完成しない物語はゴミ箱に捨てずに、とりあえずデータだけでも残すべき

昔から完成しない小説を書いていました。
大体が深夜テンションで書いたもので、賢者タイムに見ると恥ずかしいものばかり。
そして、すぐに捨てて、そして、また夜には書いての繰り返し。

大人になるにつれて、小説を書くという行為が恥ずかしくなり、そして、恥ずかしくなくなりつつあります。

それについては、また追々どこかで語るとして。。。苦笑

なぜ、小説を書くことが恥ずかしくなくなったか。その理由はいろいろありますが、ひとつは、「今思っていることは、今しか書けない」と言うことに気づいたから。

昔は小学生の男の子が主人公の物語ばかり書いていたけど、最近は三十代の独身女性の物語しか書いていない気がします。

私は、”書く”ということに自分の現実の思いをのせて、ストレス発散や、思考を第三者的に把握するのに使っているのかなと思います。

小学生の頃のファンタジー要素たっぷりの物語。
中学生の頃の思春期の苛立ちをぶつけた物語。
高校生の進路に悩む物語。
二十代前半の働き始めの社会人ならではの物語。

一度は通ってきた道だから、思い出せば書けないこともない気はしますが、多分、当時よりはリアルじゃない。

その時の自分にしか書けなかった物語は、振り返ると消えていました。

小学校の頃に書いた小説を見て、中学生の自分が恥ずかしいと思ったのは、未熟な自分を目の当たりにしたから。そして、それを目の当たりにしている自分が未熟で、未熟である自分を理解していなかったから。
人に笑われるのが怖い。羞恥心でいっぱいになる。そして、ゴミ箱に捨てられていった大学ノートの数々。
中学生はとくに思春期ですからね。中二病とか世間的にも揶揄される真っ只中だから、”そういう”周りの目には敏感で。不必要に繊細で、被害妄想をしてしまう年頃なんです。

小学生の頃に書いたノートが残っていたら、読んでみたい。きっと、羞恥心はあるにしろ、当時の記憶を鮮明に思い出せたことでしょう。

小説家にならないなら小説は書いてはいけないわけじゃない。

昔を思い出すだけなら日記を書けばいい。

でも、物語の誰かを通してじゃないと本音を残せない人種もいる。

そして、それは他者に理解される必要はないし、実はみんな知らず知らずのうちにやっていることだと思う。

友だち、兄弟、親、同僚、上司…。

特に初めて会った人。

学校では陰キャなのに、ライブ会場で初めて会った人には陽キャぶったり。
家ではわがままし放題なのに、友だちといるときには気配り上手だったり。
会社では頼りになる上司なのに、家では居場所がないお父さんだったり。

みんな紙に書くという行為をしていないだけで、常にだれかを演じているし、自分で演じる物語の中のキャラでも、どこかしらに本音を混ぜ込んでいる。

妄想だって一日に何回だってする。

駅でかっこいい人を見かけて、ナンパされたらどうしようとか。
学校で好きなこと同じグループになって、いい雰囲気になったら最高とか。
通勤時に、モデルになり切ったつもりで歩いてみるとか。
あのバナナを踏んだら、すべって転んで大恥をかいてしまうなとか。

誰にも見られていないのに、気にされていないのに、そんなことを日々妄想しながら、楽しんだり、危険を察知したりしている。

人間は妄想する唯一の生き物。

だから、”もしもこうだったら”というフィクションを想像するのは、人間だったら当たり前の行為で、つまりは何も恥ずかしいことはないわけで、それなのに、なぜか恥ずかしい行為として映りがち。

人間は羞恥心に喜びを感じる生き物でもあるのだ(笑)。

人間は羞恥心を感じるのが喜びなのだ。
変な意味ではなく。本当に変な意味ではなく。

しかし、大人になると、恥ずかしさを感じることが子供のころほど少なくなる。当然、物足りなくなる(そして、一部の大人は、専門の店に行くのかもしれない)。

だから、恥ずかしい過去の記憶、完成しない物語はとりあえずデータだけでも残しておけばいい。
時間が経って冷静にみられる頃になると、羞恥心だけじゃなく、新たな発見があるはずだ。
自分なのに、自分じゃない。

当時の自分の考えは、時間が経つと、DNAが同じ自分であっても、わからないものになってしまう。

それが面白い。

自分で勝手に羞恥心を感じる喜びに浸れ、かつ、面白がれる。

物語を書くというのは、かなりロングスパンで、マニアックな楽しみなのかもしれない。

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