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動物がただ食べているだけの映像で

お茶碗に、いつもより多めにご飯をよそいたくなるのは、決まって満月の頃。若い頃(会社での人間関係のストレスが半端なかった頃)は、こういう時、帰りのデパ地下とか駅中で、スイーツを買い込んでいたんだろうなと思い返す。

「身体の声に正直になりましょう」と諭されて、頭ではわかっていたつもりだったのですが、「頭(脳)」が食べたがっているものの声が優勢だったのが、今はわかります。

私の場合、頭が欲する食べ物と、お腹(という言い方で伝わるでしょうか?)が欲する食べ物とが、すこぶる(この言葉の使い方おかしいけどw)
そう、なんだか、すこぶる、違っていました。

そりゃ心身ともに、健やかにならないわけだよなぁ。

頭に正直に食べていたら、病んだってことだけど、
すっかり元気になった今、思い返す。
私は一体、どのあたりから、身体の声が聞けなくなっていたんだろうかと。

・・・

小さい頃、入院していた時に食べる気力がなくなった頃のこと。
元気なのに、なんだか食べることができなくなった時のこと。

どちらの時も、ふと見た動物たちの映像がきっかけで、
「食べる」
を思い出していたことを、思い出す。

あ、私、地球人ていう動物やってたんだ、食べよう。
「いただきます」

と、お味噌汁が身体に吸い込まれている感覚。
お米の一粒一粒の甘味。
お茶の香り。

あの感覚を、私は一時期、どこでどうやって忘れてたんだろう?

・・・

無音で偶然眺めた動物の映像(テレビ)というのは、
今となっては記憶が曖昧なのだけれど、
・狩るために疾走する動物
・ひたすら草を食む動物
それだけなのだけど、
食べることができなかったその時の自分に
あれほど説得力のある絵面はなかった。

「あ、そうだここ地球だった。食べなきゃ。」
みたいなね。

もちろん、そこには感謝が伴っていたのに、
いつからか、頭の中で起きているストレスを紛らわすべく、
必要としない分まで食べるようになっていた。
(今思うと作り手さんたちにも失礼なことをしてたと、反省)

そしてメンタル詰んだ頃の私を助けてくれたのは、
またしても、動物たちの映像でした。

・・・

子供の頃に見ていたテレビ番組では、
「生きるための必死の闘いです」的な演出になることが多かったような気がするけれど、それは確かにそうなんだろうけれど。

自分に必要な「分」を精一杯食べているだけで、
余計なことは何もしていない。

私は動物たちをそんなふうに、観察してしまう。
たくさんの愛とリスペクトを込めて。

自らに必要な分を、いただくことで、
必要な情報が得られる
という感覚。

不要なものを取り込むことで、
不要な情報に乗っ取られてしまう
ということ。

私は、いったん病むことでそれを学んだけれど、
最近出会う若い人たちは健やかで、
「食べる」ということが、情報の摂取であり、
生きるということは、
その情報の循環の担い手として在るだけのことだと
もう気づいて、理解していて、感心しています。

私、半世紀近く、紆余曲折してたんですけど(笑)

・・・

カラーセラピーのお仕事でも、「食」に関するお悩みは多岐に渡ります。

人の意識が、「食」への恐れや罪悪感から、
解放されますように。

食べたくない時は食べなくていいし、
料理したくなければそのままでいいし、
芸術的な料理に触れるために旅するのも素敵ですよね。

・・・

私も、心に身体に美味しい、春旅計画中です^^

ここまで読んでくださってありがとうございました。




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