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絶対的に他なるもの、それが「他者」

未知のことを「わかる」ためには、「いまはわからない」ものに触れる必要がある。

いま「わからない」ものを「わからないので」と拒絶すれば「わかる」機会は失われてしまい、「わかる」によって「かわる」機会もまた失われてしまう。

だからこそ「わからない人=他者」との出会いは、自分が「かわる」ことへの契機となる。

これがレヴィナスの言う「他者との邂逅(カイコウ)」がもたらす可能性です。

※「邂逅」の意味:思いがけない出会い、偶然な出会い、めぐりあい。

わかりあえない敵対的な他者との邂逅において、レヴィナスは「顔」の重要性を指摘する。

「汝殺す勿れ(ナカレ)」を告げる「顔」のヴィジョンだけが、自己満足のうちにも、あるいは私達の能力を試すような障害の経験のうちにも、回帰することがない。というのは、現実には殺すことは可能だからである。ただし、殺すことができるのは、他者の「顔」を見つめない場合だけである。

[困難な自由 ユダヤ教についての試論]エマニュエル・レヴィナス(訳:内田樹)【武器になる哲学:山口 周】より


※さらに補足しとくと、

「顔」はメタファーで、「圧倒的な倫理要請を迫ってくる存在、その現れ方」という感じで捉えてもよさそうです。

そのような「顔」としての他者の現れに対して、自己はどのように対応できるのか?レヴィナスはそれを「責任」と呼びます。そしてそのような「現前」と「責任」によって結び合わされる関係性のことを「倫理」と呼びます。

「他者の現前によって自己の主体性が疑問に付されること、私はこれを倫理と呼ぶ。」
これが、レヴィナスがたどり着いた他者倫理です。(web記事より)


早くこの思想に触れていたら人生変わってたかもなー。と、浸る日曜日です。昨日と異なって冷気がスゴイ。気温差に気を付けましょう。

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