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遠景(短編小説)


 走り出したと同時に景色がなめらかに背後へと流れていく。目に映る景色は全て、学生時代に見たときと変わりないように見えた。
 車内販売を引き止めて、ビールをひと缶購入する。プルタブを引き上げると心地よい音がして、まるで旅行でもしているような気持ちを僕に与えた。

 流れる景色が遮音壁によって隠される。隠されてみると、物理的にも記憶としても距離が生まれて、それまで見ていた景色がどんなものだったかもう分からなくなる。
 そういうことを感じたくて衝動的に乗り込んだ新幹線だった。

 ボストンバッグ1つ分の荷物だけを持って、会社に連絡をしたのも当日の朝だった。自分がこうも突発的な行動を起こすなんてことが、我ながら信じられない。

 だが、これが確かに必要なことであるという確信だけは確かにあった。

 東京の街は、妙に立体的だったりする。急勾配の丘に何軒もの家が立っていて、家々の合間を、細い石造りの階段が走っている。遠くから眺めるそれらの街の景色は、いつも僕に、映画に出てくる街を思い起こさせた。
 何らかの使命や、問題を抱えた主人公がいる街。物語がある街。そういう街が、東京だと信じて疑わなかった。

 こうして眺めていると、住んでみたいと思う街がたくさんある。だけど、近くで見ると存外、どの街も似たようなものなのだ。
 スーパーがあって、コンビニがあって、薬局があって、整骨院がある。チェーンの居酒屋に1,000円カット。どの街に行っても、ほとんど変わりはなかった。

 どの街にも共通しているお店、人。そしてまた、遠くから見ている限り、魅力的であること。遠くからしか魅力を感じられないならば、どうやって僕は自分が住むべき街を見つければ良いのだろうか。

「社会人になってもう1年経つし、よかったら、そろそろ同棲とか、してみない?」

 付き合って4年になる彼女からそう言われたのは、映画を観た帰りの電車の中でのことだった。無意識に力が込められた両の手に、彼女がこのタイミングでそれを口にするまでの逡巡が浮かんでいる。

「同棲って、一緒の部屋に住む同棲?」

 分かっていて、僕はそう返した。正解が分からなかったのだ。街は段々と夜の闇に包まれつつあって、青い闇に包まれたビル達が、電車の速度に合わせて背後に走り去っていく。
 彼女は小さく、しかし確かに頷いた。

「……確かに、付き合ってからもう長いもんなあ」

 僕の言葉に、彼女は瞼をピクリと動かして反応した。そういう小さくとも確かに存在する彼女の反応は、普段であれば僕が写真に撮りたいと思う、彼女の好きなポイントだった。

 だけど、今は、どうしてかそれを素直に喜べない。

 彼女のことが好きじゃないのか?

 自問するが、そうではない、という答えがすぐに返ってくる。そう、好きでないわけではないのだ。
 だけど、同棲、という単語に何か引っ掛かりを覚えている。分からない。

 結局その後は、観てきたばかりの映画の話に終始してしまった。幸いにして、良いできの映画だった。あのカメラワークは、僕には絶対真似ができない。あの監督だからこそ実現できた、彼独自の視線がそこに表現されていた。

 カメラはいつでも、撮影する人の見ている世界を忠実に再現して見せる。
 僕は、写真や映画を通して、他者の視線を介した世界を見ることが好きだった。そこに理由はあるのだろうけれど、可能な限り、その理由は言語化しないようにしている。

 彼女の降りる駅よりも、僕の降りる駅の方が近い。扉が開いてホームに降り立つ。同棲、という言葉が改めて脳裏をよぎった。
 閉まる扉越しに彼女を見つめる。彼女も僕を見つめていた。走り出した電車に向かって手を振る。彼女は、ずっとこちらを見つめていた。
 その瞳に、僕は手をふり返すことしかできない。



「それで、この田舎から君に見える東京は、或いは、東京から来てみて今の君に見えるこの田舎は、どんな街なんだ?」
「……それがすぐに分かれば、苦労はないですよ」

 映画サークルの会長をしていた藤本先輩は、大学時代と変わらない丸眼鏡をかけていた。
 見知らぬ駅に降り立って見つけた丸眼鏡に安心するという経験は、今後もう起こり得ないであろうと断言できる。

「しかし、遠くから眺めるーーそれが君の目的なんだろう?」

 しらすとチーズ、それに鰹節が乗ったピザを頬張りながら、藤本先輩はそう口にする。空になった先輩のお猪口に、僕は日本酒を注ぎ足した。

「バーで日本酒が飲めるというのは、東北ならではですね」
「そうでもないさ。東京にだって、そういうお店が探せばあるものだ。
 ……相変わらず君は、表層的に見えるものだけで判断してばかりらしい」

 日本酒は美味しかった。ピザとの組み合わせも案外悪くない。久々に吸う煙草も美味しくて、いつも彼女を咎めていたことが、少しだけ馬鹿らしくなってくる。

「いつまでいるんだ?」

 聞かれて、答えに窮する。会社には具体的なことを何も伝えていなかったし、彼女にはそもそも、こうして遠出することすら、何も伝えていなかった。

「……同棲しようと、言われたんです。彼女のことは好きだけれど、何だか、何か引っかかって。
 それで、ふと先輩のことを思い出したんです」
「俺は東北の家に婿に来た変わり者だからな」

 自嘲的な笑みに、「そうじゃないですよ」と笑って返す。先輩のその言葉が冗談であることは、しっかりと理解していた。
 日本酒を勧められて、お猪口に注がれた分を一息に飲み干す。久々の日本酒に、少しだけ酔いが回るのを感じる。

「しかし、君が迷うのは、珍しいな」

 ウイスキーのボトルが並べられた正面の壁を見つめながら、先輩はそう口にした。日本酒は減っていない。火を点けたまま灰皿に置かれている煙草も、もう3分の1も残っていなかった。

「距離が、難しいんです」

 日本酒の入ったお猪口を持ったまま、先輩の視線がこちらに向けられる。

「近すぎると僕の……しょうもなさがバレちゃうようで、怖いのかもしれません」
「怖い?」
「はい。怖い、ということだと思います」

 藤本先輩は、自他ともに認める映画フリークだ。大学時代にはよく、映画の名台詞を引用して、後輩たちの相談に応えていた。

「何が怖いか、考えたほうがいいかもしれないなあ」

 酒を飲み干して、先輩はそう言った。何の映画のセリフだろう、と考えるが、思い当たるようなものはない。

「映画の台詞じゃないぞ。それは今、君に必要なものじゃない。それこそ、距離があるからな。しっかりと自分の、地に足をつけた言葉で考えるんだ。
 それに、君自身気がついていることだが、君はまだ問題の核心を直視しないようにしている」

 「得たいと願うものが、常に得られる訳じゃないということだ」と先輩は付け足して、新しい煙草を取り出し火を点けた。
 僕は徳利を手に取り、お猪口に注ぎ直す。日本酒は、香り高くも水のように飲みやすかった。だからだろうか。いつもよりも杯が進む。気がつけば徳利の中にはもう入っていなかった。追加を頼もうとした僕を制して、先輩がお会計を頼む。

 立ち上がると、地面が溶けたように柔らかいものに感じられた。酔っ払うという感覚を、久々に感じている。
 言われたばかりだというのに、お酒はどうにも、地面から僕を遠ざけるらしい。

 先輩の後について、夏の蒸し暑い街に出ると、東京とそれほど変わらない、繁華街の酒臭い空気が僕を待っていた。


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