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【往復書簡 エッセイNo.6】アレがアレでアレだった件

うららちゃん、こんにちは!

お母さんのおしゃべりが続くという前回のお話。分かります、分かります。

そのおしゃべりに、お母さんの「聞いてほしい」という気持ちを感じつつ、「ずっと聞くのは勘弁して~」という、うららちゃんの内なる想いがあふれてくる感じも本当に共感します。

「自分たちもそこに向かうのか?」

今回は、少し人ごとのような、少し理解を示したくなるような、「アレ」のお話。


実家にはなるべくこまめに立ち寄りたいと思いつつ、実際なかなかそうはいかないもの。そのため、滞在中は目いっぱいの予定を立ててこなしていくのだが、母もまた、限られた時間にできるだけの近況、お悩みごと、ちょっとしたグチを私に伝えようとする。

以前「傾聴」について少し学ぶことがあり、もともと人の話を聞くことは嫌いではないため、最初は母の言うがままに聞いては相づちを打ち、できるだけ母の心がすっきりするように心がけていた。

しかし、滞在中にできるだけのことをやろうと思うと、当然ながら時間の流れは速くなり、母の話を聞く時間の上限を考え始める。また、母の話がネガティブ・スパイラルに陥らないよう、気持ちをアゲて話を終えなければと、傾聴しながら実はいろいろ配慮をしているのだが・・。

帰省して最初に母の「おしゃべりシャワー」を浴びるのが、朝食の時。
ただぼーっとしたい朝、テレビのワイドショーから流れてくる世の中のできごとにコメントを言い始める母。「その考えは一方的かもしれないよ。本当のところは分からないじゃない。」と少し諭したくなる私。

すると「あ、話してもいいんだ!」と母にスイッチが入り、近所で起きた話、父の困ったこと、庭に見たことがない鳥がやってきたこと(これは唯一、朝にふさわしい話題!)など、相づちも途中で諦めるほどの長い、長い話が始まる。

すべてを聞き流すのはやっぱり少しかわいそうだなと思い、「ここは相づち打っておこう」「ここは少し大きなリアクションをしておこう」と試みるけれど、質問や意見をすることでまた違う話の流れが生まれるのも織り込み済みなので、とりあえず水を差すことはやめようと思っている。

しかし、どうしても毎回気になって、一度は突っ込んでおきたくなるのが、なんでもかんでも「アレ」で話すことだ。いわゆる「こそあど」言葉のうちの「あ」系の「アレ」である。「お隣の奥さんが入院してアレだったみたい。」と文章にしたら全くもって違和感があるけれど、なぜか会話だと「アレ」がスルスルと入ってきて通じてしまうのはなぜなのか?
日本語、奥深し。

でも一度気になり始めるとどうにも引っ掛かってしまい、また母の脳トレのためにも、実家に帰るたびに「また「アレ」使った。」「アレがアレでアレなわけ?」と突っ込む私。

すると母は開き直って言う。「周りの友だちたちと話す時はこれで通じるわよ。ま、お互い話半分でしか聞いてないし、おかまいなしで途中から会話に割り込んでくるし、気にもしてないから。歳とるってそういうことよ。」

無秩序で、意味がさほどなくてもいい会話。
それっていつから解禁になるのだろうか?

例えば、今私が気の置けない友人と話すとして、「アレがアレでアレでしょ?」と言われたら、きっと「え?なんのこと?」と聞き返すし、それが相手に対しても「あなたの話をちゃんと聞いてますよ」と会話をつなぐ意思を表すことにもなるのではないか。

それが、いつしかふわふわと話したいように話しておく、というスタイルに変わるとは。
今の自分には到底受け入れられないし、歳をとるからこそ、老いに抵抗するためにも話し言葉は意識して「こそあど」に逃げないようにしようと思っている。

でもいつからか、私も「アレがアレでね。」と話し始めるのだろうか。「それで通じるんだからいいじゃない。」と言うようになるのだろうか。

ちなみに「こそあど」言葉のうち「あ」系は、辞書によると「遠称」を示すようだが、単に距離の問題ではなく、「話し手と聞き手の勢力の範囲外にあること」を示すのだそう。「これ」「それ」のような的確さがなくて、正しいかも間違っているかもあまり関係なく、ふんわりとした会話には、確かに「アレ」はフィットするのかも。うわぁ、もはや究極の「癒しの会話」だったりして?!

私がピリピリしすぎなの?歳をとることにそんなに抗いなさんな、と「アレ語」で話す皆さんは思っているの?

母の「アレ語」が始まると、自問自答してしまうこの頃。
まぁいいか。
いやいや、ちゃんとしよう。
その、せめぎ合い。

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