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顛末とこれから


顛末


(※これまでの詳細はマガジンを参照)

ほんとうに不思議なもので、どうしてああいう文章ができあがってしまったのか、自分でもまったく訳がわからない。

11月25日(土)まで2日ほど、ずっと配信用のメールマガジンを作成していた。最初のメールマガジンが完成したのは翌午前1時ごろ。「ふわーっ」と一息ついた。深夜だったので、仮に即時に配信をしても、万が一読者の携帯の通知音が鳴ってしまったら大変だ。他の方の迷惑にならないよう、11月26日(日)午前9時に配信予約を指定し、寝る準備をした。「さて、薬をのもう…」。

と、ごそごそ薬の袋を手に取る。

「あ、あれ? ない??」

私は慌てた。1時間、2時間あちこちを探しても、1袋たりとも薬が見つからない。

土曜日の深夜である。

たしかに薬そのものは、その週届けてもらった記憶があって、絶対にそこにあることは疑ってはいなかった。しかし、あるべきはずの薬がそこにない。捨てたのか…。あせった。おかげさまで、最近は薬を飲んでいる限りよく寝られるし、変な精神症状が起こることはない。しかし薬がないと、ライフサイクルに異常をきたしてしまう。

薬を飲まないと、まず寝られない。集中力が逆に増してしまい、考えごとが全く止まらなくなる。

あと、最近ひそかに血圧がやばく、抑える薬をいただいていたりもする。

仕方ないのでその日一日はまったく寝ずに過ごした。日曜日をやりすごし、次の月曜日の朝まで待てば病院が開くので、なんとかなるだろうと考えていた。最後は探すのを諦めた。

薬なしの二連続徹夜である。

ところが…。

なんとか落ち着かせてスマホなどを開いている途中に、以前ちょっと書いた、文学フリマへ行く前の風呂場の中で起こった現象が急に襲いかかって来てしまう。

そう「過去の記憶」がありありと思い出される、タイムトリップ現象である。フラッシュバックに近い状態らしいが、過去の記憶がまさに今起こっていた出来事であるかのように、感情つきでありありと思い出されてくるのである。

もともとこの現象は、最近では風呂場のなかでひとり考え事をしているときにのみ起こる現象で、ふつうの状態のときに起こるのは本当に珍しい。(だから私は銭湯に行くようにしている)ただ、一度起きてしまうと、有り体にいって気分は最悪だ。直近では文学フリマの準備前とあわせて、2週も続けて起こってしまったことになる。

「まずい…。この状態どうしよう」と思ったが、唯一の解決方法は寝ることしかない。ところが、自分の場合、薬がないと寝られない。そしてあいにく、薬の調達は月曜日も難しいらしい。「先生がすぐには確保できないので処方できない。火曜日まで待って」となり…。(しかも処方したはずの薬の再処方を行うのは診察料を含めて実費になるという説明だった)

仕方ないのでパソコンに向かう。

最初は文章一つでも書いたら終わろうと思っていた。しかし、自分の見解を維持したまま「ありありと、ある感情をもった記憶を想起させながら」文章を書くのはいままで体験したことがない。できあがりも通常の文章にはまったくならない。

しかも、書いている最中も記憶はどんどんやってきて、芋づる式に連鎖してくる最悪の状況になる。そしてそのうち「あれ?」という事態だが、「新しい「歌論の構想」や歴史(自分の体験と照合させて誰ひとり取り残さない新しい短歌史の構想)」まで顔を覗かせてきてしまった。

べつにだからといって弁解するわけではないが、一目みてわかるとおり、もう同じ人が書いたとは思えないくらいあの2日間で更新された文章はむちゃくちゃである。そして、この文章を書いたとおもわれる「私」は、今これを書いている「私」とはまるで違う。文体が違う…。

通常だと、文章を完成させてから、誤字脱字のチェックをする校正ツールを使う。その後ヘッダーを作って「記事化」するのだけれど、あのときはパッとみてわかる打ち間違いの修正や、そもそもの漢字変換すら満足にできなかった。とにかく感情を抑えたり、連鎖してくる記憶をつなぎとめるため「先へ先へと進む」以外襲ってくる記憶と戦うすべがなかった。

「やばい。こんなの書いてる場合じゃないよ…」とおもって、思いつく限りの「過去のことがわかる」友人に連絡をとった。しかし月曜の昼間も影響しているのか、誰とも連絡がつかない。それこそ「治郎さん、これであってますか?」と確認したいぐらいだったが、当の本人を最初の記事でさんざんに書いた後である。もうそれが公開されて1日。まったく後戻りができない…。

逐一文章をチェックしている余裕がない。記憶はどんどん襲ってくる。それを振り払うのに、少なくとも人と話すか文章を書くかしかないのだけれど、もう書く以外の選択肢が何もない状態だった。とにかく通常の工程を全部ふっとばして、私は次々と文章の「公開ボタン」を押し続けた。

最後の更新を行ったときも、まだ薬は届いてなかった。医師が駆けつけていた。私の尋常ならざる様子に驚いたらしい。私はなにか「殺気立った表情」をしていて、「過去の記憶が…」とできごとを説明したら、「かなり興奮しているね」と指摘された。

