見出し画像

向ける愛、向けられた愛

数ヶ月前から関わり始めた女の子。私が過去に出会った人たちの中で、最も過酷な人生を歩んでいる。

置かれてきた環境や仕打ちも、破天荒な振る舞いも、深い洞察力も、繊細な心持ちも、数珠繋ぎのように目の前に現れる。なにもかもが彼女のありのまま。出会った頃、私はかなり慎重になった。他の少女たちとはやっぱり違う。はつらつとした姿とは裏腹の、本人の口から出てくるヘビーな情景。レッテル貼りたくない。色眼鏡もかけたくない。けれどそのままを見つめるには、彼女は極彩色すぎた。

しかし結局は「慣れ」なのかもしれない。私たちは、今や同じ布団ですやすや眠ったりする。実際のところどれだけ信頼してくれているかはわからないが、彼女は自身のあれこれを話してくれるようになった。年相応の恋の悩みの合間に、痛みの波の話が顔を出す。生活への不安について真剣に語ったあと、文化祭のことを思い出してけらけら笑う。これらを全部、10代の身体と心に詰め込んでいる。

彼女との日々の真ん中で思い返すのは、中高生の頃の私自身だ。寂しくて苦しくて楽しくて必死で、浴びるようにいろんな感情を味わっていた。親との関係性は円満とはいえず、けれどしっかり守られ育てられていたということが、今ではよくわかる。私、かなり愛されていた。わかっているようでわかっていなかった。

noteに何度も書いているけれど、『半分、青い』というドラマが好きだ。放送当時ぶりに観返している。結婚が決まった主人公:鈴愛が、「あんたを甘やかしすぎたかなあ」と優しく言う母の肩に顎を乗せ、「お母ちゃんの愛はちょうどよかった」と答えるシーンがあった。私もこんなふうに感謝できる娘でありたかったな、そう思ったら涙が出た。歪んだ関係を概ね消化しながらも、無かったことにはできない自分の心が悔しいと思った。

話を元に戻す。
胸が軋んだ子ども時代の胸の内を、「無かったこと」になんてしなくていいと本当はわかっているけれど、自分の人生をひとりで背負うティーンエイジャーを前に、心の中はまだらになる。無性に寂しかった、けれど家族に守られていた私。どんな家庭に育つ子どもにも痛みはある、そしてその時点では気がつけないものもたくさんある。気がつけない、ということも幸せの印かもだなんて、今更思ってしまう私はこれからどうしたらいいだろう?

おそらくこれから、親との関係性の結び直しが始まる。そして同時に、赤の他人である少女のことを、「家族」のように守っていく日々が続くだろう。ここ2年ほどの活動で知ったのは、「相手が誰であろうと、心底大切にできる力」が私にはあるということ。惜しまないでいたい。力を惜しまずに、私は「そのままのあなたを愛おしく思っている」と伝え続けていく。血のつながりで考えなくっていい、愛そうと思える人たちを根気よく愛していけばいい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?