『手を伸ばす』第三話


「昼からっていうのも、たまにはいいだろう?」

 そう言ってビールの入ったグラスを傾ける旧友、東稜平を見つめながら、怜は自身のビールグラスを見つめた。


 周囲には彼らと同じようにしてまだ日が傾き始めたばかりの十五時だというのに酒を傾ける人々が大勢いる。
 都内に来たのは久々のことであったが、その店は千葉駅にもあるものだということを、怜は知っていた。

「こういう場合の相談事っていうのは、答えが出ていると相場は決まっているものだけど、どうなの?」

 右手にビールのグラスを持ったまま、舐めるような視線を這わせて稜平がニヤリと笑う。怜と稜平は長い付き合いではあったものの、こういう下世話なところはいつまで経っても慣れるものではなかった。

「決まっていたら、わざわざ恥をかいてまでこんなこと相談に来ないさ……と言いたいところだけれど、どうだろうね」

 その言葉を言われるのが二度目であることを思い浮かべながら、怜はそう答えた。

「そうだろうなぁ。怜、お前の相談はいつでもそういうもんさ。俺はもう慣れっこだよ。さて、問題はお前がどちらに背を押して欲しいのか、ということだ」

 もう一度ビールのグラスを傾けると、稜平の持つグラスの中のビールが一滴残らずなくなった。好き好んで早いペースで飲んでいる割に、稜平の頬は既に赤い。

「ちょっと」

 と言って席を立つと、稜平は新しい酒を注文しにカウンターへと歩いた。

 イギリスパブ風のこの店が、実は怜は得意ではなかった。彼と稜平は田舎の出身で、高校までは彼も人並みかそれ以上に都会への憧れを持っていた。
 都会での生活は、華やかで飽きることなく、どこまでも清らかな幸福に満ちていると、怜はそう信じていたのだ。

 しかし――。

 大きな笑い声の方向に視線を向けると、稜平が見知らぬ女性二人と話していた。

 知り合いかと初めは思った怜だったが、聞き耳を立てているとどうにもそうではないらしいと判断する。
 だが、稜平はまるでその二人の女性と十年来の知己であるかのように、彼女らの背に手を回し、乾杯をし、時にはハイタッチしたりしていた。

「怜、こちら、結花ちゃんと里穂ちゃん。二人とも、こいつは俺の高校時代の友人で怜っていうんだ。話下手だけど構ってやって」

「知り合い、じゃないよな?」

「何を。もう知り合いさ。名前は知っているし、乾杯もした。これ以上何があれば知り合いだっていうんだ?」

 「ねぇ?」と二人の肩に手を回しながら首を傾ける稜平に、二人は楽しそうに笑っている。怜とは正反対の人種であることは、一目瞭然であった。

 そもそも、怜と稜平の二人が全く別のタイプの人間なのだ。

「稜平、君は相変わらずだな」

「相変わらずって?」

 と里穂から尋ねられた稜平が、手元のロックグラスを一気に傾けた。

「酒が好きでね。よく酔っぱらっちゃうんだ。ほら、こうやって手が滑っちゃって」

 稜平が里穂の頬にキスをして、彼女を連れたままカウンターへと歩いていく。残された結花は、怜のことを品定めするように机の下のつま先から軽くワックスをつけただけの頭の先までゆっくりと眺めた。

「稜平君と違ってなんだか頭がよさそう」

「そいつはどうも。でも、高校二年まではあいつの方が頭がよかったよ。遊び始めてからさ。俺の方の成績が良くなったのは」

「ふーん。怜君は、大学生? あ、待ってね、当てるから、わたし」

 左手の人差し指を額に当ててそれらしい考えるポーズをとる結花。肩の上でさっぱりと切り揃えられた黒い髪が、怜に結菜を思い出させた。
 大きく違うのは、彼女の指先にある額が、前髪を流していることによって明らかになっていることだろう。

 結菜は額が出るのを酷く嫌がっていたはずだ。

 一瞬、怜の思考が千葉の街に飛ぶ。

「明大!」

「残念、都内じゃないよ。それに、私立でもない」

「えー! ここら辺じゃなくて国立って、相当頭良くない? わたし、こう見えても明大の生徒なんだけど、同じくらいかと思ってた」

 楽しそうに笑う結花の持つグラスには青白い液体が満ちている。チャイナブルー。ライチにグレープフルーツ、それにブルーキュラソーを使ったカクテルだったと、怜が思考の隅で考えた。

「ね、里穂、怜君国立大学の学生なんだって。どこ大だと思う?」

「あぁ、怜は――」

「ちょっと、大学行ってない人は黙ってて」

「そりゃないぜ里穂ちゃん」

「横国でしょ!」

 楽しそうに話す三人を他所に、怜は小さくため息をついた。

 相談どころではなくなってしまった。そもそも、稜平にとっての恋愛・女性とは、恐らく自分にとってのそれとは比較にならないほど軽いものであるはずだ。そのことを忘れて相談しようと思ったのが、まず間違いだったのだ。


 煙草を吸いたい衝動に駆られて怜が席を立とうとすると、稜平が怜の腕を掴んだ。

「二人は煙草、大丈夫?」

「あぁ、全然いいよ、吸っちゃって。やっぱバンドマンって皆タバコ吸うの?」

「ていうか、稜平君女遊び激しそうだよねぇ」

「いいってよ、怜。てか、俺はタバコ吸わないし、それにめっちゃくちゃ一途ですから!」

 稜平の返しに「絶対嘘でしょ」と口を揃えた二人が笑う。

 普段同じ人間としか会話をしない怜は、どうしていいものか判断がつかなかった。ひとまず胸ポケットからハイライトのメンソールが入った金色のタバコケースを取り出し、同様に金色のケースに収められたマッチで火をつける。

