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「普通かぁ。なんか、いいな。」

長女が彼と一緒に暮らし始めて、一年とちょっと。
笑いと緊張のあいさつも済み、娘は今週末、彼とともに婚姻届を出しに行く。


娘は、彼と同じ職場で働いている。
娘の職場は、月に一度だけ男性職員には当直があるので、彼が当直の日は、娘がうちに夕飯を食べに来る。
それ以外でも、娘は気まぐれに物を取りに来ることもあるが、滅多にうちには来ない。
反抗期にいろいろあって、彼女にあまり干渉しないようにしてきた。その母娘のサラッとした距離感を、娘も気に入っているようにも感じる。

娘が来る日は嬉しくて、私は数日前から献立をいろいろ考える。
夫も息子もいるので、毎日夕飯は手作りだが、娘が来るとメニューが増える。
娘の好きな物をあれこれ作り、食後のデザートまで用意しておく。帰りには、お土産も持たせる。
そういうところ、私も、私の母と似てきたように思う。
久しぶりに家族が揃うことは、私をかなりご機嫌にするようだ。



連休中も彼が当直の日があり、仕事帰りの長女が夕飯を食べにきた。後片付けを済ませて娘と2人、キッチンに残って少し話をした。
なんとなくだが、入籍前に2人でゆっくり話したいと、私が思ったから。



*****


二女のゆうは筋肉が壊れていく難病で、そのため私はずっと、ゆうに付きっきりの毎日だった。3歳年上の長女は、二女が生まれてから我慢することも多かった、と思う。

長女は、あまり自分の気持ちを話さない。

小学一年生の時、当時の担任から「この子は我慢しているから、もっと子どもらしく、自分の気持ちを出させてあげたほうがいいですよ」と言われて、私は悩んだ覚えがある。

長女は妹のゆうのことを大事にしてくれていたし、親に無理を言うことも、甘えることもあまりしない子だった。
ゆうが生まれて、一番苦しんでいたときの親の姿を見て長女は育った。だから、すべてを察しているという感じの、精神的に大人びたところがあった。
そんな長女に、ずっと、親の方が甘えていたのかもしれない。

長女が小学3年生のとき、長男が生まれた、当時の私は、二女と長男の世話で、毎日がてんてこ舞いだった。
けしてそれを言い訳にはできないが、長女の小学生時代を、私はあまり思い出せない。ただ長女は、申し訳ないほど、私を助けてくれる大事な存在だった。


そんな慌ただしい日々のなかで、たった一度、長女の気持ちを知って、強く胸を痛めた忘れられないことがある。
長女が小学5年生の頃、夕飯を作る私の横にふらっと来て、私にふたつの質問をしたことがあった。

ちょうどその頃、学校で「福祉」の勉強をし、聞き取りの宿題をしていた時だった。宿題の聞き取りとは別で、その時に感じた不安を娘は口にしたのだと思う。

「お父さんとお母さんが、もしも死んでしまったら、ゆうはどうしたらいいの?」

私は一瞬、動きが止まった。
小さな頭で、そんなことを考えていたのかと思うと、胸が苦しくなった。
丁寧に、大切に、娘に話したような記憶がある。いまでも、言ったことをすべて覚えているくらいなので。


「二女がかかりつけの、病気の専門の病院にお願いして、二女を病院に入れてもらったらいいからね」と、長女に話した。
「長女が、ゆうをみる必要はないんだよ」と。

長女は少し、ホッとした顔をした。
私は娘に、続けてこうも言った。

「お父さんも、お母さんも、死んだりしないから、大丈夫。ゆうのことは、親がずっとみるから、なんにも心配いらないから」と。



次に、もっと言いにくそうな顔で、娘は聞いてきた。

「私がいつか子どもを産んだら、ゆうと同じ病気の子が生まれることがある?」

この質問は、頭が真っ白になった。
可能性がゼロではない病気だから。

でも、泣かずにちゃんと話した、と思う。

「それはわからない。たぶん、同じ病気の子が生まれることは、ほとんど無いと思うけど、絶対とは言えないよ。でも、同じ病気なら、お母さんも一緒に育てるから大丈夫。お母さん、ゆうと同じ病気の子どもを育てるプロだから。」

