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#48 なぜ剣道が生涯修行でありうるか

■勝敗にこだわるなとは言うけれど

剣道を続けていると「打たれてもいいから、大きく真っ直ぐに打っていきなさい。」そう声をかけられた経験がある人がたくさんいると思います。
一方で「何が何でも相手に負けないぞ!」という勝負にこだわることも大切だとも言われたことも…ありますよね。

子どもの頃からずっと勝負に弱いまま剣道を続けています。
試合に負ければ泣いて家に帰ってくるなんてことはたくさんありました。
私に剣道を始めさせたのは親ですが、剣道では素人である親に何か言われれば子どもながらに悔しいものです。

特に運動神経が抜群だった父親にはよく言われました。
「いい剣道も悪い剣道もない。形なんてことよりも先に当てて相手をやっつけたもの勝ちなはずだろ。打たれてもいい、なんて言い訳でしかないし、弱いから負けるんじゃないのか??」

知らない人には言わせておけばよい。正しい剣道ができればそれでいいのだから。剣道は勝敗が全てではないのだから。それで済む話といえばそうなのかもしれませんが、この問いかけに皆さんはどうやって答えますか。

体勢を崩し、刃筋もなくなり、変幻自在な竹刀操作により隙間を掻い潜り当てた技で審判の旗をあげさせる。かつて「現代剣道」という言葉は、どちらかといえば揶揄の表現でした。
それが近年、さまざまな事象が重なる中で変わってきているように感じます。
「真っ直ぐな剣道ばかり称賛するような考えは老害」なんていう表現に出会ってしまい、残念に思うこともあります。
そんな二極化が進む中、剣道人同士でも説明がつかない「問いかけ」なのかもしれません。

■修行にも段階はある

剣道の向上には段階があります。
いまの私は、納得のいく構えから攻め、真っ直ぐに捨て身の面を打つことを理想としています。
でもそれ以外の剣道を一切否定するつもりもありません。
試合に勝つことに拘る時期があってもいいでしょうし、老齢の先生をどんなに打ち込んでも認めてもらえないことに不満を抱く時期があっても良いと思います。私にもそんな経験はありました。

剣道を生涯続けることで、多くのことを学び、人生に活かしたいという思いは10代のころからずっと抱いていました。
しかし「勝たなきゃ意味がない」という言葉と「勝敗よりも大切にすべきことがある」という言葉の間で揺れることは完全になくなったわけではありませんでした。皆さんはいかがでしょうか。

■捨て身の技の難しさ

有効打突として誰からも認めてもらえるような一本を打つためには「捨て身」であることが大切です。半信半疑で、中途半端に出す技は一本にはなりません。捨て身の技の意味に気づき、体感できない限り、その先には進めないものです。

たびたび触れてきたように、私は六段審査の合格に11回、4年間を費やしました。その間、捨て身の面がなかなか打てずに苦しい思いをしました。打たれたくない、打たれずに自分は打ちたい。安全策を取りたい。
新幹線で遠方まで来た時間と費用をムダにしたくない…
とにかく捨てられないことだらけでした。

六段審査に合格したのが2010年のことでした。開き直って、打たれてもいいから思い切り打てばいいのだ、と気づき始めた頃、ということになります。 そして2011年。未曾有の大災害がありました。

■2011年3月を機に変わったもの

あれから私たちの日常は大きく変わりました。その時期、安易には書き表せないほど辛い体験をされた方がたくさんいると思います。
私の実家はさほど大きな害を受けなかった地域にあるのですが、たまたまその日、災害の大きかった場所にいた父親は、生命の危機にさらされた上、全ての仕事を奪われることになりました。

その様子を目の当たりにしたときでした。
「私自身もいつ突然に終わってしまうのかもしれない。今突然、自分がこの世からいなくなったら大変だ。グチャグチャの職場のデスクとか家の納戸に押し込んであるたくさんの剣道具…仲間や家族が見たら退くだろうな。財産も何もないとはいえ、やりかけているあんなことやこんなこと、誰かに引き継ぐこともできないな」
私は仕事、剣道、それ以外と人間関係が繋がっていないところがあるから、連絡はどうやって回るんだろう?
…などなど。
今「のほほん」と生きていることも当たり前のことではないのだと考えるようになりました。

■久方ぶりの問いかけに

その災害の直後、私はしばらくの間、家族のフォローをするために長めの休暇をもらって実家で過ごしていました。災害のせいで立ち行かなくなった物事を次に進めるために、色々な人に会ったり、見たことのない書類に目を通したりしました。
もちろん、剣道なんてする暇もなく…剣道がしたいなあ、と思いながら実家の家族と食事をしていたときのことでした。大変な日々ではあったものの、久々に家族と長い時間過ごす中、程よくアルコールも回ってくると、珍しく身の上話もかわしはじめます。
すると、昔よく父親に「剣道は勝たなきゃ意味がないはずだろ??」なんて言われたことが思い出されました。

そのとき、息をあわせたかのように父親が一言。
「お前も長いこと剣道を続けているなあ。なんでそんなに続いてるんだ?」

■やっと出た答え

ふと、言葉が出ました。
「いつ捨てるか?その機会を感じるために剣道をしているんだと思う」
捨ててしまうということは一度、それまでに積み上げてきたものを無にすることです。少し怖い例えですが、捨てて無になろうとしても、自分の体が不完全に残ってしまえばそれは失敗です。こんなことになるなら、捨てなければよかった…そう思うでしょう。

捨てるということは後悔をしないこと。
後悔しないためには、いつも納得ができる自分であること。
常に身の回りを整えておくこと。

捨てることとと投げ出すことは違います。
いつ捨てるときが来てもいいように、心ゆくまで手を尽くします。
そのための準備が必要です。日頃から周到にそれをしておく必要があります。身の回りを清潔に、整理整頓を心がけ、仕事は誰に替わっても持続できる状態に。
身の回りの大切な人たちには、後々悔いることがないように感謝を。
いつでも捨てることができるようにしておくべきことはいくらでも出てきます。

■剣道であれば

これが剣道であれば、充分な構えと気勢、攻めから打突の機会を作り上げる「技前」です。さらに目を配れば、道場に入るところから着装まで意識が及ぶことになるでしょう。稽古する時間を許してくれた家族、いっしょに稽古をしてくれる仲間、先生方に自然と感謝の意が芽生えることでしょう。

「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」という言葉があります。
朝、人間の生きるべき道を聞いて会得することができたならば、夕方死んでも心残りはない、という道を知ることの大切さをとく言葉です。
「それはわかるけれど、せっかく知ったのに死んでしまったら意味がないのでは?」
それまでの私は、そう考えていたものですが…特に2011年の3月以降、その考え方にも変化が生じました。

私は初めて父親に「なぜ自分が剣道を学んでいるのか?」を語ることができました。
「捨てるために剣道をしている。だから、試合に勝ったとか負けたとか、そんなことはどうでもいいことなんだよね」

父が初めて言いました。
「ほおお。なるほどなあ」

■その後

あれから干支も一回りしました。
父親は、新しい職場で社会的な定年を過ぎても元気に働いています。
再就職の難しい社会において父親がすぐに新しい仕事に就けたのは、それまでに精一杯、周りの人とのつながりを大切にしながら働いている姿をたくさんの人が見ていてくれたからだったようです。
父もまた「いつでも捨てることができるように」常に考えながら毎日を送っていたからこそ、今があるのだろうな…私はそう思っています。

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