 右手一本でマッチに火を点けた怜に、里穂と結花が声を上げた。

「おいおい、お前、これから俺がアピールしようってタイミングでカッコいいとこ見せつけてんなよ」

「そんなんじゃねぇよ」

「てか、マッチって珍しくない?」

 テーブルの上に置かれたマッチを手に取って、結花が怜の真似をして片手で火を点けようとする。
 しかし、力を入れすぎたのかマッチは折れてしまうだけで、火が点く気配は見られなかった。

「力を入れすぎだよ。小指と薬指、それに掌でマッチ箱を支えて。そう、小指をマッチ箱の下に入れて、薬指はマッチ箱の側面に。マッチは親指と中指の日本でつまんで、人差し指でマッチを押し出す……ほら」

「できた!」

 喜ぶ結花に、少しだけ怜も口元を緩めた。

「結花、ちょっと化粧室行こ」

「はーい」

 遠ざかっていく二人を見つめる怜を、稜平が肘で突いた。

「いい感じじゃないか」

「稜平とは違うんだ。いい感じだろうとなかろうと、関係がないよ」

「なんともお堅いねぇ」

 二人が消えたほうに視線をやって、まだ戻ってこないことを確認した稜平がグラスを傾ける。稜平の口内にアイリッシュウイスキーに特有の、ピートの香りが一気に広がった。


 怜も、未だグラスの中に残るビールを傾ける。

「そんなに多くの子に手を出して、疲れないの?」

 先に口を開いた怜を、稜平が大きく開いた瞳に映した。

「……まったくだね。怜、お前は多くの子たちと仲良くすることの意味が分かってねぇんだ。お前、沢山の子と関係を持つことって、どういうこと思ってる?」

「性病のリスクが高まる」

 表情を変えずにそう答えた怜。稜平は自身の膝を叩きながら大きく口を開けて笑い、そうしてまたウイスキーの入ったグラスを傾けた。

「確かにその通りだ。性病のリスクはまあ、高まるな。だけど、それだけじゃないよ。俺はさ、一つだけ自分でルールを決めているんだ」

「ルール?」

「そう、ルールだ。俺は、どの女の子も自分の家にだけは連れて行かない」

「刺されたら困るもんな」

 呆れて、怜は首を振った。視界の隅には結花の消えた廊下が映っている。
 自分は結菜のことを思っているのに、どうして結花を気にかけているのだろうかと、怜は再び首を振った。

「別に、女の子に刺されて死ぬんならいいさ。俺が俺の家に誰もつれてこないのはさ、セックスをした女の子と、その子とセックスをした場所に“俺”っていう存在を刻み付けるためなんだ。
 俺はさ、バンドなんてものをやっているけれど、バンドは成功する確率が限りなく低いし、いつ金がなくなって野垂れ死ぬか分かったもんじゃないだろ? だからさ、俺はもし俺が死んでも、俺が作った曲がそうであるように、俺っていう存在だけは残るようにしたいんだ」

 ウイスキーと一緒に貰ってきたチェイサーのグラスを手に取って、稜平はそれを一気に飲み干した。グラスが空になる。彼の顔は、もう茹蛸のように真っ赤だ。

「怜。お前が過去に付き合っていたあの女は、確かにお前のことを裏切って多くの男と体の関係を結んで、最低の女だった。
 だけどな、世の女の子は大抵、可愛くていい匂いがして、手を握れば折れちまいそうで抱きしめればそれだけで男を幸せにしてくれるんだ」

「……それでも、怖いんだよ、俺は」

「あぁ、分かるよ。分かってる。それは、重々承知している。でも、覚えておけよ。結花ちゃんの笑顔、可愛かったろ? それがすべてなんだよ」

 怜の視界の隅に、結花の姿がチラついた。

「まあでも、俺を差し置いてお前が女遊びをするなんて百年早い」

 稜平はニッと爽やかな、彼がいつもライブハウスの煙臭いステージ上で浮かべる笑顔を浮かべると、二人のもとに歩き始めた。

 どんな話をすれば、二人をそのまま店の外に連れ出せるのか。
 怜にはそれは分からない。だがしかし、稜平が、稜平なりに怜に気を遣って外に出て行ったことは理解していた。

「セックスしたいだけかもしれないけどな」

 呟きながら、マッチ箱を右の掌に収める。小指はマッチ箱の下に入れて、薬指で側面を支える。
 左手はタバコケースからタバコを取り出して口元へと運び、そのうちに取り出していたマッチ棒を中指と親指で優しくつまむと、それをマッチ箱の側面。火を点けるための滑走路に当てて走らせた。

 マッチを押し出す人差し指は、あくまで軽く、淡く、力を込める。

 力を入れすぎては、結花がそうしたようにマッチ棒を折ってしまうことを、怜は既に知っているのだ。

 煙が彼の口元から放たれるのと時を同じくして、怜はテーブルの向かい側に存在するはずのない、結菜の姿を思い浮かべた。
 彼は結菜とお酒を飲み交わしたことなどない。だが、共に酒を飲み交わす様子を彼はありありと、目前の空白に生み出すことができた。

 しかしその瞬間、怜は今、恐らく最も聞きたくないであろう男の声を、店の入り口、勢いよく開け放たれた扉の向こうから耳にするのだった。


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