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宗教観

下の写真は、香港の有名な黄大仙廟です。数年前に撮影したものです。地元の方も多いですが、観光地にもなっていますね。(ただの余談です💦)

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さて生家は、神社です。大きい神社ではなく、先祖代々引き継いでいる小さな武家神社で、神社の収入は多くはなく、それだけでは成り立たない程度です。歴史的には古く、ちょっとした有名な神社と比べてもそれ以上なほど、由緒はしっかりしています。今でも、その歴史を知る方や、その系統の方などがお参りに来ます。歴史上、一時的に公から姿を消した神社です。武家所有の神社であるが故に世の荒れた時代に敗戦を喫した際、時の政権から追われることとなったのです。そして、御神体と共に敗走したのです。その状況と歴史の一部は、ある歴史資料館に残されています。歴史の大部分が記された書物がありましたが、そちらは預けた寺が火事となり消失しました。歴史を紐解けるものは、その資料館の情報だけとなってしまいました。
そんな訳で、生家はその武家神社で、その血を受け継いでいます。

私は、何かを勉強したわけでもなく、神主とかでもなく、自由を愛し生きてきたただの男です。

誤解されがちですが、のうのうと生家で生きていたわけではなく、というのも生家が皮肉にも地獄のような場所だったため、脱出して自身で人生を追い求めてきました。精神を抑圧と歴史から解放し、何かを得たいと考え、生家とは別に生きてきました。当然ですが、生家とはそれ以来ずっともめ続けています。そういう生き方を選んできたことで、現代の神社や寺と考え方は、一線を画します。

人生は、自由に生きれば生きるほど、多くの幸福や困難などに遭遇します。人生がつまらないと言う人は、自由に生きているか考えてみてください。つまらないと言いつつ、制限のある生き方の中で安堵し自ら甘んじていないでしょうか。自由に生きるということは、大きな孤独の中にある場合も多く、また責任も大きくなり、有事の際の精神的な苦痛は相当になります。その代わり、幸福な時の度合いも通常より相当大きなものになります。どの人生を選ぶかその「程度」も含めて自由です。そして、どの人生が良いということも言えません。自身の幸せに合わせて、それぞれ選択していると思います。なので、つまらないとは言わない方が良いです。それだけで、次元が下がっています。

もともと宗教の始まりは、信仰する心です。
最も古い信仰心は、実りへの感謝だったでしょう。自然に対するその感謝の気持ちこそが信仰であり、宗教の始まりです。つまり、太陽や水、土など自然に感謝し、作物を捧げお祝いやお祭りをすることだったでしょう。

しかし現在の宗教は、どうでしょうか。神社や寺へ詣、僅かな賽銭を投げ入れ願いを叶えてくれ。とお祈りする。正しいでしょうか。そこには何かに感謝する気持ちはありません。
はっきりと断言しますが、それで護られたり願いが叶うことなどありません。自己暗示だということを自覚してください。自分に願い事を言って、その気になるための自己暗示の参拝だと自覚してください。神頼みをしても叶えてくれることはありません。
神社も寺も、時の人などが自費を投じて造り、その威やその位を、示したものです。今のように協力金を募り賽銭を当てにして運営していたのとは訳が違います。また、戦などを考えた結界(基地)の役目を負ったものも多分にありました。

確かに霊験あらたかな場所は多くあります。そこへ行くことは、とても良いことです。ですが、負となるような逆の場所も多いです。

著名な神社や寺は、観光地であると言って良いでしょう。また、一部の修行僧を除いてですが、ほとんどはお金を払って習うという修行をして資格を得て、僧侶や神主になります。お金を払って、、、資格をもらうんです、、、

そして解せないものがもう一つあります。戒名の値段、、、お布施が多いほど偉そうな戒名を付けてくれます。そうです、死んでからも金次第なんです。見栄の張り合いでもさせようとしているのでしょうか。俺から言わせれば、金で人や死人を選別するなど、言語道断なのですがね。
この戒名については、嫌気がさした決定的な出来事がありました。そちらは、気が向いたら別に書く事にします。

神社でのお参りの方法について、あーしてこうして、、、ありますが。
それらは、寺と差別化し威厳を出したいために神社庁が少し前に作った方法です。それのどの辺がありがたくて格式があるのでしょうか。私には、さっぱり分かりません。こうやって参拝するものだ。と知ったかぶって言う方を散見しますが、やめた方が良いです。以前から参拝方法は疑問でしたが、神社庁のホームページを見て愕然としました。拍手したり鈴を鳴らして神様を呼び出すと言う古くからの考えも、失笑ものです。池の鯉や動物じゃあるまいし、気安く呼ぶべきではありません。俺も、つい面白半分で鈴を鳴らしたりすることがありましたが、今は完全にやめました。

神社だろうと寺だろうと、ただしっかりと合掌するだけで十分です。
それと、生への感謝、食への感謝、その気持ちから捧げるのであれば、何処にいてもいつでも参拝したのと同じです。

金、金、金、、、寺も神社も金次第、、、
宗教団体も新旧問わず同じで、金次第、、、
詐欺もそうですね、金、金、金、、、

金を払うと徳が積めるというのは嘘です。自己満足ですので、そこを考えて自己満足のためにお布施しましょう。その考えを外れて、すがる気持ちになるのは間違いです。

先にも言いましたが、信仰や宗教は、すがるものではありません。
感謝し、その気持ちで捧げるものです。むしろ、お金や物を差し上げる行為です。
お布施して徳を積めばリターンがあると思っているのでしょうか。株やその他の投資とは訳が違います。同じお金を積むなら、宗教ではなく何かに投資するべきです。そこで大きく儲かったら感謝の気持ちでお布施しその寺院の維持に貢献したら良いでしょう。負けてもお布施と同じです。誰かが儲けてほくそ笑んでいるでしょう。

私は、毎日必ず「大切な人」と「食事」に感謝しています。そして伝えられる日は、話してその気持ちを伝えます。
「今日も愛している。」とか、「ご馳走に感謝だね。」と。
欧米か!と、恥ずかしいと言う人がいますが、そうではないのです。明日があると言う保証はないのです。自由に生きると、よりその意味が身近になります。すると、自然に毎日でも伝えなければと思えるようになり、恥ずかしいことではないと気が付きます。
生きているというのは、そういうことだと思います。

俗に言う今ある宗教や寺や神社は、何もしてくれません。ちなみに反対意見を言われてもお返ししませんし、迷惑なのでやめてください。そんな暇があったら、すがるのをやめて自由に生きて真理を得てください。それこそ宗教というものです。

自由に生きて得た境地は、感謝の気持ちにより捧げることこそ至高である。という、とてもシンプルなものです。
そして、それこそが私の宗教観となっています。

余談(笑)
霊感は非常に強かったです(過去形)。
書く気が起きたらその辺の体験も書くかも知れません。