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Chapter 2. Vol.3 春の嵐

小説『黄昏のアポカリプス』というものを書いております。
ご興味ありましたら、ぜひ。

あらすじ


2030年以降、先進諸国では人体へのマイクロチップの挿入が法律により義務付けられていた。
犯罪率の激減、豊かで便利な生活。一見すると完璧なシステムに見えた。
しかし2050年、アポカリプスと呼ばれるコンピューターウィルスが発生し、
世界中がその脅威に晒されることになる。
片桐あきらは叔母の住むフランスに避難することになる。
フランスでの美しい生活と、日本に残した両親への想いで少年の心は揺れるのだが…。

これまでの物語


Chapter 1
プロローグ
Vol.1 アポカリプスの到来
Vol.2  片桐家の憂鬱
Vol.3 この現実はスイッチオフできない
Vol.4 僕もきっと壊れている
Vol.5 あきら、フランスへ行く

Chapter 2
Vol.1 あきらの旅立ち
Vol.2 答えのない問い

本編 Chapter 2. Vol.3 春の嵐


 車はゆるやかに速度を落とし、目的地に到着した。あきらは誰かがそっと肩を揺さぶるのを感じた。かるい疲労が躰の中を満たしていた。車から降りると、彼はめまいを感じた。空はこれまで見たことがないほど昏く、乾いた風はバニラの香りがした。少年は一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。学習塾の帰りに母親が車で迎えに来てくれたのかと思った。しかし彼は母親の代わりに、自分の顔をじっと覗き込んでいる伯母を見つけた。彼女は野良猫でも見つけたような、好奇心と憐れみの入り混じった瞳であきらを見つめていた。

「着いたわよ」

伯母は簡潔に言い、トランクを開けてあきらのスーツケースを取り出した。
「自分で持ちます」と言いかけた少年を制して、由香梨は前方を指さした。



 ふたりの目の前に、真っ暗な空を背景にそびえたつ石造りの家があった。ライトアップされたその家は、ちいさなころに絵本で見たおとぎの城を少年に思わせた。外壁はベージュ色で、その上にくすんだ灰色の尖り屋根が空を突き刺すように乗っていた。中心となる二本の柱には女神の彫刻がほどこされており、窓はひかりを反射して金色に輝いていた。家はなつかしくあたたかいひかりを放っていた。きっと迷子のヘンゼルとグレーテルがお菓子の家を見つけたのはこんな気持ちだっただろうとあきらは思った。


 ふと、バルコニーにほっそりとした人影が現れた。長い髪の毛が夜風に踊っている。人影はあきらに向かって手を振った。少年が手を振り返す前にシルエットは消えてしまった。続いて階段を駆け降りるかろやかな足音が聞こえたかと思うと、扉が開き、フランス人の男性が現れた。長身でやせぎすの男性で、インディゴブルーのシルクのガウンに身を包んでいる。夜の闇と同じ色の布地が、彼の肌の白さをよけいに際立たせていた。彼は淡褐色の髪の毛をかきあげると、にっこりと微笑んだ。



「コニチハ、アキラ」男性はフランス語なまりの日本語で快活に言い、少年の手を握った。ひやりとした冷たい手だった。
それから彼はものすごい速さで話し始めた。あきらは男性の言葉が一言も理解できなかった。自分の名前でさえ、フランス語で発音されると何やら魔法の言葉のように聞こえた。彼が話している間、少年はその大きな鼻や、優雅な口ひげ、そしてくるくるとよく動く水色の瞳を見つめていた。言葉は次から次へと手品のように口から出てきた。そして会話は突然終わった。男性は句読点を置くようにチャーミングな微笑みを加えると、あきらのスーツケースをひょいと持ち上げて家の中に向かった。あきらはぼうっとして彼の後ろ姿を見守った。

「今のは夫のジャン・ルイよ。わからないことは何でも彼に聞いて。日本大使館に勤めているから、助けてあげられると思うわ」
由香梨がいつのまにか背後にいて、そう言った。

「それから、もうひとり騒がしいのがいるんだけど…」



由香梨が言い終わる前に、鈴の音のような可愛らしい声がバルコニーの方から聞こえてきた。何を言っているかはあきらにはわからなかったが、ひとりの少女が彼らのもとに駆けてきた。ほっそりした躰を白いニットのワンピースに包み、長い栗色の髪の毛をなびかせている。肌はひかりをたっぷり吸い込んだように白く、ヘーゼルナッツ色の大きな瞳は長いまつげに縁どられている。ふっくらとした唇は朝露にぬれた苺のようだ。彼女は神の手によってていねいに造られた人形のようだった。あきらはこんなにもきれいな少女を見たことがなかった。

