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記憶とシーンの欠落が意味するもの〜宇佐見りん『くるまの娘』を読んで〜

(3〜4分で読むことが可能です。)


……かんこは濁った声をあげながら運転席の背もたれを蹴り上げた。また電線に日が集まった。蹴り上げるとき、一瞬背もたれが人型に見えた。踵はちょうどその鳩尾あたりを蹴った。背に衝撃を受けた父が前のめりになり、急ブレーキをかける。誰もが静まった。いやな沈黙だった。父は無言でドアをあけた。察した母がやめてよと低く言った。やめてよ、やめなよ、と声を大きくした。父の息が濃くかかった。腕をゆすりあげられ、父の握りこんだこぶしが白くなっているのが見えた。(中略)
 だからといって、と思う。だからといって、だからといって……。その先は続かなかった。どれだけ考えても、わからなかった。かんこは泣き疲れた。背中の揺れは深い波のようになり、かんこは眠りかけた。

宇佐見りん『くるまの娘』P120〜121

宇佐見りん『くるまの娘』は、登場人物たちの「記憶」と、描かれた「シーン」の欠落の関係性に焦点を当てて読むことで、作者が描こうとしたであろうものの一部が、より鮮明に浮かび上がります。
今回はそのことについて、簡単に書いていこうと思います。


1.「くるま」で旅するぎこちない家族


ーー17歳のかんこたち一家は、久しぶりの車中泊の旅をする。思い出の景色が、家族のままならなさの根源にあるものを引きずりだす。50万部突破の『推し、燃ゆ』に続く奇跡とも呼ぶべき傑作。

河出書房新社HP

まずはざっと、物語の内容確認から行っていきたいと思います。
今作はタイトルにも記載がある通り、「くるま」が1つの重要なモチーフとして扱われています。
その事実を代表する思い出として、主人公である高校生「かんこ」とその家族は、旅行先で車中泊をしていたことも多くありました。

しかし、旅行をするなど幸せだった家族の姿は今は遠く、「かんこ」とその家族は多くの問題を抱えています。
いくつか例をあげると、まずはお母さんの病気。「かんこ」の母は、病気により最近あった出来事をよく忘れてしまいます。そしてこの病気のことが、父親から「家族を壊した」原因であると指摘されることもあります。
次に家族の分離です。父親の暴力や、母親の飲酒、病気による記憶の喪失とあいまって、「かんこ」の兄と弟は、家を出てしまいます。特に兄は結婚をして自分の家庭を持っており、もう実家に帰ることはないとまで言い切っています。
大きくこのような2つの問題を抱える「かんこ」とその家族が、「かんこ」の祖母の死をきっかけに、再び集まる、車で旅をするというのが、本作の大まかなスーリーです。


2.欠落した2つのものが繋ぐ物語の強固な軸


家族という関係が、必ずしも心安らぐものではない。だけど、そうはいってもやっぱり家族であることを否定できない。
そんな人間の心の弱さと優しさを描いたこの作品ですが、特筆すべき点の1つは、ズバリ「記憶の欠落」です。

どんな欠落かといえば、次のようなものが分かりやすいでしょう。

 また何かが起きた。だがすべてが終わってしまうと、なぜそれが起こったのか正確にたどれる者はいなかった。いつも話は食い違い、食い違う徒労感で、最後には皆だまった。そして誰々が悪い誰々のせいだとそれぞれに別のことを記憶して、眠るまで過ごした。そしてそれぞれに怒りを、かなしみを、腹にためて泣き寝入りするせいで、腹のなかで何年も熟成してしまう。(中略)家の人間はそれぞれ、傷ついた具体的なせりふを、出来事を、狸のように覚えていて責めたてたり、自分の記憶と他人の記憶をまじらせないように必死で守ったりした。自分の記憶を守るためには、家を出るしかない。審判もお天道様も見ていない家という場所を一番先に出たのが兄だった。二番めに出たのは弟だった。

