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京都国際写真祭を巡る2-人の作品を撮る-

 京都国際写真祭について書くのは今回で2回目だ。この記事を読んで興味を持たれた方は是非前回の記事も読んでみてほしい。
 この記事で触れるのはロジャー・エーベルハルトの作品である。彼の写真はコーヒーフレッシュの蓋に印刷された風景画像を、高解像度で接写し切り出した写真である。

写真1 コーヒーフレッシュの蓋


写真2 


写真3

写真2は展示されていた写真の一つである。引きで見ると滝の写真(写真2)だが、近くでみると筆で点を打って描いたように見える(写真3)。写真というより絵画の様だった。作品はダイナミックに印刷されており、とてもインパクトがあった。

写真4
写真5

展示の仕方にも工夫があった。写真4の宇宙の写真は薄暗い部屋に飾られており、スポットライトが当たっていた。部屋の床には黒い艶をもった床板が敷かれており、作品が反射してより幻想的に見えた(写真5)。
 ロジャー・エーベルハルトの作品を見て考えたことは「人の作品を撮っても強烈な作品になるのか」ということである。人の写真(ここでは他の人の撮った写真という意)を撮影することには、私自身は抵抗がある。人の写真を撮っても、それは所詮人の写真であって自分の生み出したオリジナルではない。状況によっては複写とされ、問題になる可能性も孕んでいる。しかし、彼の作品は堂々としていた。彼がコーヒーフレッシュの蓋を再解釈し、自分の中で醸成させているが故の堂々さである。そこに人の写真を我が物のように扱う、意地汚さや姑息さは一切感じられない。
 以前から人の作品(写真やその他美術品、建築物)を撮る場合、『元の製作者の意図を超える写真を撮ろう』と気をつけてきた。自身の撮った写真が製作者の意図を超えていなければ、それはただその作品を撮ったという事実しか残らない(写真は特に複写能力が高い)。自身のオリジナリティをそこに生み出すには、少なくとも製作者の意図を超える必要があるというのが私の考えだ。意図を越える為には掛け算が重要だと思う。その時の光や、天候、人の動きが「乗数」になるかもしれないし、撮影方法や撮影後の作業、あるいはその時の気持ちや思考(解釈)が「乗数」になるかもしれない。普段じっくりこれらを意識して撮ることはないが(おそらく脳が掛け算を瞬時に行った結果が写真を撮るという行為になっているのだろう)、この積み重ねがオリジナリティを生み出しているのだろう。
 今回お持ち帰りできたことは、「ゼロベースから写真を組み上げるだけでなく、あるものに何かを掛け算することでも作品が仕上げられる」ということである。これは写真がこの世のものに依存していることを考えると、当たり前のことかもしれないが、今回その「あるもの」が人の写真であったことが衝撃的だった。
 モノを観、自分自身がそれを解釈し(←ココが重要!!)、写真にする。この根本原理を今一度心にしかと留めておきたい。

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