生活は制限されても チャンスは開かれている §2 sono4

§2 sono3 から続き
□ 視覚障がい者特別支援学校で・・・

ある視覚障がい者が通う「特別支援学校」に出かけた時の話です。

玄関が分からず
歩いてきた「学校の生徒さん(全く見えない人)」に尋(たず)ねました。

そうしたら、彼は手にした白状を 胸にあげて もち
そのまますたすたと 飛び石の上を歩き 直角に曲がって
「こちらです」と玄関まで案内してくれて
「職員室は、あちらです」と手でさして
教えてくれました。

その後(あと)
「失礼します。お気をつけて!」と言い残し
またスタスタと 歩いて
角に消えました。

あっけにとられて、
出ていらした先生に
そのことを 話すと
「ここの中学生なら 
それくらい 全員が あたりまえです」
と教えてくれました。

そして・・・、

「彼が「(視覚)障がい者」になったのは、
小学校 2年生の時だそうです」

と言います。

「ああ、彼は「中途障がい
(はじめは見えていたが、成長してから 人生の途中で「さまざまな不自由」が出現すること)
なんですね」と返すと

「いや そうじゃないのです」
という。

彼は 何も見えない状態で 産まれてきて、友達もみな「見えない子」ばかり。
ですから・・・「人は 誰も見えていない」
(「見えない」は、人にとって「あたりまえ」なのだ)
と思い込んでいたけれど

小学校の2年生になった時
家の近所の一般(?)の小学校に体験入学した際

まわりのみんな(ともだち)に
「君 何も見えないの?」と聞かれ、

「???????・・・???」

はじめて
「自分は「見えない人」なのだ!
みんなは 「見えている」!?
(「見えている」ってどういうこと?)
・・・
・・・ 疑問がわいてきた。

まさに そのとき
「(自分以外の)ほかのみんなは「見えているんだ」と気づいたんです」
と彼が教えてくれたという。

「あたりまえの人」は

 そのようにして

「視覚障がい者」になったというのです。

表現を「不自由」に直しても
意味がないですね。

でも
今は「意味がない」としても

僕は そこに 違和感を感じています

僕は そこを何とかしたいと考え 

なにか行動したい
と考えている

そんな「意思表示」だけでも
「意味」を宿したいと 思うのです。

ここで、
ある意味「無意味」にも思える
「不自由」という言葉を使うのは、
こんな僕の 「自己満足」 かもしれないけれども
「違和感の意思表示」のつもりです。

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