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時間による支配から人類を解放するための第一試論:ダダイスト新吉の詩を例に。

『ダダイスト新吉の詩』と〈時間〉についての考察    2019.7.7  こががっこ


私が古書店で『ダダイスト新吉の詩』をみつけて購入したのは2018年12月4日の事である。前日の3日に49歳になった自分にじぶんでプレゼントをしたのだ。49を「詩句」と読み替えて勝手にしくしくと騒いでいた。が。この詩集が手元に来てから私の思考は狂い始めた。おそらく。


詩集を通読してみた。解読できなかった。それは特段めずらしい事ではない。他にも理解不能な詩集はたくさんある。そもそも詩人の言葉はわからないのが普通である。とも云える。しかしそういう意味の「わからない」なのではない。ダダイスト新吉の場合は「わからない」がわかるように書かれている。ある。その事態がじわじわと浸透してくる。否。感染してくる。危険なほどに。ウイルスとしてのダダ。
序文を書いた佐藤春夫は《君は半世紀進んでゐる第三流の作家だ。ただの三流の作家なら原稿は売れるのだ。君は半世紀進んでゐる。そこが君の世間に通用する人になれない致命的な点である》と新吉に向って語っている。プロデュースを手掛けた辻潤は《新吉にはたしかに和製ランボオの資格があるが、あいにく己がヴェルレイヌでないことは甚だ遺憾だ》と書いた。16歳の中原中也は山口中学を落第して京都の立命館中学に転入した。その年(大正12年)の秋に『ダダイスト新吉の詩』を古本屋で手にして決定的な影響を受ける。
この詩集が発行されたのは大正12年2月15日。編者=辻潤。発行者=田口鏡次郎。印刷者=一噌定次郎。発行所=中央美術社。大震災のあった年である。つまりこの詩集は関東大震災を経験し米軍の爆撃による戦禍を逃れ敗戦と戦後の復興そして昭和平成の荒波を乗り越えて「ひょん」とここにある。この物体の存在意義。印字された活字の意味に関わりなく。異様に立ち現われて来る「物」としての詩集。その価値は?
書物はそこに書かれた文章の中身にこそ価値があると私はずっと思い込んで生きて来た。だから本という物体はあくまで手段であって二次的な存在である。媒体は雑誌であろうと単行本であろうと巻物であろうと電子版であろうと構わない。文字が読めればそれでいいではないか。とそんな風に感じて生きて来た。その価値観は決して間違いではないだろう。文字が読めてその意味さえつかめればそれでおしまい。あとは古本屋か古紙業者へ。読み捨てられる運命としての本。ところが『ダダイスト新吉の詩』の実物をてのひらに乗せてみると否応なしに価値観がひっくり返る。
人体から切り離された脳味噌の中身に価値はあるか? 詩集という物体から切り離された詩句の中身に価値はあるか? そういう問題を突き付けて来たのが『ダダイスト新吉の詩』なのである。こうして「詩集という物体とそこに書かれた詩句は切り離せないのだ」という新たな知見を私は持った。この新しい価値観に間違いがないかどうか。それを確かめるために私はここ半年ばかり古書店をめぐりながら物体としての詩集の価値について考え続けている。
ウイルスとしてのダダは破壊を目的としている。文化の破壊。価値観の破壊。言語の破壊。破壊の破壊。破壊活動はその活動自体も壊してしまう。詩にどんな意味があるか。詩句にどんな価値があるか。語に。文字に。記号に。一体なんの働きがあるか? 懐疑のための懐疑へとウイルスは誘導する。むしろ文字なんかみな文字化けしてしまえ!
ここに書き連ねている文字がすでに虚しい。ダダにとっては無駄な模様の連続体。この思考をニーチェに結びつけて「すべての価値の価値転換の試み」としても良いのではあるがダダはそれを許さないだろう。デカルトに結びつけて「方法的懐疑」の徹底に乗り出しても良いのではあるがダダはそれも許さないだろう。私は今まで読んで来たものをすべて否定するためにそれらを再読しなくてはならないと思い始めている。ここに至って症状は悪化するばかり。
