隠れた「期待」が人生をおかしくする
宝石やふとんを買わされたり投資話を持ちかけられたりといった経験もなければ、この先になんらかの形で騙される気もさらさらない。
でも、特定のひとに対しては「期待」という名の信用をわりとすぐにする。これがやっかいだ。
相手はそんなこと望んでもいないだろうに、勝手に「期待」しておいてそれが果たされないとガッカリする。裏切られた気持ちにさえなる。
対象は自分自身のときもある。
昨年の夏ぐらいだろうか。いや実際にはもっと前から薄々気づいてはいた。それが自分にとって都合のいい解釈なだけだということに。
気づいていながら、やっぱり「期待」のフィルターをかけていた。
どんな「期待」とガッカリがあるのかというと・・・仮にわたしがある企業の採用担当だとする。
ちょっと極端な例ではあるが、実際これに近い状況によく遭遇する。
ある日、読み進めていた本に衝撃を受けた。
長い眠りから覚めたような気がした。もっと早くたたき起こされたかったとも思った。
それ以来、「期待」を手放し起こったことをそのままを受けいれるよう意識して努めはした。が、長年染みついた習慣というのはなかなかに手強い。
だったらいっそ「期待」をしなくてすむようにしよう。そんなシチュエーション自体をつくらなければいい。そう思い立った。”求人広告”を出すのをやめるか、”採用担当”から別の業務に変わるか。まずはそこから着手する。
2024年は「手放す」年だ。
自分で自分を苦しめている習慣やルール、思考といった類を手放していく。そんな1年にする。