投与していますが……」。もう、涙声になっている。「まさかリサさんが……すみません。またご連絡します。急患が来ました。大混乱です」と看護師の同僚は一方的に言って、通話が切れた。
 僕は、何も考えられないほどショックを受け、頭の中が真っ白になって立ち尽くしていた。どれくらいの時間が経ったのだろう。マチが足をカリカリしてくれて、正気に戻った。いきなりソファーに座り込み、マチを抱き上げた。彼は真剣な眼差しで僕をみていた。「どうしよう、マチ。リサが、リサが……」と声が出た。状況を察したのだろう。マチはうなだれて、シッポが下がってしまった。しかし、しばらくすると、マチは僕の涙で濡れた頬を舐め顔にスリスリして、寝室の方に行ってしまった。僕は机の上に突っ伏した。効果が確実にある薬さえあれば、どんなことをしても手に入れて届けるのに。そんな薬は現在の地球上には存在しない。まったくの無力だ。頼むから助かってくれ。そして再び笑顔を見せてくれ、リサ! そう祈ることしかできなかった。
 あまりの絶望感から、そのままソファーにもたれ掛かって、意識が遠のいた。それからどれくらい経ったのだろう。何か温かいものが、腕をつついている。マチの鼻であった。もう夜中の一時を回っていて、辺りは恐ろしいほどの静けさだった。僕は隣にいたマチの頭を撫でその温もりを確認して、ベッドに入ることにした。明日病院に電話を入れよう。悪夢は去って、きっとリサは大丈夫なはずだ。そう思い込ませて、スマホをしっかり握りしめてベッドに潜り込んだ。マチもベッドによじ登り、僕の腕にもたれ掛かるように寝息を立て始めた。彼の寝息を聞くや否や緊張がほぐれ、夢の中に落ちていった。少ししてマチがベッドを降りる音に気付いたが、眼を開ける気力さえ失っていて、そのまま闇の中に居続けた。
 息苦しくなって目が覚めた。寝汗をかいていた。覚えていないが、何かとても辛い夢を見ていた気がする。背筋がゾクゾクして、見た夢を思い出したくない気持ちが頭いっぱいに広がった。枕元に置いたスマホを見ると午前三時過ぎだった。着信がないことだけを確認してスマホを消した。今にも着信がありそうで、とても怖い。トイレに行って着替えをしようと起き上がったら、リビングの方からまた青白い光が漏れていた。マチを探すと寝室にはいないようだ。リビングを確認しようと思ったが激しい頭痛がしたので、用を足し着替えを済ませただけでベッドに戻ることにした。何か見てはいけないもの……。直感的にそう感じてもいた。
 また夢を見た。この前と同じように、マチがリビングでパソコンを操作している。その表情は、あのリゾートホテルで見せたような威嚇をしているみたいに歯を剥き出しにして、眉間に皺を寄せ、まさに攻撃的なものだった。それを見た僕は、マチが何かを破壊しているかのように思われ、「マチ! やめるんだ!」と思わず叫ぶ。マチは僕の方に向き、目を眩しいほど光らせた。その瞬間、僕の身体は凍りついた。その眼光は脳を突き刺すほどのパワーを持っていた。光は記憶を司る部分に到達してこうつぶやいた。「地球は消える」と。しばらくして、「助ける、助けなきゃ。助ける、助けなきゃ……」という言葉がリフレインして、自分の頭の中が、その言葉でいっぱいになった時、パッと光が消え、爆発音と共に青い地球が粉々に砕け散った。僕は大きな暗黒の穴に落ち込みそうになり、右手を伸ばした。ふと小さな温かいものに触れ、それを必死に掴んだ。急に夢から覚醒して、目を開けると。そこは寝室であった。掴んだのは、へそ天の状態で寝ているマチのシッポであった。カーテンの間からは、明るい日が差し込み始めている。額は汗でぐっしょりだったが、不思議と身体には汗ばんだ感じはなく、そっと右手をマチのシッポから離す。彼は、チラリと横目で僕を見たが、そのまま寝息をたて始めた。
 なぜかマチが僕を救ってくれた気がしてならなかった。さらに右手を伸ばし、彼の腹を撫でると、その温もりが伝わってエネルギーに変わった。人類が未曽有の危機から救われる、そんな確信が湧いてきた。時計を見るとすでに七時近くになっていた。
 
