転嫁の先は理由

 少し前までは、全てに責任を負っていた。自分の一挙一動、一言一句が人に影響を与えるという意識で動いていた。
 無責任な人間が嫌いだったために、自分はそうはなるまいと決めていたら、いつしか責任と自責の境界がつかなくなっていた。
 しかし、ここ最近はその異常なほど強い意識はなくなり、一定的に責任を放棄するようになった。できないものはできないし、過去の私がした発言と今の私の考え方が合うかと言われたら合うわけがない。私は毎日自分自身をアップデートしているので、昨日の私ですら、今日の私と似て非なるものなのだ。
 今は心が病むことがないぐらい元気に過ごしている。
   そんなこんなで最近、体調不良が緩和されつつある話をしようと思う。


 私は、自分自身の全てを嫌った。「全て」の範囲とは、身体的にも、顔、髪質、爪や手のおぼこさから、皮膚の質まで嫌いだったし、思考回路も自分が考えたこと全てがバツなのだ。
 己の全てが嫌いな人間は、何をしても、どんなものを見ても、自分も他人も全て「許せない」のである。でも、人間というものは、やはり生き延びたいという生存本能が働くもので、自責だけでは横たわり続けることも厳しいものになる。

 そんな自責に雁字搦めになった私がとった行動は、責任転嫁だった。そして、その転嫁した先は、理由だった。
 現状の自分と、世間一般との差を「悪」とし、その根源の理由を探るために幼少期からの記憶を辿り、当時感じたことと現状をリンクさせた。そうして導き出された、理由という名の自分を正当化するための筋書きを作り上げて、責任の分散をしていた。
 
体調不良に関しても、腸内環境が良くないからだとか、筋トレのし過ぎだからとか、体調不良を悪いものとして扱い、生活習慣だとかの解決策を練り実行するということを繰り返していた。
 しかし、そんなことをしたところで、体調不良は一向に改善されることはなかった。
 たしかに生活習慣を変えることは、やり方として間違っていないし、改善していくこと自体は良いことなのだ。
 でも、私の体調不良の根源は、そもそも体調不良を否定していたことだった。そして、その瞬間に悲鳴を上げ続ける体を無視し続け、改善の見通しばかりを考え続けた。

 私が理由を転嫁先に選んだ経緯は、人を責めてはいけないという固定観念からだった。
 理由というものであれば、事象だったり、そもそも自分の問題だったりが主になってくる。そこに人というものが登場はすれど、あくまでも登場人物に過ぎなかったり、それでもその人物を責めることになるのであれば、その人物がとった行動の理由を予測のし得る範囲でいくつも並べた。

 理由に責任転嫁をしているということに気づいてから、己の体調不良に理由を意識的につけなくなった。
 物事には必ず理由が伴っていると考えるので、もちろん体調の良し悪しにも理由が存在していると思う。
 でも、今の不調から目を背けるために理由が存在しているわけではないだろう。

 とにかく今、私の体が泣いているということ。この瞬間の悲鳴に対して感じること。胃が物を入れないでくれ、と叫んでいるのに対し、脳は胃が痛い、と感じているということ。
 理由なんていうのは、治ってから改善策を立てる時の振り返りで顔を合わせるぐらいで十分だということ。

 已まない雨などない。不調など、いつか終わる。だから、已むまではその時の感情を受け止め続ければいい。苦しいと感じる自分を責めなくてもいい。一刻も早く解決しようと躍起になる必要などない。次を考えるのは、いつかくる終わりの時でいい。

 体や感情という本能を解決するのは、自己受容をする理性なのだ。甘えたい本能に対して蜜をやる理性。そうすることで快楽を得られることに気付く理性を甘受する前意識。
 脳の賢さと馬鹿さは紙一重だ。上手く使ってけばいい。


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