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人生観のベース

昨夜はすずめの戸締りを観たあと
noteを書き始めた。

良い映画を観た後の高揚感と
容赦なくブルーライトを浴びたため
脳がオールナイトモードになってしまい
夜中3時くらいに就寝した。

絶対昼過ぎに起きてやるからなと
自己暗示をかけ眠ったはずなのに
目覚めたのは9時ごろ。

ここでスマホを手にしては
二度寝できなくなることがわかっているのに
無意識で手に取ってしまう。


朝になって思い出したが
小さな頃祖母と山道を散歩中
どうしても用を足したくなった。

周りにお手洗いはなく
雑草が鬱蒼とした茂みで「ごめんなさい」した。

ごめんなさい、と言うのは
その場所、地面?にいるカミサマに対してらしく

「ちゃんとカミサマにごめんなさい、と言ってするんだよ。」と祖母から言われたためそうした。


たしかにトイレでもない場所で
いきなり汚いモノをしてしまったらカミサマに失礼だもんなぁと
子供の頃の私は納得したけど

昨夜映画を観ていて
あのごめんなさい、には
わりと意味があったのかもしれないなと思った。



映画の中で
人の心の重みが無くなってしまった廃墟が
常世と現世の歪みとなり、その隙間からミミズがあらわれてしまうと言っていたけど

何かを建てる時って
多分かならず地鎮祭を行なって
「この場所に建てさせてください」と
土地の神様に赦しを得て建てていると思う。

じゃあ使わなくなった場所は
どうしているんだろう。
「お返し申す」してるのかな?



草太いわく
そこで生活を営む人々の、
その場所への思いの重さや深さが
土地を鎮める役割も担っているらしい。

人が住まなくなった家の
寂れてなんか嫌な感じ、廃れた感じは
鎮める者が不在となったことの証なのかもしれない。





そういえば
母方の実家ではお経ではなく祝詞をあげていた。

草太が「お返し申す!」と言う前に
かしこみかしこみ…と言っていて
まだ若かった頃の祖父母を思い出す。


子供の頃疑うこともないくらい
慣れ親しんできた思想が
人生観のベースになっているのを感じると嬉しさもあるが

それって随分危ういものだよなとも思う。






















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