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花を飾る(短編小説)

「いまどき珍しいですね」

 曖昧な笑顔を返しながら、取ってつけたように「好きなんですよ。ほら、家にあると、なんだか嬉しいでしょ」と答えた。
 投げかけられた言葉通り、僕の他にはスーツ姿の若い男は店内に見当たらない。スーツ姿の男性もいるにはいたが、奥さんへのプレゼントを買っているらしい、五十代も半ばの男性が一人だけだった。

「是非、SNSなんかに投稿してください。お兄さんみたいな若い方が買ってくれるのが、一番の宣伝ですから」

 店員の女性は、悪びれる様子もなくそう言った。「それも良いかもしれないですね」と言ったのかどうか、よく覚えていない。もう半年近くも通っているのに、この店員はほとんど毎回、こんなことを僕に言い続けている。
 駅の雑踏の中にあるこの花屋は、店の外を歩く大勢の黒いスーツ姿の人々とは対照的に、様々な花の香りと色とが混じり合って目にも鮮やかだった。ただ、日常生活であまり目にすることのない色の奔流はまるで、その場所に似つかわしくない自分自身の姿をこそ、鮮明にしているように思えた。


 仕事帰りだから、身体は疲労を抱えていた。家に帰ってご飯を作るのも億劫で、どこか適当な居酒屋で酒でも飲んで帰ろうかと考える。しかし、抱えている花が目に入って、僕はそれを諦めざるを得なかった。花は案外高い。五ヶ月前、花瓶じゃなくて、一輪挿しを買うべきだったかもしれない、と考えたが、後の祭りである。それに、いまさら買い換えるのも億劫だった。
 スマートフォンを取り出して、二十分ほどの差で先に帰っているらしい恋人に「花を買った」と連絡する。すぐに既読がついて、「本当に好きだね」「楽しみにしている」と連続して返信があった。
 だが僕は別に、花が好きなわけではない。

 家に帰ると、一週間前に購入した花を恋人がゴミ袋に捨てていた。毎日花瓶の水を替えていたが、花というものは存外枯れるのが早い。千五百円程度の価格と一週間という期間が、果たして釣り合うものかどうかも僕には分からなかった。
 新しい花を花瓶に移して、新しく水を張る。と同時に、花屋で貰った栄養剤を、花瓶のすぐ傍に置いた小さな籠の中に放った。購入のたびに貰う栄養剤は、いつの間にか二十個近くもたまっている。栄養剤は一度も与えたことがなかった。袋一つで一回分であれば使う気になったものを、どうして少し多めに入っているのだろうかと花の水を替えるたびに思ってしまう。
 今日買った花は、アイリスという濃い青色のものと、ユキヤナギという白っぽいものの二種類を中心に揃えてもらった。特にこれといって特徴のない家具で揃えられた部屋の中で、花だけが特別な存在であるかのように、窓際に立っている。こうして新たな花を花瓶に移す瞬間、そしてまた毎朝の水を取り替える瞬間だけ、僕は花を買ったことの意味を強く感じられる。
 写真を撮って、SNSに投稿することなどはしていなかった。花言葉を調べたこともほとんどない。ただ、周囲の人にも見えるように腕に抱えて持って帰ってくること、友人や会社の同僚と話すふとした瞬間に、花を買っていることを話すこと。それだけで十分だし、それ以上のことをすると、なんだかワザとらしくて良くないように思っていた。


――残業で遅くなります。終電近くなるかも。ご飯先に食べててね。

 スマートフォンをポケットにしまう。年末から年度末にかけては、毎年忙しい日が続く。今年こそは業務量を調整しよう、と年度始めは意気込むものだが、結局毎年同じようにこの時期は残業ばかりしている。疲労はあるが、それすらもう慣れ始めていた。
 会社のために残業などするはずがなかろうと考えていた学生時代が懐かしい。僕ももう、立派な社会人になっていた。あの頃の僕がいまの僕を見たとして、数多いる世のおじさんたちと、もう区別もつかないだろう。