Ⅹ 別離 ヒロキ
 その朝は久しぶりに快晴だった。目を覚ましたマチも、察知したのか、すぐにベッドを降り、水を飲み始めた。僕もゆっくりと額の汗を拭い、またスマホを確認した。着信はないので、安心して起きることにした。
 いつもの朝のルーティンをこなし、すぐに着替えをしてマスクをしてマチと散歩に出た。もう太陽の光が強く、マチの影をくっきりと作り上げていた。少し頭痛がして、身体もあちこちが痛い。まさかウイルスに? とは思ったが、熱はなさそうだった。マチはいつものようにさっさと用を足し、いつものコースをあちこちにある手紙を読みながら、前に進む。いつもよりペースが速い。明らかに早く家に戻ろうとしていることがわかった。マチに引っ張られながら、自宅に戻り、まずマチとハッピーの食事を用意した。マチは薬を飲む必要があるので、少し手間がかかるが、干し芋にくるんだ薬をすぐに飲んでくれたので、自分もいつものより早めに朝食にありつけた。ハッピーの食事は遺影の前に毎日上げている。
 濃い目のコーヒーを飲むと、頭もスッキリし、頭痛もなくなり、元気が出てきた。マチはカリカリフードをすぐに食べ終え、僕のパンとみかんをおねだりに来た。
 簡素な食事を終えると、いつものようにパソコンのメールを確認する。夜に受信していたメールは、セールスか急ぎではない仕事関連のリリースメールばかりだと思ったのだが、ひとつだけ【緊急案件】というタイトルが付いたものがあった。またスパムメールかと思い、ゴミ箱に入れようとしたが、用件と冒頭の文章を見た瞬間、脳が刺激された。そこには英語でこう書かれていた。“重篤になったウイルス患者に高い効果のある構造物”と。そして、化学式らしきものが併記されていたが、その方面にとんと疎い自分にはチンプンカンプンだった。最後のセンテンスには“真実なので、信じてほしい”と書かれていた。
 発信者の名義は、外国の大学名と数人の名前が列記されていた。リサの病状が気になっていた僕は、すぐにでも信じたい気持ちとなった。すぐにリサのいる大学病院に電話をして主治医にことを話すことを決めて、スマホを持ち出した。
 しばらく待ってから何とか電話に出てくれた主治医にこの件を話すと、なんとまったく同じメールが届いているとのこと。「ちょうど気になって、構造式と実績を調べるように、指示を出したところです。見た感じ、かなり複雑で同じものはたぶん存在しないので、合成して作らないといけないものだと思われます。しかし、近い構造の薬があれば、効果があるかもしれない。実は奥様がかなり危ない状態に陥っています。一時を争う状態なので……」。主治医の女医は興奮気味に早口で喋って、「少しだけ時間を下さい」と付け加えて電話を一方的に切った。
 “危ない状態”。この言葉に僕は身体中の力が抜けていくのを感じていた。しかしこうなったら、送られてきたメールを信じて賭けるしかない。時間との闘いとなる。僕にできることといえば、このメールの信憑性を確認することぐらいであった。メールの送信者には、外人の名前と共に、サイトのアドレスが記載されていた。そのサイトを開くと、ドイツの感染研究所の顧問をしている高名な医学博士グループであることがわかった。ドイツ語の能力はほとんどないのだが、翻訳ソフトで、いとも簡単に読むことができる。そのメンバーは数々の医学賞を受賞し、次のノーベル賞候補とも謳われているようだ。これなら信頼はおけそうだ。示されたものをすぐに作ることはできないだろうが、主治医が言ったように、近似のものがあれば、効果の出る可能性はあるだろう。その時は、なぜ自分あてにメールが送られてきたのかという疑問には気付かないほど気が動転していた。とにかくリサが入院している大学病院で、近いものを一時も早く見つけ出してくれることを祈るしかない。この時だけは、あらゆる神様、仏様とご先祖様にも願いを伝え、祈り続けていた。
