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【行動心理】結婚が激ムズになった経緯 (1/2)

### 注意 ###

この記事は、結婚の歴史的経緯と変遷を踏まえ、現代人の結婚、および結婚生活がどうしてしばしば激ムズになってしまうのか、現代ではどこにでもいる異常独身男性がまとめたものです。面白〜い生々しい話は出てきません、すみません..。

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結婚、もしかして激ムズでは!?

結婚式では牧師さんが夫婦になる2人に向けて、以下のようなことを宣誓させるのが伝統です。

Couples vow to love one another in sickness and in health, for richer, for poorer.(病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、互いを愛し、敬い、慈しむ事を誓う)

「はい、誓います」以外の回答はないのですが、この文言からして、結婚する2人に課せられる高すぎるハードルの一旦を伺うことができます。

愛があれば全ての困難を乗り越えられる...!

といいのですが、残念ながら離婚するカップルは日本だと約3組に1組と高い割合です。離婚はあまり世間体がよろしくないこともあり、実態は冷え切っている関係だけれども婚姻関係を維持しているケースがあることも考えると、不幸な結婚は案外多いというのが実態でしょう。

(結婚に限らず)人間関係を長期で保つのは非常に大変で、時間が経つほどその大変さは増大していきます。小学校のときあれほど仲良かったK君、中学校に入ってから話さなくなった...なんてことはよく起こります(哀)。

ですのでいかに「愛で結ばれた」2人であれ、病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、互いを愛し、敬い、慈しむ事ができるかというと、それはさすがに期待のし過ぎでは...?と思われる方は自分だけではないでしょう。

ではなぜ結婚にはそんな不条理とも言える期待がかけられているのでしょうか?

結婚の歴史的経緯を振り返ることで、その謎に迫っていきたいです。

「伝統的な」結婚スタイルは伝統的ではない

ある2人が愛し合って夫婦になる、それを社会としてみんなで承認する。

という結婚スタイルが歴史上比較的最近の発明であることは、ご存知の方も多いかもしれません。

そもそも2人が愛し合って一緒に住んでいるのなら、別にわざわざ社会的制度として結婚(婚姻)を設ける必要はないはずですね。社会の仕組みとして存在している以上、そこには社会にとって都合の良い理由があります。

一番初期のタイプの結婚は、資源の分配と紛争の平和的回避のために生まれたとされています。

いわゆる政略結婚です。

エジプトとローマの仲をおさめたクレオパトラの結婚などが有名な例かもしれませんが、このような平和のための結婚は上流階級に限った話ではなかったようです。下流階級の人々は自由恋愛をし結婚をしていた...ということはなさそうで、例えば親がパン屋の者同士で結婚し小麦を共同購入したりライバル関係を解消したり、といったことは長いことあったようです。

すなわち、社会的制度としての結婚は、当時の人々にとって資源の分配や紛争の平和的回避といった、実用的なものでした。

愛が結婚を支配するまで

政略結婚でも愛が完全になかったわけではないでしょうが、結婚の主役が現代のように愛になる気配が出てきたのは、西暦1700〜1800年代だと言われています。

『高慢と偏見』(Pride and Prejudice)というジェイン・オースティンの長編小説が1813年に刊行されました。すみません、こちら自分は未読なのですが、「裕福な男性が、同じく裕福な従姉妹との婚約が決められていたが、庶民の女の子に惚れてしまい従姉妹の母親にブチギレられる」みたいな話のようです(最近よく見るフツーのOLがイケメン高収入社長に惚れられてなんちゃらみたいなやつの元祖でしょうか)。

このような身分の差を超えた愛の場合、少なくとも身分が上の方には資源の配分や紛争の平和的解決に繋がる社会的なメリットはありません。ただし、結婚する当事者にとっては「親に決められた相手と結婚するより、より自分に合った(自分に都合の良い)相手を探すことができる」などのメリットはあるでしょう。

そのためか、時代が進んで19世紀後半になると

「似たような出自で似たような社会的地位の2人が結婚」

よりは、

「互いに全然違う出自、社会的地位の2人が結婚」

もいいじゃんと言う考え方に変わっていきます。

愛至上主義が孕むもの

伝統的には、出自も社会的地位も違う2人が結婚するなんて、有り得ないわけです。そこで、新しいタイプの結婚を説明するために「愛」という概念が必要になります。

愛とは、(本来結合しない)対になっているものを結びつける力

と定義すると、新しいタイプの、お互いの違いを乗り越えた結婚...例えば貴族の50代の男性が10代の町娘と結婚する等...を説明可能になります。

愛が全て!

