より深く、より鮮やかに小説を楽しみたい方に向けた書評を投稿していきます。
(2分程度で読むことが可能です。)
こんばんは。小説を書いている齋藤迅です。
Twitter上ではつぶやいていたのですが、noteのフォロワーさんが800人を超えました🎉
フォローしていただいている皆様、本当にありがとうございます!
たくさんの方にフォローしていただいているにもかかわらず、最近はあまり投稿ができていません。
折角フォローしていただいなら、楽しんでいただきたい。そう思い、改めて継続的な投稿を行っていこうかと考えています。
何を投稿しようか。やはり小説を書こうか。
そのように考えていましたが、ひとまずは、これまでの僕の投稿の中で特に多くの方が読んでくださっている、書評系コンテンツを継続して公開していこうと思います。
投稿におけるテーマは「小説を深く楽しみたい、初学者向けの書評」です。
どういうことだ、と思われる方もいらっしゃると思いますので、今回は少しだけ、今後の投稿方針について、書かせていただきます。
簡単に書いてしまえば、僕が普段、自身の趣味及び執筆活動の成長のために学んでいる、「学問としての」文学・言語学研究の視点などを活用した書評です。
「小説」というコンテンツは、とても興味深い環境に置かれています。
というのも、作者である「作家」はある種の知識人・文化人として扱われているにもかかわらず、そんな文化人が書いた小説は、誰もが簡単に読むことのできるものとして考えられているからです。
この状況が特殊であること確かめるためには、絵画を思い浮かべるとわかりやすいかもしれません。
絵画の作者である「アーティスト」たちも、小説の作者である「作家」同様、文化人としてみなされる傾向があります。
(例えば「小説家」も「画家」(アーティスト)も、Wikipedia記載の「文化人」項目の中では、「一般に文化人とされる職業の例」の1つとして紹介されています。)
上述の点では小説と絵画には差がありません。
しかしながら、こと作品を鑑賞する場面になった時、「絵画」がある種の教養が求められるもの、パッと見てもどこに価値があるのか判断が難しいものとして語られる傾向があるのに対し、「小説」は誰もが理解し、評価できるものとして語られます。(ピカソの絵などを思い浮かべると、分かりやすいかもしれません。)
このような扱いの差が生まれる理由の一つには、「小説」が我々が普段使っている日本語を素材、ないしは道具として作品を作っているから、というものが考えられるかもしれません。
我々が普段なにげなく使っている日本語を使っているんだもの、皆んな誰とだって普通に会話ができているんだもの、同じ日本語で書かれた小説だって、理解できないわけがない!
そう考えることは、ある意味では自然な流れであると考えられそうです。
でも、本当に誰もが何の前提知識もなく、「小説」を理解し、評価することができるのでしょうか。
我々が読んだ小説は、本当に我々に見えている部分で全てなのでしょうか。
もちろん、そんなわけがない。小説だって、きちんと学べばもっと楽しめるし、より正確な評価ができるんだ。というのが僕の考えです。
このことは当然ながら、小説がエンタメ的に面白いこと、小説のエンタメ的な要素が好きなことを否定する意味を持ってはいません。
ただ、YouTubeやNetflixなど、コンテンツがたくさんあるこの現代において、わざわざ読むのに苦労する(時間がかかる)小説を読むならば、もっと楽しむ方法があるんだぜ、というのが、これから書いていく文章の本旨です。
過去の投稿でも、そのような視点から書かせていただいたものがあります。
辻村深月さんの『スロウハイツの神様』では、あんまり主人公っぽくない人にフォーカスした語りが繰り広げられます。
「何で、この人のことばかり書くのだろう?」
そのように考えた時、この作品の最も大きな仕掛けの1つが明らかになるということを書いた投稿です。
上記のように例を挙げると次のような着眼点が、少なくとも小説を読むという行為をより豊かなものにしてくれます。
書き始めればキリがないし、状況に応じて読み方は変化します。
だから正直、僕自身もそういう読み方ができるようになったのは、またそれを楽しいと思えるようになるまでは時間がかかりました。
しかしこれは、何か1つのコンテンツで覚えれば、例えば小説でそれができるようになれば、映画や漫画、ドラマなんかにも応用が効きます。
なので是非、僕の「小説を深く楽しみたい、初学者向けの書評」を読んだ人が、折角の読書をより楽しめるようになっていただけたら嬉しいです。
本日は早速、話題の作品『くるまの娘』について書いていきますので、そちらも是非ご覧ください。
お読みいただきありがとうございました。
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