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心と頭と身体

感情は、脳よりも実は身体の方が先に感じている、といった話を何冊かの本で読みました。
脳も身体の一部なのですが、今回の場合は「頭で理解する」という意味の「脳」です。

だから身体を先に整えれば・・・といった話は多くの方がされているので、ここでは私の実体験からお話しします。

私の母は、10年ほど前に亡くなりました。
その時、それこそ「胸がはりさける」ような悲しみを感じ、思い出しては床を転げ回るほど泣きました。
それまでの生涯で味わったことのないほどの、激しい悲しみの感情でした。

しばらくして、日々の生活に支障が出ないほどに冷静になった頃、若い女性が末期癌になり、ホスピスで生涯を終えることを題材にした小説を読みました。
それは本当に素晴らしい作品でした。

声を上げて号泣しながら読んでいたのですが、不思議なことに、全く「悲しい」といは思いませんでした。
どうして私は悲しくもないのに、こんなに泣いているのだろう?と思うほど泣いて、読了後の夜、なんと高熱が出て寝込んでしまいました。
その後しばらく、どこが悪いというわけでもないのに激しい頭痛や倦怠感などの体調不良が続きました。

今になって思えば、あれは身体が大きな悲しみを感じていたのに、何のケアもせず放置されたために、ついに悲鳴を上げたというものだったのでしょう。

私の頭は、その前の母の死によって、悲しみの容量を拡げすぎていたようです。
だから本を読みながらも、それが悲しみであることを認識できなかったのでしょう。
本来なら途中で本を置いて、お茶を飲み、鼻をかんで、ちょっと時間をおいて自分の感情を整えるべきだったのです。

こういったことは、誰かの死というような悲痛なものだけではなく、もっと身近なことでよく起こります。

たとえば、最近よく聞く「もやもやする」という表現。
一言で片付けるな、といった批判もされますが、この言葉は、精神的なダメージを肉体的に表現しているという意味で秀逸だと思います。

相手に妙に上からの物言いをされて、頭では大したことない、と思ってみても、なんだか気になる。いわゆる「腑に落ちない」といった状態でしょうか。こうした時に「なんかもやもやする」といった言い方をします。
頭では「気に障る、でもたいしたことじゃない。気にしなければいい」などと思おうとし、実際にそういう気になったりします。つまり、「大丈夫」な状態です。
でも、そういう時に身体の状態をよく観察してみると、胃のあたりが重かったり固くなっていたり、何か異変が起こっているものです。
なんだか下腹が重いとか。
もしくは肩が急にこってくるとか。
目が痛くなるとか。
出てくる症状はいろいろあります。

そうした時、頭がどんなに「大したことない」と言っていたとしても、身体は「不快だ。これ以上は嫌だ」と言っているのです。

頭よりも身体の方がわかっている、とはそういうことだと私は思います。

もやもやしたり、身体に異変を感じたりした時、頭で大丈夫と思おうとすると、かえって不快な感情や違和感などがいつまでも頭から消えなかったりします。
これもよく言われることですが、頭で大丈夫と思うのに大丈夫ではないとき、無理にそれを続けようとするよりも、身体がどう反応しているかに注目する方が効果的であったりします。

誰かに何かを言われて、その言葉が頭から離れない時など、ああ、なんだか胃が重いな、とか、下腹が重苦しくて痛いな、とか、症状に気づいたらその状態に意識を集中させます。
そんなことをしたらかえって辛くなるのでは?と思う人もあるかもしれませんが、不思議なことに、意識を痛みや不快な感覚に集中させると、やがてそれはおさまっていきます。そして同時に心の中の不快感も鎮まっていきます。

何かをしている時に言われたことを思い出して、心がざわついたときは、また同じようにします。何度も繰り返しているうちに、だんだん思い出すことは少なくなり、思い出しても平静でいられるようになります。

あまりにも激しい悲しみや苦痛の時は、病院などの専門家の力を借りるのも大切です。
変に心にばかり気を取られると、専門家を装った人たちにつけいられることになる、というのも私の経験から付け加えておきます。
どうしたら心を鎮められるのかわからない、辛くてたまらないという時、ちょっとだけでも「心」から「身体」に意識を向けるようにすると、ふっと力が抜けて楽になることもあります。

とりとめなく書き綴ってしまいました。

私は専門家ではないので、あくまでもこれは私の経験からの話です。

何かのお役に立てば嬉しく思います。

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