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教育政策における「アクティブ・ラーニング」というタームの戦略と問題点

 猫も杓子も、という慣用表現はこういうときに使うのだろう。「アクティブ・ラーニング」の席巻である。
「対話的で深い学び」というコンセプトは共感するし、各学校での素敵な実践に僕自身も触れる機会はあるが、ここでは政策コミュニケーションタームとしての「アクティブ・ラーニング」という言葉について考えてみたい。

アクティブ・ラーニング的な実践は歴史上いくつもあった

 「learning by doing」と言ったのはジョン・デューイだったが、そんな外国の古典を持ち出さずとも、日本の学校でも「アクティブ・ラーニング」的な実践は歴史上いくつもあった。ただ、熱心な実践者たちはそれらに対して「アクティブ」なんて形容詞は必要とせず、それはひとえに「ラーニング」そのものの問題でしかなかった。「アクティブ」であることは、本来的に学習という認知・認識の活動に内包されるものだという理想をもち、それを実践で実現しようと模索してきたのである。さらに彼らは、教育と学習の非対称性(あるいは教育の無意識的な権力性)をシビアに意識しているから、一定の関係においては教育者が学習者と一体になることは到底できず、せいぜい観察者にしかなれないという限界を悟っているのだ。だから彼らの使う言葉は、「ラーニング」ですらなく、どこまでも「ティーチング」や「エデュケーション」だったりする。

「ゆとり」に学ぶアクティブ・ラーニングのコミュニケーション

 そういう背景を踏まえると、「アクティブ・ラーニング」という言葉はだいぶ陳腐なものに見えてしまうのだが、教育政策のコミュニケーションタームとしては、充分なわかりやすさをもっていたのだろう。具体的な入試改革の動きとセットで日本の教育市場に放たれたアクティブ・ラーニングという言葉は、「AL」などという略語も生みながら、破竹の勢いで広がった。
 あるいは文科省としては、「ゆとり」の二の轍を踏まない、という意識もあったかも知れない。今回改訂される学習指導要領も、「ゆとり教育」といわれた90年代末~2000年代初頭の学習指導要領も、向いている方向は変わらない。ところが「ゆとり」という言葉が教育の「内容」に意識をフォーカスさせがちな言葉なのに対して、「アクティブ・ラーニング」はあくまで教育の「方法」についてのタームである。このあたり、文科省としては「ゆとり」を、教育課程の失敗ではなくコミュニケーションの失敗と捉え、そうならないようなコミュニケーションを、それなりにがんばって考えたのかな、とも思う。それをドラスティックな(あるいはそう見える)現実の入試改革が後押しした。だから、学校現場や、それを支える世論の支持を得て、実際に教育のあり方を変えていく、という点では、「アクティブ・ラーニング」というタームによる政策コミュニケーションは、基本的には成功したのであろう。

アクティブ・ラーニングは教育の「内容」の議論を見えなくさせる

 しかし、残念ながらわかりやすさには常に罠がつきまとうもので、教育政策のコミュニケーションタームとしての「アクティブ・ラーニング」の問題のひとつは、まさに前述した点、これが教育の「方法」のタームであるということにある。これにより、自ずと「内容」の議論が見えなくなる。当初から「内容」にフォーカスさせない戦略があったとすれば尚更だろう。
 よく指摘されるように、小学校の英語やプログラミング教育、さらには毎日のように生まれている、あらゆる「〇〇教育」が、学校現場にどんどん押し寄せている。
「ゆとり」のベースにあったことは、子どもたちの主体的な学び積極的に進めるためには、国が定める「教えなきゃいけない内容」を減らさざるを得ない(もっと大事なことがある)という、きわめて現実的な認識だったのではないか。つまり、ここでは、教育内容と教育方法とがトレードオフのような関係にあり、僕たちが迫られていたのは、これからの教育を考えたときにどのリスクを選ぶのか(あるいは避けるか)、という問いだったのだ。
 一方で「アクティブ・ラーニング」というのは、そういう点での思考停止をもたらしやすい言葉である。わかったような気になる言葉、使いたくなる言葉。これはPRタームとしては大切だが、社会的議論を必要とする教育政策という営みにおいては、ネガティブに機能することもある。

アクティブ・ティーチングではないのか

 さらにもうひとつ問題点を指摘しておきたい。それは冒頭でも書いた「ラーニング」という認識にかかわることだ。「アクティブ・ラーニング」というタームに沿った実践が、冷静に考えると、「アクティブ・ティーチング」でしかない、ということは結構よく思い当たる。ティーチングがアクティブであっても、起こっているラーニングは極めてパッシブである、ということがあるのだ。逆にいえば、古典的な講義形式であっても、アクティブなラーニングが起こっていることだってある。
つまり、「アクティブ・ラーニング」というタームは、実際にはティーチングの方法の修正でしかない営みを、子どもたちの「ラーニング」の変化と同一視させてしまう問題があるのだ。子ども中心主義の系譜にある日本生活教育連盟(日生連)のような民間教育団体が、「生活学習」ではなくあくまで「生活教育」というコンセプトを唱え続けていることの意味を、もっと積極的に考えるべきであろう。

 魔法の言葉、「アクティブ・ラーニング」。学校現場では、その「魔術」を相対化しつつ、上手に対応しているのかも知れないけれど、その分、教育とコミュニケーションの関係にずっと触れてきた自分としては、こうした議論を今後もして

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