「あきら、こちらは娘の花憐かれん、十四歳。花憐かれん、いとこのあきらよ」
由香梨が紹介した。
ならんで立つと、彼女はあきらよりも少し背が高かった。花憐は微笑み、はじめましてと日本語で言った。
「日本語を話せるの?」びっくりしてあきらは尋ねた。
「当たり前でしょ。私は半分日本人なんだから。よかったら通訳してあげる」
「えーと、ありがとう」
あきらは口ごもった。先ほどから、彼は心臓が高鳴るのを感じていた。血が躰中をすごい速さで駆け巡り、ほほは病気の時のように熱かった。
「あきら、どうしたの?熱でもあるみたいよ。きっと疲れが出たのね。さあ、入りましょう」
伯母はそっとあきらの背中を押した。こうしてあきらは彼らの王国に最初の一歩を踏み入れた。 


 その晩は二月のフランスにしてはめずらしいおだやかな気候だったので、夕食のあとですこし庭に出ようかとジャン・ルイが提案した。肌を刺すような厳しい寒さは和らぎ、夏の山小屋のような清涼な空気が漂っていた。藍色の空に穴を開けたみたいなちいさな星たちがほうぼうに散らばっていた。由香梨は念のため庭に小型のストーブを設置し、全員にひざ掛けを配った。キャンプみたいと花憐がはしゃいで言った。大人たちは食事中に飲んだワインのせいでほほをほてらせていた。ストーブの灯に照らされて、満ち足りた獣のように、みな心地よいまどろみの中に沈んでいた。
 デザートにはミントティーと桜餅が振る舞われた。それはフランスの家族へのお土産にと、江梨子があきらに持たせたものだった。

「うわぁ、桜餅、懐かしいな。私、大好きなのよね。こっちじゃなかなか売ってなくて」

由香梨が勢いよく手を伸ばし、大きな口で菓子を頬ばった。それは傍から見ていて気持ちのいいほどの食べっぷりだった。花憐もそれに倣った。彼女はおいしそうにそのお菓子を食べ、口の端についたかけらを指でぬぐった。彼女の小さな白い手に、貝殻のような爪がぽつりと光っていた。ジャン・ルイは用心深い猫のようにそっと遠くから菓子を見守っていた。妻に勧められ、彼もとうとう桜餅に手を伸ばした。彼はひっくり返したり、匂いを嗅いだりしたのち、やっとそれを口に運んだ。彼は背筋をまっすぐに伸ばし、遠い宇宙に想いをはせる禅僧のように静かにそれを咀嚼していたが、やがて目を開けると、熱いためいきとともに何かの言葉をぽろぽろと呟いた。

「『桜の葉でお菓子を包むなんて洒落てる』って言ったの」花憐は父親の台詞をあきらに通訳してやった。少年は小さく安堵のため息を吐いた。


 日本語とフランス語がまぜこぜになった奇妙な会話ではあったが、あきらは気まずさを感じなかった。彼はずっと前からそこにいたような気さえした。春先の淡い闇の中に時間も国境もとろりと溶け込んでしまったようだった。彼は白い息を吐いて楽しげに話している人々を飽きずに見ていた。


「ねえ、日本ってどんなところなの?」と花憐があきらに尋ねた。「子どものときに何度か行ったことがあるんだけど、あまり覚えてないの」
「あら、何度も日本に行こうって誘ったじゃない。でも、パパもあなたも、興味がなかったみたいね。そうこうしているうちに、タイミングを逃しちゃったのよね」
由香梨は声に皮肉をにじませて応じた。最後の部分は目を伏せて小さな声で言った。
ジャン・ルイが心配そうに由香梨の方を見た。彼は家の中で日本語が聞こえてくるのには慣れていたが、かんたんなあいさつの言葉を知っているだけで、自分から積極的に学ぼうとはしなかった。彼はむしろ聞こえてくる言葉にこめられた抑揚や、そこに乗せられた感情のひだのようなものから何かを感じ取っていた。ここで妻の声は大きくクレッシェンド、つまり怒っているのだなとか、ピアニッシモで囁かれる娘の声は体調が悪いときのそれだとか。それはちょうど妻の弾くピアノの音色に耳を傾けるのと同じことだった。だから彼は日本語の会話の意味はわからなくても、ある程度雰囲気をつかむことができた。そうしたわけで、今しがた由香梨が発した言葉の先っぽが弱々しく消えているのを、彼は敏感に察知したのだった。彼女は夫の耳にすばやく何かを囁いた。彼は小さく咳をし、あきらの方をちらりと見た。あきらはそこで「アポカリプス」という言葉を聞いたような気がした。