娘は、ふーんと言って妹と弟のいるリビングへ戻って行った。
長女を抱きしめてあげることができなかった。気持ちがいっぱいで、しばらく呆然とした。

一番、私が痛みを感じる質問だった。
一番、私が子どもたちに申し訳ないと思う質問だった。

なんで、私なんだろう。
なんで、二女なんだろう。
なんで、長女や長男までも巻き込むんだろう。
私だけの苦しみならいいのに。
大事な子どもたちの苦しみにならなければいいのに。


小学生時代の長女は、今思うとヤングケアラーとも言えるほど、遊びにも行かずに、きょうだいの世話を当たり前のようにしていた。
長子には誰しもそんなところは少なからずあることかもしれないが。
「ちょっと見ていて」っていう、私からのお願いに、長女は必死で応えてくれた。それが娘にとって、親から自分が認めてもらえる最大のことだったし、娘の「普通」になってしまっていたから。

当時の私も、それを気づいていた。
ほんとうは、長女を自由にしてあげたかった。

中学、高校では、長女は自分のことで忙しくもなり、反抗期らしき時期を迎え、親としてはちょっと安心した。やっと、自分の気持ちを出せるようになったと思ったから。そしてやっと、彼女を解放してあげる理由ができたと思ったから。



二女のことは、長女なりに、できる範囲でずっとサポートをしてきてくれた。
小学5年生のときのような質問をしてきたことは、その後、一度もない。寂しかったとか、我慢したとか言ったことも、一度もない。
友達に敢えて言うわけではなくても、妹を隠すことはなかった。

長女の結婚に対して、二女のことでいろんな心配をする私を鼻で笑いながら、
「あほくさー、そんなん大丈夫やわ!」と言ってくれる子になった。


深い話を避けながら、お互いがお互いに、すでにわかっているものを壊さないようにしながら、絶妙な距離感で長女とは生活してきたような気がする。




*****


結婚前に、二女のことで、娘が何を思いながら育ってきたのか、私は聞いてみたくなった。


「小学生のころ、ゆうの病気のことで、お母さんに質問したことを、長女、覚えてる?」
長女は、急にどうした?みたいな、びっくりした顔で私を見た。
あの日のふたつの質問について話してみた。
「そんなこと、私、言ったんや!それは忘れとるわ。」と、わりとあっさり。

「ゆうの姉として、長女にはたくさん我慢をさせたね」と、親に本音を言うとも思えないが、思い切って尋ねてみた。

「ゆうのことで、私はなんにも困ることも、気にするとかもなかったな。我慢かぁ、んー、これが普通やと思ってきたからなぁ。」
と、彼女は思い出すような顔つきで、ゆっくり話した。

「お父さんもお母さんも、私らきょうだい3人に、同じように一生懸命やったんは、知っとるからさぁ。まぁ、ゆうだけ特別でもないし、普通やと思う。」


「普通かぁ。なんか、いいな。」

私もそう言った。

この生活しか知らない長女は、この日々が彼女には普通だったのかもしれない。
意識したのか無意識なのか、親を安心させようと言葉を選んだのかもしれない。
小学生当時や、思春期の頃と、今と未来では、長女の気持ちも違うだろう。


でも、結婚前に話せてよかった。
ただ素直に、私の子にしては優しく育ったかな、と思った。
親は何にもしていないけど、きょうだいが一緒に育つこと、それが自然にそれぞれを育てたように思う。





帰り際、夫が娘に言った。
「もう、こそこそ来るなよ。」
「なに?彼が夜勤だから来てるんだけど。」
「だから、これからは一人で来るなよ。二人で来い。」
「は?だから、夜勤なんだよ、彼は。」
娘は夫には、言い方がキツい。
夫は、それをかわいいと思っている幸せな人。
「だったら、月に2回、うちに来たらいい。」
夫がそう言うと、
「ふふ…。」
娘は鼻で笑いながら、にっこりした。
お互いが不器用な会話で、私も笑ってしまった。


玄関まで娘を見送りながら、私は娘を見つめた。
「次にうちに来るときは、苗字が変わってるんだね。」
私の言葉に、はにかむ娘が、いつになくきれいだった。そして、私はすぐに涙目になる。
「なんなん?なんなん!お母さん、見つめ過ぎやわ。」
そう笑って、長女は彼との暮らしへ帰って行った。



これからは、月に2回、母は夕飯作りを張り切ってしまいそうです。




最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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