血圧もかなり危険だった。薬でコントロールしているとはいえ、薬を切らすとあっというまに上が180以上となる。(下が100を超えるのはもうふつうだ)。祖父や父がすべて高血圧と、循環器系・脳血管系の病気でかなりの若さで突然死しているので、もはや人ごとではない。

「とにかくなるべく早く薬持ってきてもらうから、寝て」ということになり、薬の到着を待つことになった。

公開後

1.タイムライン


X(Twitter)を辞めてから、まったくタイムラインを覗くことが不可能になっている。それこそマスク氏が買収する前は、アカウントを持っていなくても、自由にタイムラインが閲覧できた。外部のAPIなどと連携して、自分のタイムラインを表示したりもできた。ところが、買収後に仕様変更があったらしく、アカウントを持っていないと、もはや中でなにが起こっているか確認する手段がないらしい。もはや誰もがアクセスできる「公共性の高い情報源」とはまったくいえない。すごくクローズドな「村」になってしまった。アカウントを持たない部外者となってから気づく。X(Twitter)のなかにいる人にはわからないかもしれないが、X(Twitter)でいくら宣伝しても、アカウントを持っていない人は中身を確認できない。X(Twitter)を通じた告知や宣伝の効果は限定的になる。

ただ、もしX(Twitter)内に自分のアカウントがあったら、私のような気の弱い人間が「自由に」ものを書くことは不可能かもしれない。すぐリプライが飛んで来る可能性を想像してしまうからだ。案外X(Twitter)のアカウントをもっていないことは、いい方向に出るかもしれないとおもう。X(Twitter)とは、「人の目を気にして反応を考えないといけない場」であったことを再確認する。思っていることを何も言えないのは、時代のせいではなく、X(Twitter)のせいだったのだ。

2.読者がほしい


一応中島裕介さんとはかねてから親交があったので、かつての友人として、彼にだけこのnoteの更新を知らせた。

どうやらTwitterで紹介してくれたらしいが、彼らしいな…。と思うコメントが添えてある。私は一読、苦笑いした。URLを人づてで入手したが、これはnoteに貼ることができるらしい。そうすると、彼の発言はインターネットでは全世界で公開された扱いになるのかな…。(もうこの変の仕様変更はどうなっているかさっぱりわからない)

試しにリンクを貼ってみよう。


いきなり「オススメできません」と書いてあって苦笑する。紹介された内容を読んで彼が私の文章にどのような感想を抱いたかを理解することは出来たが、それについて今この記事でコメントをするのは差し控えたい。

もうすでに3200字をオーバーしている。私は彼と対話するよりも、吃緊の自分の課題を掘り下げることに新たな興味を持った。それは、まさに、とめどなく記憶が襲ってくる状態で、何かを掴もうと足掻きながら必死に考えたことである。

(ただ、加藤治郎の「ニューウェーブのミューズ発言」に端を発した加藤氏と中島氏の問題は、もうかなり前の出来事なのに、かなり長く引きずっている非常に重苦しい問題になっている。わたし自身も、中島さん、加藤さんとは長く歌をやって来た人間として、看過はできない問題であるし、双方弁護士を立てている状況らしいが、その法的な問題とは別に気になる点があるので、いずれ別稿を立てる予定ではある…)

これから


まず「記憶が次々と襲ってくる」体験のなかで、私は批評用語を「より読者がイメージを喚起しやすいもの」に置き換える必要を感じた。

詳細は省くけれども、現代短歌が抱えているいくつかの問題は、この「批評用語」の問題でかなり深いところまで理解が到達するように思えた。

・私性の問題
・認知と把握の問題

から始まり、かなり多岐にわたって歌論を展開できそうだ。

どうも総合誌や同人誌などで展開される批評用語は、読者にはイメージをとりづらいとかねがね思っている。また、評者によっても「用語の理解が混乱している」状況がときどき見受けられる。残念ながら日本の文芸でありながら、西洋の批評用語を借りて論じているところがあるため、人によって喚起されるイメージが異なるのではないか。これからは「より日本語に根ざしたわかりやすい批評用語」が必要な気がしている。

わたしの構想にある問題意識が、どの程度の射程まで有効なのかは、まだ掴めてはいない。

ただ、穂村弘が一時期次々と繰り出した「酸欠世界」「棒立ちのポエジー」「金利の低い歌」「リアルの底が抜けた」といった用語に対する、一貫したアンチテーゼとなることを志向している。

そろそろ4000字になるので、今日はこれで休もう。正直、私にはあまり時間がないと思っている。また明日にでも、続きが書けたら嬉しい。

※補記

11月27日~28日の間に連続投稿した内容については、ヘッダーがないのも可哀想なので、全て同じヘッダーをつけ、1つのマガジンとして統一することにした。内容の是非は読者の判断に委ねるが、わたし自身の執筆経験のなかでも特異な出自のものとなったので、とりあえず保存しておきたいと思う。




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