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#12 剣道だから身につく「究めて認め合う力」 ~一道万藝の先にあるもの 

■20年以上経っても繰り返されていたもの

SNSの隆盛は言うまでもありませんが、このnoteだけでなく、いまはどんな立ち位置にいる愛好家でも自分を表現できるツールがあります。
20年位前まで遡ると掲示板、ブログなどがあったくらいで、まだまだ限られた世界だったことを知っている人は私と同世代かそれ以上、でしょうか。
私自身もブログを運営し、稽古日誌や子どもの成長記録を書いていたことがあります。

ネットで知り合った仲間同士の稽古会も全然珍しくなくなり、もはや「オフ会」なんて言葉すら使わなくなりました。
20年以上前の当時はそのオンとオフの境界線がまだハッキリしていたように思います。
ネット上では「ハンドルネーム」を名乗るので、ハンドルネームゼッケンなんてものもあり、私も持っています…いまどこにあるかな。(笑)

ネットを駆使して何かしらの自己発信をすることがまだまだ珍しかった時代は、現在とは趣がかなり異なるはずです。
しかし、やっぱり変わらないのか、それとも何巡も繰り返してこうなっているのか…どちらかはわかりませんが、不変なものが存在します。
さて、なんでしょうか。

かなり大雑把に括って呼称するとやっつけ合い。「マウント合戦」です。

それは大小はあれど20年以上前から変わっておらず、残念ながら昔のことをノスタルジーだと笑うことはできないようです。

■渾然一体の魅力が剣道


私は生地胴の倶楽部を運営するくらいですので、剣道具全般が大好きです。一道万藝よろしく、生地胴生地胴…と見ているうちにほかの道具にも視野が広がり、そこそこの知識もつきました。
知識がついてくると、やっぱりほかの知識を持っている人と親しくなったりします。
それは一般の愛好家でありながら、いわゆるマニアの域に達しているような人であったり、業界で商売をしている人、職人さんなどとも縁ができたのはとても幸せなことだと思っています。

幸せではありますが、トラブルが皆無というわけにもいきませんでした。
私自信も不勉強であったこともあり、意見の衝突や行き違い、いろんな経験もしました。
身の回りで仲違いが始まったなんてことも珍しいことではありません。

こういうことは、道具でない技術のことでも同様かもしれません。
試合試合で毎日を生き抜いている若い世代と私のように長くは続けていても特に花開くことのないアマチュアの剣道家、そして大人になってから剣道を始めた愛好家…キャリアや年齢などによる感覚の違いは避けられません。

今は情報が飽和状態にあり、もはや何が正しいのかなんてわからない状態です。その人のいる環境の違いによって理想の剣道は変わってきます。

剣道は生涯スポーツ(※)として、あらゆる世代、キャリア、性別に関係がなく、渾然一体こんぜんいったいとなって楽しめることが最大の魅力です。まさに交剣知愛。
竹刀を交えるだけで気心を知り合えて、初対面でも仲良くなれてしまう剣道だからやめられないのだろうな、と自分でも感じます。

■剣道具に唯一の正解はあるのか


若干話がループします。
SNSが隆盛を極め、誰もが自由に、匿名で情報を発信できるようになると、相手の顔が見えないし自分も顔を見せなくて済むことが追い風となり、自分が正しくて相手が間違っているという論調に拍車が掛かり、やっつけ合いが始まります。

ネットから離れた交剣知愛のなかにも、主張の強い人、難しい人、合わない人はどうしても存在するものです。

しかし剣道を愛好しているという大きなグループに身を置いているということは逃れようのない事実です。

剣道具の世界を見ていてもなかなか大変です。
これこそが本物。あれはデタラメ。なんてことは数多くあり「こういうものだ」と理解して違うところに耳を傾けたら「それは間違っている」なんてことは「ザラ」です。

私が特に驚いた話のひとつに「毛氈もうせんの仕込み」があります。
詳細は別の機会に譲りますが、かいつまむと「古代毛氈を仕込んだ剣道具が素晴らしい」ということに頷く人は多いと思います。
しかし、別の職人さんは「毛氈は不要。真綿の刺し具合で十分に良いものができる」と言う…そんなことがありました。

手刺剣道具の布団。この中に真綿や毛氈などの芯材が仕込まれています

もうひとつ。

胴胸の話をします。
胸も芯材があり、綿などの緩衝材があり、表面には革が奢られます。
それを「全て糸で貫き通したものこそが至高」ということに頷く人がいる一方「全て貫いたら汗が染みこんでしまうからNG」という人もいます。

どちらが正しいのでしょう。

多分、どちらも正しいのです。あとは何を信じるか。
職人さんによっても、自分と違うものを「あれはダメ」という人もいますし「ウチはこれが正しいと思ってやってるけど、違う考えもある。いろいろあるから面白い」という人もいます。

胴胸の表側。文様などの飾りの意味合いだけでなく、機能としても意味を持っています


胴胸の裏側

それに対しても、例えば私がジャッジすることはできません。
ジャッジができるのは、それを作った本人と、それを使い込んだ人たちでしょう。

多様性もまた面白いですし、違うものが集まってくる中で何を選ぶのかもまた人それぞれです。

「それぞれ」が集まるから剣道は面白いのだと思います。

■究めたら認め合えるのが剣道の魅力

もしかすると、ほかの競技ではそうはならないものを成立させられるのが剣道の魅力だと私は思います。

私は「一道は万芸に通ず」という言葉を昔から好んでいます。
そして最近、あらためて着目するようになったのは、私自身の反省も含めた意見のぶつかり合いに寂しさのようなものを感じたからでした。

ひとつのことを究める力を他に応用すること。そしてまず究めるためには、たくさんのことを学び、知る必要があること。

究めた先にあるものが
「我こそが正しい、他人の言うことは間違い。知識不足」で終わってしまっては裾野の拡大は見込めないでしょう。

拡げて行きたいと案ずるのなら、たくさんのことを知ることができ、究めることができたときに
「そうだね、そういうこともあるよね」
と受容できるようになることが、今後の多様性、共生の社会ではますます必要になってくると私は考えています。

これは現代社会において、剣道に限らずとも特にビジネスの世界でもよく言われることですし、スポーツなどの指導法もそれに合わせて変わってきています。

剣道を続けていると、この感覚を効率よく、自然と学ぶことができる。目の前にあるじゃないか。
私自身、そう気づいたのはごく最近のことです。

剣道に何を賭けているのか。
さまざまな世代、環境に身を置いていればそれは千差万別十人十色です。

剣道にある根本的な理念は絶対になくしてはならないと私は思う方ですが、その末端、裾野の状態をひとつに整え、統合することは容易ではありません。

私が少しずつでも積み重ねていこうとしている剣道のなかの何かが、「受容して認めること」であるように。さまざまな世代、環境にいる人たちとたくさん交剣していきたいと改めて思っているところです。

これ以上続けると要旨が散文しそうなので、とりあえずこの辺で。

専門誌に掲載していただいたときの見出しです。


※剣道をスポーツと表現しているところがありますが、体を動かすという観点からの表現です。ご承知おきください

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