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「みんなの居場所をつくる」という矛盾


前回のnoteはこちらから


前回は、居場所という言葉について書いてみました。


”居場所”という言葉は「物理的な場所」を指す場合と、「(居場所と感じる)空間」を指す場合とがあります。そのため「”居場所”をつくる」と言っても、どちらの意味合いかで解釈が大きく変わってしまいます。なぜなら前者は、物理的な場所を設定すれば目的が達成されることに対して、後者は、そこに人の感情を集めなければいけないからです。


例えば、「子ども達の居場所をつくりたい!」という場合、物理的な”居場所”を作ることが目的であれば、単に空き地を整理すれば達成されます。

一方、「子ども達が”居場所と感じられる空間”を作りたい」という場合、単に空き地を整備するだけではなく、そこに子ども達が集まる仕組みを考え、実際に子ども達を集めなければいけません。(しかも、そこまでやっても子ども達が”居場所”と感じるかどうかはまた別の話です。)


このように、場所をつくるか空間をつくるかで、目的達成のための難易度が異なってしまいますので、注意して考えなければなりません。


ひとまずここでいう「居場所をつくる」は、「居場所と思える空間をつくる」という解釈の下、タイトルの疑問について考えてみます。

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「みんなの居場所をつくる」という言葉が矛盾する理由


なぜ「みんなの居場所をつくる」ということは矛盾しているのでしょうか。

理由は2つあります。


まず、人によって”居場所”と感じる空間は異なっているからことです。


小学生と高齢者が”居場所”だと感じる空間が同じであるはずがありません。ましてや同じ70代の高齢者でも男女によっても違いがあるはずです。個々の性格にも左右される。


大げさに言えば、人の数だけ”居場所”と感じる空間はあります
(実際はもっとありますが)

そんな個人の志向性を無視して全ての人が居場所と感じる空間を創出することはいささか無理があります。


もう一つは人がどこに集まるか、というのは偶然性に左右されるからです。

例えば、あなたが下の写真のようなオフィスを設計するとします。そうした時、「みんなが集まって話ができるよう」にとソファを置いたり、リラックスルームを配置したりするでしょう。

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しかし実際に2人が立ち話をしている場所は柱の横です。この場所は、人が集まるように設計されていませんので、当然机もなければ、ベンチすらありません。

これがもし別の2人であれば、奥の階段で立ち話をしていたかもれないし、手前の植物の前かもしれません。このように、作り手が設定する空間と実際に集まる空間はほとんどの場合異なってしまうのです。


このことは、私たちも日常的に行っています。


何でもない花壇の縁(へり)に座って缶コーヒーを飲むこともあれば、ガードレールに寄りかかって話をすることもあります。友達と待ち合わせをする場合も「マクドナルドの十字路ね(^^)」とか「ファミリーマートの前で!」という具合に、本来集まる場所でないところで集まります。


・人によって居場所と感じる空間は異なる。
・人は場所の提供者が意図していない場所に集まってしまう。


以上の2つの理由を見ると、年齢も性別も性格も異なるみんなが”居場所”と感じる空間を提供することが如何に不可能かわかります。


「じゃあ居場所と思える空間って一生つくれないじゃん」


ということなのですが、そんなことはありません。次回は多くの人が”居場所”と感じる空間の作り方について書いてみます。

書籍購入費などに使います。 みなさんのおかげでたくさんの記事が書けています。ありがとうございます。