 マチは自分に向かってしきりに喋りかけてくる。何かを察知したのかもしれない。「マチも祈っておくれ。リサが戻ってくることを……」と声をかけ頭をなでると、マチは座っている股の間に入り込み、一度僕を見つめると、伏せて動かなくなった。
 時は刻々と過ぎていく。主治医と電話で話してから、すでに八時間が経ち、辺りは暗くなりつつあった。苛立ちを隠せないが、何かをやろうという気にもなれない。
 目を覚ましたマチは、リビングと寝室の間を行ったり来たりして、やっぱり落ち着かない様子だった。はたと、マチの夕食を忘れていたことに気づいた。自分は軽い昼食をとっただけだったが全くといって、お腹が空いてこないが、彼にとってはいつもの夕食の時間が過ぎていた。「マチ、ゴメンよ。今作るからね……」と言って、立ち上がりキッチンに立つと、彼は近づいてきて、お座りをして僕をじっと見つめていた。やっぱりお腹が空いているよな、と思うと、すまない気持でいっぱいになった。自分もコーヒーでも飲んで気持ちを落ち着かせようと思い、ティファールのポットのスイッチを入れた。
マチの夕食であるパックものにカリカリフードに薬を入れて、少しだけ茹でておいたササミをトッピングする。準備ができたら、彼の食事台に上げると、音を立てながらガツガツと食べ始めた。それを見届けると、コーヒーをペーパーフィルターで落としてミルクを少しだけ入れて、それを持ちながらソファーに腰かける。コーヒーのいい香りが部屋中に立ち込めて、ほんの少しリラックスした気分になった。夕食を完食したマチが近づいてきて、足元に伏せをした。
 ひと口、コーヒーを口に含んだ時、スマホがブルブルと軋んだ音を立てた。いきなり緊張が走る。手に取って発信元を確認すると予想通り、大学病院からだった。一瞬躊躇したが、意を決し通話モードにした。出たのは女性の看護師だった。
 「ヤマオカさん、奥さんが危篤状態になってしまいました。テレビ電話に切り換えて下さい。そして声をかけて下さい」。その声はあまりに切羽詰まった感じで、別世界からのものように聞こえていた。
 恐る恐るテレビ電話にすると、いくつもの管につながれたリサが横たわっている。その周りには、厳重な防護服姿の医師がいて、看護師たちは忙しく動き回っている。主治医の声がした。「すみません。知らされた化学式を用いた薬の成分を調べて、近いものを探していたのですが、ここにはなく、取り寄せをしている間に、急変してしまいました。もう手の施しようもありません。残されたのは精神力と生きるという気力のみ。さあ、声をかけてやって……」。そう言うと、リサの顔が大きく画面に写し出された。目を閉じ、少し苦しそうな表情をしていたが、思っていたよりも穏やかなものだった。「リサ、リサ。大丈夫か? 早く帰ってきておくれ。ほら、マチも待っている。愛してる。だから戻ってきておくれ!」そう叫ぶように声をふり絞った。その時、リサはうっすらと目を開け、こちらを振り向いてくれた。優しい目をして少しだけ微笑んだ気がした。と同時に苦悶の表情となり、目をぎゅっと閉じ、眼もとにひと筋の涙が伝った。チューブの入れられた口が少しだけ動いた。五つの言葉“あ・り・が・と・う”と言っているのが理解できた。と同時に“ピーピーピー”という機械音がけたたましく鳴り響き、画面が揺れ斜めになって、白い天井が写し出された。騒然とした音と、叫び声だけが聞こえていた。僕は覚悟をして、通話を自ら切った。自然と涙が溢れ出しているのがわかった。ソファーに倒れるように座り込むと、マチもわかったかのように、僕の身体を這い上がってきて涙を舐めてくれた―――
 
 リサはそのまま息を引き取った。直に見ることも触れることもできずに……。こんな別れがあるのだろうか? ウイルスと闘い、患者と向き合い、自分を犠牲にしてまで患者のために尽くしてきたのに、いったいどうしてなんだ? この時とばかりは、運命を恨んだ。しかし、少ししたらその気持ちは、不自然なまま和らいできて、知らぬ間に疲れ果て眠りについていた。
