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現代語俳句を詠むということ

おはようございます、笹塚です。急に暑くなってきました。真冬生まれのせいか暑さは苦手で、さっそく扇風機が活躍しています。

さて、私は今「 #現代語俳句の会 」に参加しています。そこで今日は現代語で俳句を詠んでいく中で日頃感じていることを書いてみようと思います。

一瞬という点を収める

俳句を始めてから、日常の風景を見る視点が変わった気がしています。格好つけていえば「花鳥風月にこころを傾ける時間が増えた」ということでしょうか。道端に咲いている花も、次の瞬間には鳥が飛影を落としていくかもしれないし、同じ風は二度と吹かないし、月も日々刻々と姿を変えます。

自分が「あっ」と心を奪われた光景というのは一瞬のもので、その一瞬という点を俳句に収める、という写真撮影のようなイメージでしょうか。自分という媒体が、五感というカメラで一瞬を一句に収める、という。

ひらめきと余情

また、俳句は十七音という限られた文字数の中に余情をこめるというストイックな側面があると思っています。そのため、推敲を何度も何度も重ねます。「あ、ここはもっとこの表現のほうがいいな」「同じ意味ならこちらを用いよう」など、新たな言葉の発見・出会いも喜ばしいことです。

私は主にスマホで(俳句も短歌も小説も)作品を書いているのですが、例えば散歩をしていて「あ、いまだ!」というひらめきが訪れるとすぐにメモアプリに記します。外にいるときのほうがそのひらめきに出会う確率は高いです。それも、自然の中だけではなく、電車の中とか繁華街にいるときとか、ふとした瞬間を収めたくなるのです。ひらめいた一句に漂う余情は、一瞬のきらめきがふわりと柔らかくなった状態、そんな印象を持っています。

背伸びをそんなにしない

自分に詠める句は自分にしか詠めませんが、その「自分」が見栄や虚勢を張ってはもったいないと思います。多少、こころを傾けるという意味で背伸びが必要な場合もあるかもしれませんが、せっかくなので「等身大」の自分で俳句を詠みたいなと思っています。

現代語で俳句を詠むのも、ここに理由があります。現代に生きる自分が十七音で一瞬を収めるとき、使い慣れていない(普段使わない)古語で俳句を詠むのは、大きな背伸びにあたるのです。平たくいうと、「自分らしさ」が失われてしまうというか。

確かに、古語には美しい言葉や響きなどがたくさんあります。それでも、現代に生きる「私」にとっては、現代語で俳句を詠む方が無理がないというか、自然体でいられるということです。そして「自然体」でいることは、おそらく俳句にとってとても大切なことです。

「いま」を「私」が詠むということ

現代に生きる私が現代語で「いま」を詠むことに意味があると思います。俳句もまた時代によって変化・進化を続けています。いま、2020年に生きている私が一瞬を一句に収めるには、やはり現代語を使うことです。先ほど「花鳥風月」と書きましたが、現代語俳句はそれだけではなく、現代ならではの生活や風景、例えば満員電車やビル群、繁華街のにぎやかさやテーマパークやイベントなどの娯楽も俳句に詠めると考えています。

俳句は、その人の人生を映す側面もあると思います。感じたことのない想いは、詠むことができません。伝聞ではなく、他ならない「私」が詠むことに意味があります。その意味でも、私にとっては現代語で俳句を詠むことが大事なのです。

まるで旅をしているような

俳句は詠めば詠むほど「まだまだ……」という感覚があり、「ここが着地点」というものがなかなか見つからないのが難しさであり、同時に面白さでもあります。確かに奥深くて難しいのですが、「自分の言葉で詠む」という軸を忘れなければ、これからも楽しく現代語俳句を楽しめそうです。

俳句の「難しさ」はその奥にある「楽しさ」に届くまでのちょっとした旅路です。詠めば詠むほど、その奥深さにうなりつつやはり楽しんでいる、という。私にとって創作においてとても大切な「楽しい」がそこにあるので、これからも一句一句、こころをこめて詠んでいきたいと思います。

▽これまでの作品はこちらに収録しています。

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