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選べなかった未来、選ばなかった未来

選べなかった未来、
選ばなかった未来はあると思っていた。
もしかしたらそんなものないのかもしれないと
考え出したのは

20歳の頃出会った
白石一文さんの
『私という運命について』という
小説を読んでからになる。


その中に出てくる
「選べなかった未来、
選ばなかった未来はどこにもないのです。」
という一節が頭から離れなくなった。


選"べ"なかった未来も、
選"ば"なかった未来も、
どこにもないとはどういうことだろう。

選択しなかっただけで
選ぶ前なら、それらはあったに決まっているじゃないか。



ことあるごとに
「選べなかった未来、
選ばなかった未来はどこにもないのです。」という一文を反芻しながら過ごしたが

これだ、という解釈が導き出せないまま
その後10年以上を過ごすことになる。



「こういうことかもしれない」と
自分なりの解釈ができたのは最近で、
きっかけは芦田愛菜ちゃんの言葉だったんだけど

なぜ今回の解釈に繋げられたのか
どうしてもうまく言葉にできなかったので

これはまた後日、
別の文章で書ければなぁと思う。



経緯がわからなくてなんのことだか、
と言った具合だと思うが
一先ず続けると

愛菜ちゃんの言葉を聞いて思ったのは




選んだ現実こそが全てで、
可能性があった"かも"しれない未来は
どこにもないのだと言い切る潔さが

この瞬間を生きて幸せでいるためには
必要なんだろうなと言うことだった。



だけどそれは
選んだ現実が自分の思い通りに行かなかった場合に

選ばなかった未来と
選べなかった未来に現実逃避しがちな私には
なかなか受け入れ難いことだった。




そもそも思い通りに行く人生なんて
ないのが大前提で

選んだ未来である今が
自分の望み通りでなくても
受け入れることが大切なんだろうし

その上で
幸せであろうと腹を括ることが重要なんだろう。


(そういえば昔
どの選択をすれば良いか迷ってた時に妹から「どれを選んでもなんとかして幸せにするんだよ自分で」と喝を入れられたっけ…)




20歳の私ではわからなかった言葉が
時を経て「こう言うことかもしれない」と
解釈できるようになるのは
人生の醍醐味の一つだなぁと思う。

ちょっとした
人生の答え合わせのような気がして
おもしろい。


選べなかった未来も、
選ばなかった未来も存在しないという
一節は私にとって

「ちゃんと現実で幸せになれよ」と
突きつけられた

残酷でやさしいメッセージみたいなものだったように今は感じている。






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