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『さようならCP』・あるいはあえて対立を強調することでその破壊を試みる男、原一男について

原一男との邂逅

 原一男との出会いは、今日から一ヶ月ほどまえの早稲田松竹においてであった。スクリーンに映し出された『ゆきゆきて、神軍(以下、神軍)』は、僕に原一男作品の網羅を決意させるには十分な刺激を伴っていた。そしてようやく観れたわけである、原一男の商業処女作たる『さようならCP』を。
 早稲田松竹における『神軍』の上映中、僕は強い不満を抱いていた。客席で笑い声が聞こえるのだ。しかも上映後のホールでは「変な人だったねえ」という言葉さえ聞こえる。スクリーンの男を「変な人」として笑って消費する姿勢が、どうしても気に食わなかったのだ。『神軍』において示されたのは奥崎謙三の持つ一貫した理屈であり、それはむしろ「変な人」という我々の固定観念を瓦解させるものであったはずだ。ドキュメンタリー鑑賞とは、スクリーン越しの相手を鏡に自己を内省する行為であり、決して「スクリーンの内側/外側」と壁を隔てて笑い物として消費するものではない。

自発/受身という二項対立の反転、すなわち革命

「すべてにおいて受身だということ。やってもらう立場で、いろんなことを訊かれたり、写真に撮られたり、ということ。常にやられている立場なんだ。これではいかんと思ったわけだ。それで逆転するにはどうすればいいかということを考えたんだけれど、(中略)こんちくしょう、撮られてばかりいて、よしおれのほうが撮ってやれという気持ちが出てきた。それでカメラを持つようになった(中略)そしたらなにか、ちょっとオーバーな言い方をすると、世界が変わった」

『さようならCP』、CP者の横塚晃一氏

 この自発/受身という対立図式は、全編に渡って重要な意味を持つ。それは、撮る/撮られる、歩く/歩かされる、見る/見られる、健全者/障害者、インサイダー/アウトサイダーという二項対立でもありうる。原一男は、あえてこの二項対立を際立たせることによって、その逆転に伴う構図の瓦解を狙ったのだ。
 だから横塚氏はカメラを構え、撮ってやることにした。「撮られる」立場から「撮る」立場への転換である。横田氏は、膝で歩いてやることにした。「(車椅子によって)歩かされる」立場から「歩く」立場への転換である。
 その立場の逆転は、即座に革命行為へと転化され、健全者の立場を脅かす。「撮る」立場から「撮られる」立場へと転換した健全者は、その足元の脆弱性に気付かざるをえない。そして横田氏の狙い通りに、インサイダーに巣食うアウトサイダーが産声を上げるのだ。

「アウトサイダーにはぜったいインサイダーにはなれないわけよ。むしろあべこべに、いままでインサイダーだと思っていたやつでもなんらかの意味においてアウトサイダーじゃないかと。自分がアウトサイダーであることになぜ気がつかないんだというのが我々の叫びよ」

『さようならCP』CP者の横田弘氏

視点の転換

 もうひとつ重要なのは、視点の転換である。それは原一男によって「撮られる」障害者と、カメラを持った横塚氏による非随意運動を伴うブレた映像(「撮る」障害者)、低位にカメラを置いた原一男が撮る横田氏の視点からの映像(反逆した障害者の視点から「撮られる」障害者)、そしてCP者の横塚氏が反射する自分を映す映像──それは「撮る」自分であると同時に、「撮られる」自分でもある……。
 このような視点の転換は、やはり健全者の立場を揺らがせる効果を持つ。ドキュメンタリーの本質たる、スクリーンという鏡を通した自己内省を絶えず促すのだ。
 それはまるで、冒頭のシークエンスで「なぜカンパをしましたか」と執拗に詰問される通行人の一人に身を置くような、衝撃的な映画「体験」である。カンパをすることが健全者と障害者の間に壁を作り、原一男が壊そうとした「アウトサイダーを閉じ込めてインサイダー同士でよろしくやる」社会に加担してしまってはいないだろうか。自己満足の保身として機能してはいないだろうか。大多数の通行人と同じく、私もまだ、その答えに詰まっている。

追記:「健全者」「障害者」という表記に関する不平不満はもちろん想定されうる。「健全者」は本編中の言葉である。また「障害者」に関しては、彼らは生きるうえで多くの「障害」を抱えているということであり、当人らを「害」とする価値観を助長するものではない。

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