宇佐見りん『くるまの娘』P78〜79

 敷布団にふれていた背中が心もとなかった。うまくのみこめないまま、先ほどの弟の話が頭のなかで繰り返されていた。なぜそんなことを言ったのだろうと思った。それだけのことを言っておいてなぜ傷つけた記憶として残っていないのだろう。重くとらえきれない自分にぞっとした。かんこにとってそれは口論のなかのひとつの言葉でしかなかった。そして弟は傷ついた顔もせず、何かしら言い返したのだと思う。そういった出来事はないものとして扱われやすく、実際先ほどまでその言葉は、かんこの記憶のなかで大した意味を持って残っていなかった。

宇佐見りん『くるまの娘』P88〜89

このように、作品の中で主人公の「かんこ」は明確に、自身の、そして家族の記憶にそれぞれ欠落があることを示しています。
恐らく、指摘されれば誰もが身に覚えのあることではないでしょうか。

自分の記憶と誰かの記憶に齟齬がある。これは何も、この作品に特別なことではありません。

ならば何故、このような記憶の欠落が特筆すべき点なのか。
それは、次のようなシーンに象徴されています。

……かんこは濁った声をあげながら運転席の背もたれを蹴り上げた。また電線に日が集まった。蹴り上げるとき、一瞬背もたれが人型に見えた。踵はちょうどその鳩尾あたりを蹴った。背に衝撃を受けた父が前のめりになり、急ブレーキをかける。誰もが静まった。いやな沈黙だった。父は無言でドアをあけた。察した母がやめてよと低く言った。やめてよ、やめなよ、と声を大きくした。父の息が濃くかかった。腕をゆすりあげられ、父の握りこんだこぶしが白くなっているのが見えた。(中略)
 だからといって、と思う。だからといって、だからといって……。その先は続かなかった。どれだけ考えても、わからなかった。かんこは泣き疲れた。背中の揺れは深い波のようになり、かんこは眠りかけた。

宇佐見りん『くるまの娘』P120〜121


「かんこ」たち兄弟は、父親から厳しい躾け(とは聞こえがいいものの、それは明確にDVと呼ばれるものです)を受けていました。
そしてこのことを苦に(また自身の記憶を守るために)、兄と弟は家を出ているということが書かれています。

しかし「かんこ」だけは父のそのような躾けを美しい思い出として記憶している。
兄と弟、そして「かんこ」の記憶の間にあるこの差異はなんなのか。

そのことを考えた時に重要となるのが、このシーンにおける「欠落」です。
「かんこ」は明らかに、父親の暴力をなかったことにしている。少なくとも、その暴力を自身の言葉で語ろうとしていない

このことには非常に重要な意味があるのではないでしょうか。
直接的に描かれていない、寧ろ「描かれなかった」ことにこそ意味があります。

「かんこ」たち家族は疑いようもなく、父親の暴力が1つの原因で離散している。それにもかかわらず、父親の暴力が「いま正に」振われようとした瞬間、急に「かんこ」の語りが閉ざされてしまう
このようなことが、意味もなく起こるはずがありません。

「かんこ」は本当に、父親と勉強していた頃のことを、良い思い出として「記憶」しているのか。それは本当は、「なかったことにしている」だけなのではないか。だからこそ「かんこ」は、今も幸せな家族の虚像だけを見つめ、しがみついているのではないか……。


このように考えたとき、この作品にはまだまだ読むべき、「描かれなかっただけで、本来描かれるべき」シーンが沢山あります

是非このような、「かんこ」によって消し去られた。或いは「かんこ」の家族によって消し去られたシーンを探してみることはいかがでしょうか。

勿論、「描かれなかったシーン」を探すことは、根拠もなく「かんこ」たちの人生を妄想することではありません
あくまでも描かれたことから、描かれるべきにもかかわらず描かれなかったことを探すことです。

このことに着目すれば、本作『くるまの娘』をさらに楽しむことができるのではないでしょうか。

宇佐見りん『くるまの娘』

最後までお読みいただき、ありがとうございました。
面白いと思っていただけたら幸いです。
またこの作品がどう読めるのか知りたい、というご要望がありましたら是非コメントをください!
感想や要望、お待ちしております。

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