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私の昭和歌謡

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昭和は遠くなりにけり(おばあちゃんがいつも「明治は遠くなりにけり」って言ってたっけ)私も歳をとったもんだ。 でも、昭和歌謡を聞けば、そこに私の青春がよみがえるの。 だから、昭和人… もっと読む
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私の昭和歌謡97  真夜中のギター 1969

私の昭和歌謡97  真夜中のギター 1969

名曲はロック、ポップス、歌謡曲、フォークはとくにシンプルがいい

1907年前後のフォークソングは、今では全部同じに聞こえてしまうww

失礼。例にすると、昭和40年ごろの歌謡曲が万葉集なら、フォークは古今和歌集って感じかな。

敬意を表して例えました。ごめんなさい。

昭和歌謡に精通している方は、次のつぎはぎを歌ってみて。私の言いたいことがわかると思うから。

ざわわーざわわーざわわーーーーー(

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私の昭和歌謡96  小さなスナック 1968

私の昭和歌謡96  小さなスナック 1968

君はいまどこへ行ったの?僕ひとりキャンドルライトに揺れる面影

いつの間にか流行っていた。
覚えてすぐ歌える童謡のような有節ソングだ。

グループサウンズ風の青年たちがフォークソングを歌ってる。3番まであって、最後に半音上げて終えるぐらいしか曲の展開がない。

たまに、それほどの工夫もない一発ヒットが出る、そんな一曲だと思う。

小学生の私は、友だちと、曲より歌詞を論じ合った。論じ合ったというと、

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私の昭和歌謡95  魅せられて 1979

私の昭和歌謡95  魅せられて 1979

ほんとうに好きな男の腕の中違う男の夢を見れるの?

芥川賞は「太陽の季節」と「感傷旅行」「エーゲ海に捧ぐ」しか読んでいない。

21世紀になって、本屋で文藝春秋をチラッと立ち読みしたことはある。夢中になって立ったまま、なんて全くなく、すぐに立ち去ってしまった。

最後に読んだのが「エーゲ海に捧ぐ」だったから、その印象は強く残っている。小説と映画と歌謡曲がセットになって、今ではジュディ・オングの歌声

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私の昭和歌謡94   黒ネコのタンゴ 1969

私の昭和歌謡94  黒ネコのタンゴ 1969

うきうきとタンゴにのっておしまいはアジの干物で興醒めの歌

ボーイソプラノが歌うってとこがよかった。
しかもタンゴ。

前のめりにどんどん歌う。
幼い子供の歌は、呪文のようだ。暗記を忘れないように、味わったりしない。

熱唱系もいいが、それにうんざりしていた頃、こういう歌は爽やかで、たちまちヒットした。男の子で色気もないし、すぐに覚えて歌えてしまう。

家事を手伝う昭和の子は、こういうリズムがいい

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私の昭和歌謡93   あなたのブルース 1968 

私の昭和歌謡93  あなたのブルース 1968 

ブルースが暗く悲しく胸を打つ一人暮らしの男の胸を

はじめ、森進一が歌っているのかと思った。
ところがテレビでは矢吹健という歌手が歌っている。

こんなハスキーな声で歌う人は森さんだけかと思ってたのに、いるんだー。それが小学生の私の感想だった。

こういう声をミスティーヴォイスと言うんだそうな。

もちろん昭和の子供は、特徴的な部分は、元気に歌う。

🎵あなた あなた あなた あなた あーーーな

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私の昭和歌謡92  愛の化石 1969

私の昭和歌謡92 愛の化石 1969

期待して女優の歌を聴きたればルリ子は語るひたすら語るw

浅丘ルリ子。
目がぱっちりで、唇がぽっちゃり厚ぼったい、それはそれはの美人女優だった。カトリーヌ・ドヌーヴと並んだって負けない。日本人なのに。

当時、見るたびにほれぼれでしたよ。

「愛の化石」という歌謡曲にはものすごく期待感があった。どんな声で、どんなにチャーミングに歌うんだろうって。

だからこそ、失敗だ、と、落胆した。なに!この曲は

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私の昭和歌謡91   蘇州夜曲 1940

私の昭和歌謡91 蘇州夜曲 1940

戦前の異国情緒のシネマには敵わないなあ美女の歌声

山口淑子(李香蘭 りこうらん)は、もちろん昭和の有名人である。

波乱万丈の人生だった。
・1920年中国奉天で日本人両親の娘として生まれる。
・美しい容姿とソプラノ歌手として中国女優李香蘭として活躍。
・漢奸の容疑で命からがら中国から日本へ逃げ帰った。
・日本の女優山口淑子として、三船敏郎や池部良と共演。
・ニューヨークでイサム・ノグチと5年間

