『手を伸ばす』 第四話


 怜の右手にはビールのグラスが握られていて、グラス半分ほど残っているビールはすっかりぬるくなってしまっていた。

 緊張で汗がにじむ手は、油断すればグラスを落としてしまいそうだ。同様に、緊張によって高鳴る心臓が彼を、普段ならば考えられない速度でもって酔いの世界へと導いている。

だから、彼のグラスに注がれたビールはなかなか減らないのだった。

「どうしたの? いつも通りでいいよ」

 はにかんだ女性に、怜はぎこちない笑みでもって返答する。

 だが怜は、そう言った彼女自身が緊張していることにしっかり気が付いていた。
 怜ほどではないにせよ、多くの女性より幾分かお酒に強い結菜が、一杯のチャイナブルーで頬を紅潮させている。初めてのデートだ。お互いにそれが仕方ないことだという事は、暗黙のうちに了解していた。

「今日は、楽しかった? 僕はその、水族館とか実は初めてでさ。あんなに圧倒されるものなんだね」

「楽しかった! わたしも、友達とは行ったことがあったけれど、その……彼氏、と行くのは初めてだったから。とても、楽しかった……それに、幸せだったよ」

 余計に顔を赤くして、結菜が恥ずかしさに俯いた。つられて怜も赤面して、同じように俯く。

 数秒の間、沈黙が二人の間に静かに満ちていったが、それは居心地の悪いものではなかった。

 何か言わなくては。

 そう思った怜が口を開きかけた瞬間、堪え切れなかった、というようにして結菜が小さく笑った。

「まるで中学生みたいだね、わたしたち」

「確かに。とてもじゃないが、お互いに二十一歳とは思えないな」

 でも、それがいいんだ。
 そういうところを好きになったんだ。
 怜はそう口にしたいのを堪えて、静かに目を閉じた。

 付き合う決断を下すまでには、様々なことを考えた。しかし、やはり付き合ってよかったと思う。過去は所詮、過去に過ぎないのだ。いくら現在に手を伸ばしているように見えていても、過去が現在に触れることはできない。

 僕は、これでよかったのだ。

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