 ウーバーイーツで牛丼を注文して、牛丼が来たら休憩をしようと決めてまたパソコンの画面を睨みつける。
 あと二時間はかかるだろうか。でも、僕が二時間かかると思うときは大抵、三時間はかかる。ということは大体三時間半もあれば帰れるだろう。そう予想を立てながら、一つひとつ、送られてきたメールを読みながら、事業に関連する資料を読み解いていく。読み解いた資料の情報をもとにして、新たに資料を作っていく。なくなったとしても誰も困らない仕事。こんなこと、どうしてする必要があるのかと思うが、それくらいしか僕にできることはないから仕方がない。
 クリックをする音がやけに耳についた。カチ、カチ、と音が鳴るたびに、何か自分の中に蓄積していくのが分かった。オフィスにはほとんど白と黒しかない。デスクの白色、床に敷き詰められたタイル、電源が切られて沈黙を守るパソコン画面の黒。唯一光を放つ僕のパソコンも、細かい文字が書かれた白黒の資料を写すのみだった。

 時間になったのでオフィスの外に出ると、ウーバーイーツの配達員が、既に僕のことを探して待っていた。軽くお詫びを口にしながら、商品を受け取る。三八〇円の牛丼を、割増の価格で購入する。本当は自分で買いに行くべきだが、店が混んでいて時間がかかってしまえば、終電までに仕事が終わらない可能性も出てくる。
 牛丼屋の混雑具合はなかなか予想しづらいから嫌いだ。妙な時間にやけに人が集まっていたりする。そしてそういう時、客の大半は大学生だ。大学生を見るとその姿に当時の自分を重ねてしまい、彼ら彼女らから僕がどう見えているのか、そう考えてしまうから尚のこと嫌になる。
 シンプルな牛丼を食べながらSNSを開くと、学生時代の友人が海外での生活を投稿していた。美しい景色に、美しい美術作品。そしてそれらについて語ることができる友人の知識。広いオフィスの一角を除いて照明を消してしまったオフィスにおいて、その投稿は眩しく映った。
 いや、投稿だけではないかもしれない。彼は二十代後半に差し掛かった今でもまだ、定職に就いていない。自分の目標のために、ああやって海外に出向いたり、何かよく分からない人々と交流したりしている。一日中、本を読んでいるだけの日もあると話しているのも聞いた。そういう生き方は、社会のレールの上に立つ人々からは眩しく見えることが多いし、多くの人々に影響を与えたりするだろう。
 そしてそんな状況の――まだ仕事をしたことがない彼は多分、それでも僕よりも仕事ができるだろうと思う。仕事というものにはその人の性質のようなものが色濃く反映されてしまうからだ。僕の面倒くさがりで何にも興味がない、そういう性格は仕事を進める上で、そしてその成果に、如実に現われていると分かっていた。彼ならばきっと、明日からいまの僕がやっている仕事を、僕よりもずっと上手くやってみせるはずだ。無論、彼のような人間が誰にでもできるいまの僕の仕事をやるとは到底思えなかったが。
 投稿に「いいね」を押すこともできないまま、牛丼を食べていた箸を力任せに二つに折り、中途半端に食べた牛丼を、ウーバーイーツの配達員が持ってきたときのレジ袋に突っ込んで捨てた。厳重に厳重に口を縛り上げたというのに、デスク下のゴミ箱からは、牛丼の香りが漂ってきている。
 友人の投稿は一輪の花の写真と、その花に対するコメントで締め括られていた。本当に花を好きな人がどんな人であるのかを突きつけられたようで、僕は昨日購入したばかりのアイリスとユキヤナギが、急速に自身の中で色褪せていくのを感じる。
 仕事を終わらせなければならないと思ったが、目の前の仕事がさっきまでよりも難しいものであるかのように映った。時間をかけたからといって、評価をされるわけでもない。残業代だって、申請できる時間に限りがある。
 だから本当は残業なんてしたくない。残業なんてしないで早く帰って、彼のように、自分にしかできない何かを――そうまでは言わなくても、自分が好きなもののために、人生の時間を費やしたい。でも、僕には時間をかける以外に、その仕事を終わらせるための方法が何一つとして思い浮かびはしない。