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私の昭和歌謡90    雨の御堂筋 1971

私の昭和歌謡90 雨の御堂筋 1971

昔から欧陽菲菲ベンチャーズ日本歌謡はグローバル

15歳の私が驚いたのはステージ衣装だった。

それまでの衣装は、ピアノの発表会で小学生が「かっわいー」と言ってもらえるような、裾が広がったふりふりレエスのドレスだった。

なんと!欧陽菲菲は違った。

ボディにくっついたようなぴったりサイズ。肩ひもーーーー!胸から上が露出。もちろん足が見え見え。それで踊る。

それだけで、テレビ時代の歌手はいいのだ

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私の昭和歌謡89    山寺の和尚さん1937  東京ブギウギ1947

私の昭和歌謡89 山寺の和尚さん1937  東京ブギウギ1947

ジャズやブギ戦後流行ったもんじゃない服部良一ここにあり

ヒット曲はヒットしてからしばらくはテレビやラジオで流れる。

「東京ブギウギ」もその一つだった。戦後の暗い気持ちを吹き飛ばすような曲を提供したいという服部良一さんの思いを、歌手の笠置シズ子がのびのび歌う。ものすごいエネルギー量だ。

今あらたに動画で見てもほれぼれするほどの歌唱力だった。

今年のNHK連ドラ「ブギウギ」のモデルになっている

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私の昭和歌謡88    女心の唄 1964 

私の昭和歌謡88 女心の唄 1964 

1拍も2拍も遅れて歌ってもそれが演歌の自然なリズム

ダンナに聞いた。

「ねえ、子供の頃はやった歌何かある?」

すると、ぶっきらぼうに「バーブ佐竹。青江美奈。」と返ってきたw

私が歌番組が大好きだったのと正反対に、主人は大嫌いだったらしい。

たぶん、バーブ佐竹も青江美奈も顔がいいわけではないから(ごめんなさい)余計ムカついて、チャンネルを回したんだろうと想像した。

グループサウンズもまだ

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私の昭和歌謡87     三百六十五歩のマーチ 1968

私の昭和歌謡87  三百六十五歩のマーチ 1968

熊本はいまやバブルの真っ盛り半導体が幸せ運ぶ

はっきり言います。
当時私は、こんな歌ゼッタイいやでしたww

男の着流し姿で歌う演歌歌手など、私はちょいごめんだなー、と思っていました。

水前寺清子、チータは、この曲では、マーチングバンドのユニフォーム姿のレコードジャケットでした。なんなん?

不思議なことに、昭和のテレビの影響力は大きかった。

私がこんなに嫌いって思っているのに、テレビの中の

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私の昭和歌謡86     スイートメモリーズ 1983

私の昭和歌謡86  スイートメモリーズ 1983

ペンギンが歌う姿の可愛さに懐かしい日々若き日の恋

昭和58年に、私はやっと27歳の新採用教員となった。

子供が好きとか、教育に興味があったとか、強い想いがなかったので、大学を卒業してから、叔母が紹介してくれた高校の非常勤をやりながら、毎年試験に落ちていた。

結婚相手はいた。その将来の夫が「音大なんか出て、一番いい仕事は公立学校の教師しかない。お前、それに決めろ。」と言う。だから、そうした。

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私の昭和歌謡85    寒い朝 1962 

私の昭和歌謡85 寒い朝 1962 

松茸は舐めてくわえてまたしゃぶりさゆりのファンものけ反る一句

女優や文士が参加した句会で、「色っぽい句を詠む」というテーマが出されたときの一句。当時20代。

松茸は舐めてくわえてまたしゃぶり

この句の作者は、吉永小百合だ。おお!

早稲田大学第二文学部の卒論のテーマは「アイスキュロスの『縛られたプロメテウス』におけるアテネの民主制について」

そして女優で歌手でもある。

「寒い朝」は自身の

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私の昭和歌謡84   ひなげしの花 1972

私の昭和歌謡84 ひなげしの花 1972

活動も歌も全てが金のため可愛い顔で世渡り女王

まあ、現在のアグネス・チャンのことを思うと、気分が悪くなるので、かつて17歳のデビューの思い出を語りましょう。

アグネスは、カトリックの聖人です。

私の実家はカトリックだったので、洗礼名はアグネス。13歳で殉教した、美しく聡明な女性なので、その洗礼名をつけてくれたのは、うれしかった。

そして、アグネスという芸名の歌手がいることにも興味を覚えまし

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