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オルテガ『大衆の反逆』⑤

これまでのシリーズ↓


 4章「生の増大」に入っていく。

 オルテガは現在の世界では過去に比べて、生が飛躍的に増大したと言う。具体的にはこういうことだ。

物はそれが作用するところに存する、という物理学の原理によるならば、私たちは今日、地球上のすべての地点に対して最大限の実質的遍在性を認めることができるだろう。遠くのものが近くになる、不在のものが現前するということが、それぞれの生の地平を信じられないほどの規模で広げた

オルテガ『大衆の反逆』岩波文庫 p.102

そして世界は、時間的にも増大した。先史学や考古学は、歴史の中に途方もない長さの世界を発見した。少し前までは思ってもみなかった文明や帝国がそっくりそのまま、まるで新大陸のように私たちの記憶に刻まれたのだ。

同上 p.103

 このことに異論のある人は多くないだろう。科学技術の発達は、地球を狭くした。目に見える範囲が広がったとも言える。そして私たちは、この空間的・時間的世界に生きる中で、スピードというものをとても重視している。

本文の注釈にはこう書かれている。

まさに人間の生的時間が限られていて、まさに死すべき存在であるからこそ、距離や時間の遅れを克服しなければならないのである。その存在が不死である神にとって、自動車など意味がないであろう。

p.389

空間を減殺し時間の頭を切り落とす虚ろなスピードを駆使することに、私たちが子供っぽい喜びを覚えたとしても何の不思議でもない。私たちは空間と時間を抹殺することによってそれらを生かすのであり、生のための利用を可能にする。

p.104

 「タイパ」という言葉が思い起こされる。若者特有の現象のように思われているこの「タイパ」は、実は現代の本性に根付いたものと考えられるだろう。

 オルテガは、18世紀の人間と現代(20世紀)の人間が商品を買うシーンを想像する。この二人が同じくらいの資力だった場合、現代の人間の方が、はるかに多くのものの中から商品を選ぶことができるだろうと言う。つまり、より現代の人間の方が、より多くの選択肢をもっているのだ。

そして選択は市場が提供する諸々の可能性に気づくことから始まる。そこから結論できることは、生というものが、その「買う」という様式において、もっぱら購入の可能性を可能性として生きることに存する、ということである。

p.105

すなわち私たちの生とは、瞬間ごとに、そしてすべてに先立って、自分にとって可能なものについての意識であるということなのだ。

p.105

 つまり、購入可能性の増大は、生の増大につながっているということだ。なぜなら私たちの生は、二つ目の引用にあるように、自分にとって可能なものについての意識だからだ。

 言い換えるなら、企投性ということだ。人間は自らを可能性の内に投げ入れるという仕方で生きているが、その可能性は被投性という形で制限されている。だから、買えるものの選択肢が増えたということは、生そのものにかかわる事態なのだ。

私たちが生きているということは、状況としていくつか特定の可能性を前にしているということと同じなのだ。そしてこの選択・決断という領域は、普通「環境」と呼ばれるものとなる。あらゆる生は、「環境」もしくは「世界」の中にあるということだ。

p.106

 なんだかまんまハイデガーの世界内存在のようだ。オルテガの方が少し年上だが、この類似は偶然ではないだろう。同じ時代の空気を吸っていたからこそのものだと思われる。


 また、スポーツの記録はどんどん更新されている。このことは必ずしも人間の身体的能力が上昇していることを意味しないが(それどころか低下している部分もあるだろうが)、それでも今までにできなかったことができるようになっているのは事実だ。

 科学技術の発展は言うまでもない。原子が最も小さい物質と考えられていた時代はとうに昔のものとなり、今では素粒子が発見され、(よくわからないが)ダークマターやダークエネルギーとかいうものも見つかっている。これは単に新しい発見であるという以上のことを意味するとオルテガは言う。つまり、人間の見る目が、知的能力が向上したのだ。

精神の自由、すなわち知性の潜在能力は、伝統的に分離不可能な理念を分離する能力によって計られる。ケーラーがチンパンジーの知性に関する研究の中で言っているように、理念を分離するのは、結びつけるより遥かに骨が折れる。人間の理解力が今ほど分離の能力を身に着けたことはなかったのである。

p.390(本文の注釈)

 たしかに、理念を分離するとは、より精密にみるということだ。より精密に見ると情報量が増える。この観点から知性を計るのは、一理あるのかもしれない。巷では「解像度が高い」などといわれるが、これも「ある現象をより精密にみている」ことを表しているだろう。


 これらのことからオルテガは、しかし、現代の生が昔よりもより良くなったと言っているわけではない。

私が述べてきたのは現代の生の質ではなく、ただその量的あるいは能力的増大、そして進歩についてなのだ。

p.109

 生は増大したが、それによってハッピーな世界になったわけではない。オルテガは安易な「(西洋の)没落論」を避けるが、しかしやはりそういった面があることは否定しない。

つまり私たちは、信じられないほどの能力を有していると感じていても、何を実現すべきかを知らない時代に生きているのだ。あらゆるものを支配しているが、おのれ自身を支配していない時代である

p.111

現代人に巣くう優越感と不安感の、この奇妙な二重性はここに由来する。
(中略)今日では、あらゆることが純粋に可能と思えるまさにそのために、最悪のこと、すなわち退行、野蛮、没落もまた可能であると予感しているのだ

p.111

 多くのことが可能になり、精密にものを見れるようになったからこそ、先行きの不透明さと、あらゆることが可能であるという事実が浮き彫りになってきたのだ。これが書かれたのは1929年だが、第二次世界大戦が起こったのはそのすぐあとだった。

 ここでアドルノの有名な言葉である「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」を思い出すのは不自然なことではないだろう。この言葉の前後はこうなっている。

文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している。アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を語り出す認識を侵食する。絶対的物象化は、かつては精神の進歩を自分の一要素として前提したが、いまそれは精神を完全に呑み尽そうとしている。批判的精神は、自己満足的に世界を観照して自己のもとにとどまっている限り、この絶対的物象化に太刀打ちできない

https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/2d460d01b625ac274dd084cfdd5803b1

 本がないので、あるブログからひっぱってきたが、元の文章はちくま学芸文庫の『プリズメン』に入っている(らしい)。

 「絶対的物象化」とは平たく言えば「モノ化する」ということだと思う。資本主義社会のなかでは、とりわけ商品化が当てはまるだろう。たとえば本を書くにしても、売れなければ仕方がないから、売れるような本を書くように誘導されていく。こういう「モノ化」が社会を覆っているというのが、アドルノが指摘している事態だろう。

 オルテガに戻ると、商品が増え、つまり購入可能性が増えたと言われていた。この「モノ化」が一気に進んだことで、「おのれ自身を支配していない(オルテガ)」、あるいは「いまそれは精神を完全に呑み尽そうとしている(アドルノ)」という事態が発生しているのではないだろうか。

 「おのれ自身を支配していない」とは曖昧な言い方だが、とはいえ伝わるところはあると思う。多くのことが分かるようになり、可能になったはずなのに、すぐ近くの未来すら想像できない状況にあるのだ。オルテガはこの事態を「生に真摯に向き合うようになる」的な理由から肯定的に受け止めているが、これに関してはなんだかあやしい気がする。

 次は第5章。

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