 その夜、リサが夢に出てきた。彼女はこう言った。「ヒロ、もう悲しまないで。私は私の使命を全うしたの。だからあなたは、これからも生きて、この世界の将来を見定めて。それがあなたの使命。それと、マチをよろしく。大切に優しくしてあげてね。約束よ」とあまりにやわらかな表情で話してくれた。その後は、眩いばかりの光が輝き、三重にかかる虹の方向に彼女は吸い込まれていった。残された僕は、その三重の虹が人類の今後を示していると信じた。
 少しだけ温かい気持ちのまま目覚めた。ほんの少しだけ明るさを取り戻した朝に、リサはもういない。いや、心の中に永遠にいるはずと思い直し、手を伸ばすと、マチの尖った耳に触れ、ピクッと動くのがわかった。マチもいてくれる。「リサ、お疲れ様」そう呟くと、大粒の涙がこぼれ落ちた。
 マチにリサが天に召されたことを話した。途中でまた涙がボロボロこぼれ落ちて、またマチが僕によじ登って、頬を舐めて慰めてくれた。彼を見ると目のあたりが、濡れていることがわかった。犬も泣くのか……一緒に悲しんでくれる存在がいてくれるのが、とても有難かった。
 
Ⅺ 突破口 ヒロキ
 リサの葬儀は、ウイルス感染予防の関係もあり、僕とマチが立ち会っただけとなった。しかし、多くの人がオンラインで参列してくれて、その数は予想をはるかに超えたものだった。そして次から次に入ってくるメッセージ。こんなにたくさんの温かく愛に満ちた言葉の数々……。僕はリサがこれまでやってきたことの影響力と大きさを初めて知ることになった。多くの人々に感謝され、惜しまれて、リサはハッピーのいる虹の橋のたもとに旅立ったのだ。
 隣にいるマチはリサの写真をじっと見続けて、決して視線を外さない。オンラインで流れる長いお経の間、ポンと彼の頭に手をあてる。僕を見たその目は、明らかに悲しみに沈んでいた。「ありがとう、マチ。リサは幸せな人生だったと思うよ。マチとハッピーがいれくれたおかげさ……」と小さくつぶやき、頭を何度も撫でる。すると僕の頭の中にこんな言葉が浮かんできた。“間に合わなくて、ごめんなさい”と。それが何を意味しているのかはわからないが、マチがそう言っている気がしてならなかった。
 
 僕と大学病院に送られたメール同じものが、世界中の研究者や医師に送られていたのを知ったのは、しばらくたってからだった。そして、そのメールを元にして急遽ウイルスの治療薬が開発され、しばらくするとウイルスによるパンデミックは奇跡的に収束に向かっていった。突然の世界中へのメールにより、以前のように薬の開発を誰よりも先行しようとしいがみ合う状況も解消し、人類は再び手を取り合って平穏になり平和への歩みを進むことになった。
 ウイルスの特効薬を見出したとされる研究グループは、世界の人々から賞賛されたが、なぜかその実態はどんなに探っても明らかにならなかった。そのまま、その研究者たちの手掛かりすら見つからずに、ついには“神様からの贈り物か、宇宙からの贈り物か?”という話まで出て、捜索騒動はしばらく続いたものの次第に多くの人の関心事ではなくなっていった。
 僕はそれでいいのではないかと思えてならなかった。誰であろうと、地球は良い方向に進んだのだ。マチはその研究者捜索のニュースをやっていると、耳をそばだてて聴いていることが多かったのがなんとなく不思議ではあった。
 
十七 邂逅 マチ
凶悪なウイルに感染したおかあさんの具合は悪くなっているようだ。もう時間がないことは明らかだった。
ウイルスの組成データを地球と宇宙全体のあらゆるデータと照合し、事例を探り続けた。
僕と仲間は夜通しで、その作業に明け暮れた。
その数は億単位の数にのぼった。その間にもおかあさんは、日に日に重症化していく。
二日目、中国にいる仲間が、やっと同様な事例と対処方法を見出した。この事例の精度を確認すると八十一%と出た。
