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私は、村上海賊の末裔かもしれない

5年ほど前になりますが、読書家の弟から「村上海賊の娘」という本を借りました。


知っている地名と頭の片隅の風景が結び付き、夢中になって全四巻を読みました。

掠奪するような悪者のイメージがある海賊ですが、当時は瀬戸内海を守る役割をしていたと知り、まるで海上保安官だなと思ったり。
残虐ではあるものの圧倒的な強さに惹かれて、かっこいいとすら思ったり。
完全に海賊に憧れてしまっている自分に驚きました。

読みながらふと、約30年前に同僚から言われた言葉を思い出していました。

「琲音さんは、村上海賊の末裔かもしれないね。」


言われた当時は、「それが、なにか?」みたいな気持ちで聞き流してしまったのですが、本を読んでいると、間違いなく私の先祖は海賊だと思えてきました。

単純な私は、その後しばらく村上海賊にハマり、「村上水軍」を調べたり、実際に両親の生まれ育った四国の島へも行ったりしました。
そこで行き着いたのは、祖父の生い立ちと家紋への誇りでした。





こちらは千世さんの記事です。

歴史に対して無知な私ですが、千世さんの記事は知識が豊富で考察も鋭く、なにより、学校では教わらなかった歴史上の人間ドラマがわかりやすく書かれていて、いつも大変興味深く読ませていただいております。

こちらの記事に背中を押してもらったような気持ちになり、5年前に自分のルーツについて調べたことを、私なりにまとめて書いてみようと思います。



*****

私の両親は、瀬戸内海に浮かぶ大三島おおみしまという島の出身だ。
空と島と海が生み出す絶景は、どこを切り取っても絵画のように美しい。

多々羅大橋と島と海



父母は高校卒業を機に島を出て、集団就職でそれぞれ関西方面で働いていた。そして、親のすすめで結婚したらしい。

私は小学生の夏休みのほとんどを母方の祖父母の家で過ごしていたので、愛媛県の大三島を自分の故郷のように感じて育った。

私の幼い頃は、まだしまなみ海道もなくて、広島県の三原港から船で島へ渡っていた。島に着くと、自分が暮らしていた街とは全く違う匂いと景色が広がっている。

みかん畑の真ん中には、道幅の狭いでこぼこ道が山まで一本続いている。その道を農作業の道具を乗せた軽トラックが、時々かけ足くらいのスピードでゆっくり走っている光景。
何十年も昔の世界に入り込んだような感覚だった。

大らかな島民が醸し出す「ゆったりした時の流れ」が子どもだった私にも心地よかった。

潮の香り、海水浴、祖父母の家の庭にある大きな縁台で食べるアイス、祖母の味噌汁、蚊帳かやの中での雑魚寝が、私の夏休みだった。


就職したばかりの頃、歴史に詳しい職場の先輩に、「両親が大三島の出身だ」と話したことがある。その時に、私の祖先は海賊だろうと言われ、思いもよらないワードに驚いた。

芸予諸島の島々には、日本中世に水軍となった「海賊衆」の子孫がたくさん住んでいることは充分に考えられる。私の先祖が大三島の出身だということが、ますます海賊との縁を思わせる。

さらに、大三島には大山祇神社おおやまづみじんじゃという「日本総鎮守」と称される神社がある。
村上水軍も崇敬していた神社だ。



私は、祖父母の幼い頃のことはほとんど知らない。
母方の祖父は左官業をしながら、みかん農家を営んでいた。その祖父が海で親を亡くして親戚の家で育った、というのはなんとなく知っていたが、訊いてはいけないような気がして、深く尋ねたことがなかったのだ。

祖父母はずいぶん前に亡くなり、島に残る親戚もわずかになってしまった。
だが、娘である母なら祖父の生い立ちは知っているだろうと思い、母にあらためて訊いてみることにした。


祖父の親は船を住処として、瀬戸内海で運搬業のような仕事をしていたらしい。
祖父が2歳の時に、海での事故で母親と妹を同時に亡くし、父親とも生き別れたために、従兄弟の家で育てられてきたそうだ。
学校にもしっかりとは行かせてもらえないほど、祖父は相当な苦労をした、と母が目を潤ませて話してくれた。

それでも左官に弟子入りし、技術を磨き、ひとりで生きていく力を身につけた。そして、家庭を持ち、少しずつ山を買ってみかんも作りながら、弟子を何人も育て上げるほどの職人になった。

母の話より


祖父の壮絶な過去を知り、胸が痛んだが、「じいちゃん、かっこいいな」とも思った。
「船の仕事」からも、祖父が海賊の末裔だという可能性があるように思える。
祖父の眠る大三島へ、どうしても行きたくなった。

難病の二女が生まれて以来、島へ行く機会はほとんどなかった。滞在時間よりも移動時間のほうが遥かに長いのを承知で、夫に娘を任せて、日帰りという約束で大三島へ向かった。




5年前の真夏の大山祇神社は、コロナ禍前だったが参拝者もまばらで、広い境内は静寂に包まれていた。
遠い青空と神社の木々の緑が、自分の気持ちを凛とさせてくれる。幼い頃に見た時と同じ雄大さで、御神木の「大楠」がそこに佇んでいた。

戦国時代、私が立つこの場に、村上海賊の武将達が実存したのかと思うと、少し震えた。

大山祇神社の御神木


併設された国宝館には、全国の国宝・重要文化財に指定を受けた武具類の8割が保存されている。源義経の鎧をはじめ、兜、刀剣などの展示を見てまわり、神社の社家の家系図の中に祖父と同じ名字を見つけた。

神社の神紋と、祖父の家の家紋も全く同じだ。これは三島水軍の家紋でもある。

後日、母にも確認したところ、祖父は家紋が神紋と同じだということを、とても誇りに思っていたらしい。

隅切折敷縮三文字-「すみきりおしきちぢみさんもんじ」といい、折敷の四隅を切りとった八角形の中に波型の三をあしらっている家紋


私は確信した、やはり私は海賊の末裔だ、と。

村上水軍というより、厳密には三島水軍の末裔なのだということも、後から調べてわかってきた。


御朱印とパンフレット




やっと島に帰って来ることができたので、祖父母の墓をお参りした。高台にある墓からは、瀬戸内海が一望できる。

祖父母の墓から見下ろした島の景色。
遠くに見えるのがしまなみ海道の多々羅たたら大橋。
この写真は、2年前の秋に日帰りで墓参りに帰省したときのものです。
みかんがいい色になってきています。


しばらくの間、懐かしいその景色を眺めた。足元にあった墓前の小石を拾い、「お守りにしよう」と思って、そっとポケットに入れた。



*****

自分が海賊の末裔かどうかは、結局しっかりとした確証はありません。寺に行けば、家系図などで調べられるかもしれませんが、これ以上はもう、知らないままでいいと思いました。

私の中では、祖父の存在そのものが強くて偉大な「海賊」で、祖父と血が繋がっていることを、とても誇りに思えました。
自分のルーツを探った一番の収穫は、祖父のように自分も強く前向きに生きたい、と思えたことでした。

祖父の墓で拾った小石をぎゅっと握ると、「琲音、また大三島にもんて帰って来い。」という祖父の声が聞こえてくるような気がします。



ちなみに瀬戸内の海賊は源平合戦では源氏に味方しました。
夫は平家の落武者の子孫だと、義父から聞いたことがあります。
源氏と平家の結婚です。

ふふふ、史実上では、源氏が勝利したんですよね。


またいつか、ゆっくりと瀬戸内海の島を巡り、海賊の足跡を辿ってみたいです。




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