「ねえ、日本人の男の子ってみんなこんなにやせっぽちなの?腕なんてまっしろで、ほら、私と同じくらいじゃない!」
花憐は大人たちの様子には構わず、あきらに向かって話し続けた。彼女は袖まくりをし、腕を見せた。それはまぶしいひかりを内にこめた、泣きたくなるような白さだった。あきらは赤くなった。
「花憐、そんな風にあきらにちょっかいをかけるのはやめなさいな。まるで日本人に会ったことがないみたいな話し方じゃないの。まさか、あなた、ママを忘れたわけじゃないでしょうね」由香梨が言った。
「問題外よ。ママはほとんどフランス人みたいなものじゃないの」花憐が言い返した。
「あら、そう。光栄だと思うことにするわ」
母娘のおしゃべりはテニスのラリーのようにテンポよく続いた。ジャン・ルイはあきらに向かってそっと肩をすくめてみせた。少年は微笑んだ。


 アポカリプスは彼らにとって遠い世界の出来事であり、それによって彼らの生活は何ひとつ損なわれていないようだった。世界中で嵐が吹き荒れていても、彼らはそれを知らないのだった。ことに日本に関しては、メディアでの情報がかなり制限されていたので、それも無理からぬことだった。由香梨・江梨子姉妹は手紙のやりとりを行っていたものの、妹は泣き言らしいことをひとつも書いていなかった。配給食にめずらしく米が入っていたから今日の夕飯は卵がゆにしたとか、あきらが期末試験で学年一位になったとか、そのようなことだ。だから姉としても日本の現状について知りようがなかった。彼女は日本大使館に勤務する夫からしばしば情報を得ていたが、彼もすべてを知っているわけではなかった。あきらは彼らの無知がうらやましかった。少年は何も考えず、ただここに留まっていたいと思った。



  夜の十一時を回ったころ、そろそろお開きということになった。みな、ぞろぞろと家の中に戻っていった。伯母はあきらを二階の寝室に案内した。それは普段は使われていない客室なのだと彼女は説明した。ダークブラウン色の床はていねいに磨き上げられて鏡のようにひかっている。部屋の隅にはマホガニー材の大きな鏡台があり、そこから古い香水の匂いがかすかに漂っていた。ベッドは子どもがふたり並んで寝ても余るほどの大きさで、淡いグリーンのカバーがかけられていた。ベッドの横には小さな木製の白い机と椅子が置かれていた。それは他の立派な家具とは対照的にひどくこじんまりしていて、部屋の片隅に置き忘れられたおもちゃのように見えた。
「それ、花憐が子どもの時に使っていたものなの。ちょっと小さすぎるかしら。座ってみて」
由香梨はあきらの手を引っ張って椅子に座らせた。椅子に座ると少年の膝は机に触れそうだったが、なんとかかがんで書き物をすることはできそうだった。
「よかった。急いで用意したから今はこれしかないけど、いずれあきらのためにちゃんとした家具を揃えましょうね」
伯母はうれしそうに言った。あきらは胸の奥がひやりとするのを感じた。いずれっていつのことなんだろう。ぼくはいつまでここにいるんだろう。伯母はあきらの困惑には気づかず、タオルや洗面用具一式などを渡し、必要なものがあれば遠慮しないで言うようにと何度も繰り返した。あきらはお礼を述べた。由香梨は微笑み、階段を下りて行った。

 いつのまにか花憐があきらの背後にいた。彼女は暗い廊下に佇み、ワンピースのリボンをいじくりながら自分の足元を見つめていた。長いまつげが彼女の顔に深い影を落としていた。あきらは部屋から出て、彼女の前に立った。彼は何と言っていいかわからなかった。それはどちらかというときまりの悪い沈黙だった。心臓が居場所を変えようともがいているみたいに、彼の躰のあちこちを行ったり来たりしていた。

 長すぎる沈黙の後、彼女はようやく囁くようにおやすみと言い、あきらのほほにキスをした。彼女のほほはすべすべしていて、髪の毛からかすかに花の香りがした。花憐はごく自然に身を離すと、さっさと階段を降りていった。フランスでのこの習慣を知らなかったあきらは、何が起こったかわからず、しばらくそこに佇んでいた。廊下の灯りがきゅうに熱を帯びたみたいに輝いて、彼のまわりを照らした。彼は尾骨のあたりに甘い痛みのようなものを感じた。春の嵐の中にいるみたいにめまいがした。


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