たぶん大丈夫だろう。すぐにおかあさんの入院している病院のパソコンにアクセスし、主治医にメールを送る。間に合って! 僕は初めて“神”に祈った。メールのデータは、架空の人物たちを、様々な業績を上げた研究グループとして作り上げ、怪しまれないように送信した。こんなことはいとも簡単なことだ。すぐに実行した。
そして、自宅にいるおとうさんのメールアドレスにも送信した。良い方向に進むことを期待しつつ……。
夕ご飯の後しばらくしておとうさんのスマートフォンが唸った。嫌な予感がした。
すぐに緊張したおとうさんが対応する。そして画面に向かって語りかける。「僕だよ、リサ」と呟くように話すおとうさんの頬に水滴が伝って光っている。「はら、マチもいるよ。だから…頼むから行かないでくれ…」。僕は向けられた画面を覗き込んだ。そこには無数のチューブにつながれた、おかあさんがいた。「愛しているよ、リサ!」とおとうさんは大声で唸るように叫ぶ。その時スマートフォンから、“ピーピーピー”とけたたましい警告音が鳴り響いた。僕は、画面に向かって「ワン!」と吠えた、と同時に画面が大きく揺れ天井のようなものが写った。慌てて何か作業をしている音だけが数秒して通話が途切れた。おとうさんは、スマートフォンを投げ出し、ソファーに突っ伏して、「アーアー」と動物のようなうめき声を上げていた。
間に合わなかった……という思いで、僕はどうしたらいいのかわからなかったが、無意識におとうさんに近づき、涙に濡れた頬をペロペロと舐め始めた。塩っ気のある悲しい味がした。それがしばらく続き、いきなりおとうさんが僕を痛いくらいに抱きしめた。そして「リサが天に召されてしまった」とポツリとつぶやき、僕をさらに強く抱きしめた。おとうさんの激しい鼓動が聞こえる。何か声を送ろうかと思ったが、やめてまたおとうさんの手を舐める。その時、今まで体験したことのないはずの感情が背中から這い上がってきた。“悲しい”という感情……。初めての感情だった。それが頭脳まで到達して、“クゥーン、クゥーン”という声となった。それから、眼の前がひんやりしたと思ったら、水滴が両目からこぼれ落ちた。視界が歪んだまま、おとうさんを見つめていた。間に合わなくてごめんなさい。
おかあさんはおとうさんに会えずに天に逝ってしまった。全ては凶悪なウイルスのせいだ。
しばらくして行われた告別式に出席したのは、体調が優れないおとうさんと僕だけだった。親族などは、ウイルス感染の危険性から参列することは許されなかった。しかし、遠くに離れたところやオンラインでも、たくさんの人がお見送りしてくれた。
おかあさんはどれだけの人を救ったのだろう? その感謝の気持ちのようだった。僕には信じられない光景だった――。
 
告別式を全て終えて、自宅に帰るとなんだか部屋が広く感じられた。おとうさんが「寂しくなったね、マチ」と言って、僕の頭を優しくなでてくれた。その手はとても温かかった。家族を失うということ、悲しみと寂しさ……身をもって知り、体験することになった。そして自分にあった出来事も再び思い出した。とにかく心が痛み、辛かった。
僕たちが考え、病院や研究機関に送った抗ウイルスワクチンの処方は、各地で合成され感染者に投与された。すぐに効果が確認され、あっという間に世界中に広まった。
超高調波を発進したために、以前のように人間は活発に活動も移動もあまりしなくなっていた。そのため、致命的なパンデミックが起きる前に、なんとか収束することができ、死者もそれ以来最小に、抑えることができた。
ワクチンの開発者に称賛の声が寄せされたが、同時に何人かが見出したことに偽装しており、その実態はわからずじまいのように仕組んでいた。
僕は優しいおかあさんのことを時々思い出し、また会いたい気持ちがいっぱいとなった。
おとうさんも同じ。ボーッと過ごすことが多くなったが、おとうさんと眼を合わせるだけで、気持ちが分かり合えるようになった気がした。
 
↓「宇宙犬マチ 最終話」に続く

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