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幸せはもう寒さに隠れてはいないから

子どもの頃によく訪れた祖父母の家には、使っていない火鉢があった。中ほどが丸く膨らんだ樽のようなフォルムがなんだかユーモラスでかわいらしかったのを憶えている。炭火をおこすとかいう、その使い方を教わったときは驚いた。「え? そんなことであったかくなるの……?」。

ファンヒーターやこたつのあたたかさよりも、ずっと頼りなさそうに思えた。?? それってほんとうにあったかい? 祖父母の家は古く、寒かったから、幼い私はこたつに潜りこんだり、ファンヒーターにかじりついたりして暖を取っていた。 

私が生まれた頃に建てられた実家もまた寒かった。古いうえに、なぜか窓が多いのだ。実家で朝、目覚めると、だいたい唇がかさかさで鼻先が冷えていた。

そこでもファンヒーターが大活躍。ぶおんと起動音を響かせ、温風が噴き出すと「あー、幸せ」と感じた。冷たい手先に血色とぬくもりが戻ってくる感覚は、安心にもつながっていた。

現代の住宅は高気密高断熱のものが多いから、家の中は昔ほど寒くないと感じる。そもそも昔より寒さが厳しくない。床暖房を入れると、冬であることを忘れるくらい。給湯器からすぐにお湯も出るため、指先が凍る思いをしなくても済むようになった。

こうやって、生活が快適になるのは大歓迎だ。寒さに耐えながら家事をするという苦労がなくなることも。ビバ、技術の進歩!

そして、私は懐古主義者でもない。なにかにつけ「昔はよかった」と語りたいとは思わない。

それなのに、寒い寒いと言って手をすり合わせた末にファンヒーターのぬくもりにたどり着いたあの日のことをやたらと懐かしく思い出す。あの頃のほうが幸せに気づきやすかったからかもしれない。寒さとぬくもりのあいだにある落差が、私にささやかな幸せを知らせてくれていた。

でも、今は、家の中でそこまで寒さに震えることはない。そのぶん、「ただそこにある幸せ」に気づけるかどうかは自分にかかっているような気がする。

寒さをしのげる家があって、あったかい床があって、真剣に取り組める仕事があって。昔より気づきにくいけれど、幸せは日常のそこここにあると思いながら生きていけたら楽しそうだ。これからは幸せ感度を上げられるといいな、なんて思う。


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