という考えは甘美ですが、実はこれが思わぬ諸刃でした。

愛が対になっているものを結びつける力だとするなら、愛によって結ばれている夫婦は、対でなければなりません。

すなわち、男と女は対となる存在であり、愛によってのみ、互いの心、身体に触れることがお互いに許され、それにより2人は「人として完成」するとされ、要は愛がなければその人の人生は不完全であるというところまで行きました。

具体的には、この時代だと特に、夫は外で働き金を稼ぎ、妻は家事をこなし家を守る、というスタイルが急速に浸透しました。男と女が夫婦として、違う役割をこなして互いを補完することが期待されたのです。

なんとなく、

- 愛がなければ(パートナーが見つからなければ)不幸

- 男は働いて金を稼ぐもの、女は家を守るもの

が人類史始まって以来の自然界の法則みたいに思いがちですが、実は歴史的には割と最近発明されたものなのですね。実は19世紀以前はそういった考えはあまりなかったようです。

愛による結婚が広まってどうなったか?

愛のない結婚=不幸、という図式は今日不動の立ち位置でありますが、そもそも政略結婚に一定の社会的利益があったのに、

「政略結婚なんて前世代的!結婚は愛しあった2人がするもの!!」

と多くの人の意識が変わったのはなぜなのでしょうか。

自分の対になり、不完全な自分を埋めてくれるパートナーと一緒にいることで、完全になったような万能感を得られる

という心の充足が、あるとき政略結婚の利得を上回ったと感じられたのですね。実際、「愛が全てだー!」というメッセージを持つ恋愛モノの作品が多く出回るようになります。

こうして(特にアメリカでは)愛による結婚がどんどん行われたわけですが、結果として1970年や80年代に離婚率が急上昇します。下図の赤い線がアメリカですが、めっさ増えてますね。

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(出典:http://honkawa2.sakura.ne.jp/9120.html)

ここで人々は気付きます。

「あっ、やっぱ出自とか社会的地位が違いすぎると結婚キツいわ」

今までは自分と対になるパートナーを求めてきましたが、またパートナーに求めるものが変わっていきます。

価値観を共有できる人と結婚したい!

だんだん現代っぽくなってきました!笑 

自分の対となるパートナーではなく、長く一緒にいて苦にならないような、価値観を共有できるパートナーを人間は求めるようになります。

現代人が聞くと当たり前のように感じますが、これは結構なパラダイムシフトでした。というのは、男と女が磁石のS極とN極のように対であるから、お互いを惹きつけるのだという考えが根強かったからです。

男は、男にはない女体のしなやかさに惹かれるし、女は、女にはない男のたくましい筋肉に惹かれる、つまり男女が対であり違うことが互いを性的な対象にしているので、共通のものがあるから惹かれ合うという要素はなかなか重視されてこなかったのです。

実はここにきて、愛の定義が若干変化しています。

愛とは、(本来結合しない)対になっているものを結びつける力

だったのが、

愛とは、価値観を共有するもの同士を結びつける力

と、ちょっと弱く広い感じになりました。

それでも結婚は愛する2人によって為されるべき、という考え自体は変わっていません。

(19世紀以降)なんか時代によってパートナーに求めるものを愛って呼んでるんじゃね...?なんて気もしてきますが、ざっくり歴史を振り返ることで、いかに愛が結婚を乗っ取って、パートナーに対する期待を反映してきたかこれまで見てきました。

次回

存外に結構長くなってしまったので2回に分けます。

今回 (1/2)はいかに愛が結婚における重要な要素として認識されてきたか、歴史をざっくり見返してみることで、結婚の激ムズさを理解しようと試みました。

次回は愛で結ばれ、晴れて結婚したカップルが、(激ムズであろう)幸せに結婚生活を続いていくために何を、どう期待値を調整したらいいのか、より行動心理的な観点で俯瞰してみたいと思います。

引用

When Did Marriage Become So Hard?

社会実情データ図録

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