そうしてとうとう〈時間〉と対決することになってしまった。私の敵は思想や思想家ではなかった。私の敵は概念や理論ではなかった。私は「時間による支配から人類を解放する」という使命感にかられて思考している。この思考の恐ろしさはここでは語り尽せないであろう。そう。そのことを示すためにも私は語り続けなくてはならなくなった。踊り続ける魔法の靴を履いてしまった。
〈時間〉は人類が良かれと思って生みだした基準である。生活を区切り共同体に呼吸を合わせるための規定として。人から人へ。村から街へ。街から都市へ。都市から国へ。国から国々へ。国々から世界全土へ。そして地球人は〈時間〉を便利な道具として承認した。ところがそれは逆であった。
〈時間〉はロゴスを武器にして人類の支配に乗り出した。〈時間〉は幾何学を道具にして人類の統合を図った。〈時間〉は音楽を利用して人類の意識を麻痺させた。〈時間〉は宗教を取り込んだ。〈時間〉は詩人に時間を歌わせた。〈時間〉は哲学者と科学者を使ってその支配の地盤を固めさせた。
こんなことを書いても「時」すでにおそし。手遅れ。手遅れ。〈時間〉は笑っている。もう誰も〈時間〉の否定を言明できないところに来ているからだ。この文字の並びにそれが現われている。可視化すればこれらは□の中に一文字一文字収まるように設定されている。「原稿用紙」そのものだ。ロゴスを武器にはできないのである。なぜならそれは〈時間〉が人類を支配するために作り出したものだからだ。
私は珈琲の色さえまともに言語化できない。珈琲の色は黒ではない。茶色でもない。黒と茶色を混ぜた色でもない。珈琲色としか言えない。しかし「珈琲の色は珈琲色である」という命題に何の意味がある? カオス。
私は五月のそよ風の心地よさをまともに言語化できない。あれは涼しいのか。暖かいのか。強い風なのか。弱い風なのか。軽くて。爽やかで。気持ちいい。そんな言葉を並べ立てたとしても私が感じた風には成り得ない。「五月」がどこの誰にとっての「五月」なのか。風がどこからどこへ吹いたのか。そこにあった木々の形は? 色は? 鳥は鳴いていたのかどうか。人の声は? 姿は? 誰がどこで何をしていたか。カオス。
カオスを嫌った〈時間〉はロゴスを使ってコスモスを人類の頭の中に作らせた。12345…。ABCDE…。アイウエオ…。♪♪♪♪♪…。数学も文学も音楽も〈時間〉の支配下にある。このことを考えだしてから私は音楽を単純に楽しむことができない。なぜ〈時間〉に忠実なのか? リズム。テンポ。旋律。歌声。全ての楽器が〈時〉を刻んでいる。絵画も彫刻も建築も〈時間〉の支配を暗黙のうちに受け入れている。幾何学や数学を無視できないがゆえに。芸術に罪はない。と言い切れるかどうか。それから歴史。これは〈時間〉の支配を正当化するために案出されたとしか思えない分野である。なぜ年月を記すのか。2019年? 7月? 7日? 太陽から地球の年齢がそう観えるわけではないだろう。銀河にとって2千年は一瞬のことだろう。私の思考は確かに狂っている。抵抗はいよいよ虚しい。
ダダイストは云う《一切の過去は納豆の未来に包含されてゐる》と。
ダダイストは云う《実在が存在せなんだ時まで、後戻りする事は、イージイゴーイングなんだろうかや、DADAでねえもな みなダダだ》と。
私はここで『ダダイスト新吉の詩』から二つの詩句を切り離して引用した。この行為に疑問を持てないようにするのが〈時間〉の狙いでもある。だが救いはまだある。実物はここにあるのだ。私のてのひらの上に。

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