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ClubQオンライン勉強会「哲学者、加藤和哉さんと哲学対話 Vol.30 道徳は教えられるか?」はいかがでしたか?参加できなかった方も、ぜひ考えをお教えくださいませんか。

「感想」
今回は、加藤 和哉さん(東京大学大学院で哲学 (大学専攻科目)を専攻)の感想です。
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カフェでお話ししたことについて、以前まとめたものです。

価値「感」・倫理「感」の時代
いつ頃からであったか、もう覚えていないが、学生たちの書いているものを見ていると、奇妙な書き間違いが多いことに気づくようになった。価値観倫理観と書くべきところを、価値感倫理感と書いているのである。初めは単なる不注意による間違いだろうと思ったのだが、それにしては皆堂々と書き間違っているし、その数も多いのである。全体としてみれば、8割以上の学生が、の方を使っている。

もとより、これは価値観、倫理観でなければならない。価値観や倫理観とは、何が良いか、悪いかということについての観、すなわち、物の見方を意味する。「価値観を身に付ける」「価値観が変化する」「倫理観に従う」「倫理観が乱れる」といった言い方にも表れているように、価値観や倫理観は、価値や道徳的善悪の全体についての一貫した理解であり、特定の社会や特定の時代においては、基本的にはすべての人に共有されるべきものであり、実際に多くの人によって共有されているはずのものである。

では一体なぜ学生たちはそのような書き間違いをしてしまうだろうか。もちろん、国語辞典や教科書などでは、価値観、倫理観しか用いられていないし、漢字の書き取りなどでも、これを習っているはずなので、どこかで習い覚えたわけではない。学生たちに聞いても、はっきりと自覚して書いているわけではないようである。思い当たる原因の1つは、やや似た文脈で使われることのある正義感義務感といった語からの類推である。こちらは、「正義感が強い」「義務感で行動する」のように、正義や義務に対する感覚であり、個人個人で異なったり、人によってあったりなかったりするようなものであろう。私の結論としては、価値感倫理感と書いてしまうのは、価値や倫理についても、統一的、共通的な観よりも、じ方によって決まると感じているからなのだ。

おそらくその背景には、いわゆる価値観の多様化、倫理観の崩壊と言われる事態がある。社会全体、そして一つの時代ですら、価値観や倫理観の統一性が失われていると見られている。その傾向は、まだ統一した価値観や倫理観があった時代を生きていた年上の世代よりも、特に若い世代で顕著である。例えば、男女の性別役割、就職や結婚に対する価値観、仕事と私生活に関する価値観など、多くの点で、今まで当たり前であったことが、若者たちにとっては当たり前ではなく、だからといって、「旧世代」の価値観に代わる、何か統一した新しい価値観や倫理観が共有されているのでもなく、まさに若者自身がよく使う「人それぞれ」になっているのである。価値感、倫理感という用法は、まさにそういう彼らの感覚に適しているのであろう、

ただ、問題はある。では、私たちは、そして私たちの社会は、もはや共通の価値観や倫理観を全く持ち得ないことになるのか、またそれで本当に、一つの共同社会を構成していけるのかということである。もちろん、私は、一部の保守の論客とは異なり、かつての伝統的な社会の価値観、人生観、家族観などを蘇らせることが必要だとは考えないし、また実際可能だとも考えていない。私たちの社会は、世界規模の流動性に巻き込まれており、特定の民族的属性や文化的一体性(ただし、それらも多分に人工的に仮想されたものだったが)を基盤とするような一様な価値観を共有することはできない。しかし、多様性や個人主義を基調とする社会にも、多様性や個人主義という共通の基盤に立つ価値観や倫理観の共有が必要ではないかと考える。それは、特定の価値観に依拠するのものではなく、多様な価値観を互いに尊重すべきであるというようなより高い次元(メタレベル)の価値観である。

実は、現在の日本では、多様な価値観は認められないという古い価値観と、多様な価値観を認めようという新しい価値観が、あいまいなまま併存している。ところが、この価値観は、実は直接矛盾対立するので、実際にはお互いを認め合うことは不可能である。あえていえば、多様性を認める方の価値観からは、多様性を認めない価値観も一つの価値観として認められるように見えるが、実際はそうはならない。典型的な例が、夫婦別姓問題である。夫婦別姓を求める側からすると、夫婦は同姓であるべきという価値観と別姓が良いという価値観という異なる価値観の併存を認めれば済む話だが、これを認めない立場からは、内容以前に、多様であること自体を認めることができないのである。つまり、これまでは、内容はともかく、価値観や倫理観は一様であるべきというメタレベルの価値観があったということであろう。しかし、そのメタレベルの価値観自体が基盤を失い、崩壊しているのが現状なのだ。

そして、このようなメタレベルの価値の共有のない社会は、実は価値観の点からすれば、深く分裂した同床異夢の社会なのである。このような社会の分裂は、しかし実に深刻な影響を持つ。なぜなら、政治、教育といった理念的な営みが不可能になってしまうからである。実際、若者たちも、学校などで、個性が重要というメッセージと、和を大切にすべきだというメッセージが同時に発せられていることに困惑を感じているのである。また、「人それぞれ」を標榜する若者同士も、異なる価値観を認め合っているのではなく、無関心や諦めによって、共存ならぬ併存しているにすぎないように見える。そして、彼ら全体が、日本社会を広く覆う同調圧力という古い価値観の支配の中で、身を潜めているのだ。もはや不可能な斉一な価値観や倫理観を維持すべきだと考える人々は、現実をみない妄想家であり、結果として、倫理観や価値観の成立を不可能にしていることに思いを致すべきだろう。

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加藤 和哉さんの回答は以上です。ありがとうございました!

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