「お水やっておいたよ」

 「ありがとう」「よかったのに」「珍しいね」といくつかの言葉が頭に浮かんで、しかし僕は何も言えずにいた。恋人は、彼女にしては珍しくご飯を作っていたようであった。

「良い匂いするね」

 笑顔を彼女に向けながら、テーブルに並んだ食事に目を向ける。彼女が夕食を作るのは、今年度2回目くらいだっただろうか。今日は少し焦げたハンバーグとシチューだった。

「仕事終わりにこんなに……。疲れてない?」

「たまにしか作らないから、ちょっと頑張っちゃった。それに、いつも花を買ってきてくれるでしょ? 折角お花があるんだったら、少しくらい丁寧に暮らしても良いんじゃないかなって」

「……そっか」

 笑顔を浮かべた彼女に「ちょうどお腹減ってて、嬉しいよ」と声をかけた。ゴミ箱に捨てた牛丼を思い出す。お腹は減っていなかったが、彼女が僕のためにご飯を作ってくれていた、というその事実が嬉しかった。
 久しぶりに、彼女の手料理を食べる。普段は家事をやらない彼女が作ってくれたという事実と彼女の言葉が、ハンバーグの肉汁とともに染み出すようだった。

「お花、今度私も一緒に選びに行きたいな。
 いつもどうやって選んでるの?」

「花なんて詳しくないからな……いつもなんとなく見た目で選ぶか、店員さんに勧めてもらうままに、って感じだよ」

「そうなの? いつも買ってきてくれる花の話を詳しくしてくれるから、元々好きで、詳しいんだと思ってた」

 驚いて食事の手が止まる。僕が花をなんのために買っているかということ、そもそも花なんて別に好きでもなんでもないということは、彼女にも伝わっていると信じ切っていた。
 テーブルを挟んで彼女が首を傾げる。彼女の目は、その言葉に特別の他意が込められていないことを表していた。

 立ち上がって、窓際に置かれた花のもとに歩み寄る。花びらに触れると、買ってまだ二日目の花は、瑞々しく柔らかかった。僕はもう半年も経つというのに、買ってきた花の花弁に触れるのが初めてであったと気が付く。

「水、換えてくれてありがとう」

 ハンバーグを口に含んだ彼女が「どういたしまして」と嬉しそうに口にする。折角だからと思い、花瓶を食卓からよく見える場所に飾りなおした。考えてみればいつも、買ってくるだけ買ってきて、日当たりはいいがダイニングテーブルやソファから見えにくい場所に花を置き続けていた。

「今度から、家にいない平日の日中以外、よく見える位置に飾ろうか。じゃないと、折角買ってきてるのにもったいないよな」

「何かこだわりがあったわけじゃないの?」

 彼女が驚いたように、もともと花を置いていた場所を指さした。彼女から見えている自分の姿が少しだけ見えたような気がして、急に嬉しさが込み上げてくる。

「買ってきたはいいけど、飾る場所を考えるのが面倒だったんだ。そういうセンスもないしさ。だから日当たりだけ考えて置いていたんだけど、今度から一緒に考えてよ」

 ダイニングテーブルに戻って、ハンバーグとシチューの続きを食べ始める。少し焦げた部分が、逆に美味しいと思える。
 いま飾っている花も、あと一週間もしないうちに枯れてしまうだろう。だから、そうなってしまったら今度は彼女と買いに行こうと考えていた。そうすると、いつもなんとなく訪れていた駅の花屋が、急に素敵な場所だったように思えてくる。
 彼女はどんな花を選ぶだろうか。センスのない僕とは違って、きっとこの部屋によく合う花を選ぶに違いない。それに、もしかしたら記憶力も要領も悪い僕とは違って、店員さんに選んでもらわなくても自分で花の組み合わせを考え始めるかもしれない。
 まだ実現していないはずの未来が、まるでさっき体験した出来事のように鮮明に浮かび上がってくる。

 彼女が選んだ花を、僕はこの部屋に飾って毎日水を替えようと思った。
 ご飯を食べ終えてSNSを開くと、オフィスで開いていたときのページのまま、友人が訪れている海外の美しい場所、一輪の花の写真が表示された。僕はその投稿に「いいね」を押して、そのままSNSを閉じた。


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