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暮らしの中の身体論 その1

日常を過ごす中で、ふとした瞬間に訪れる気づき。

自分が気になっていることや探究のアンテナが反応した出来事とその時に考えたことを、言葉にしてみる。

最近、近くの商店街を歩きながら「身体性」と「学び」について考えた。今回はそれについて書こうと思う。

※身体論 その2もある。近々書く、はずw。

 【ひっくり返った傘と、おばあちゃん。】

 
商店街を歩いていると、突然、風がビュ~っと吹いてきて、前を歩いていた女の子の日傘がバッと反り返る。
女の子は、「あーー、こわれっちゃった!」と泣き声で叫ぶ。
 
すると、一緒に歩いていたおばあちゃんが、ふふふっと笑いながら
「こうなった時はね、こうしたら直るのよ。」と、女の子の手の甲に自分の手を添え、持っていた傘を、一緒に風の吹いてきた方向へ傾ける。反り返っていた傘は、風を受けてバンッと一瞬で元通りになる。

まるで手品でも見たかのように、女の子は「わあ」と声を上げ、とたんに笑顔になり、2人はまた歩き出した。
 
・・・
 
ほのぼのとした光景に胸が温かくなる感覚とともに、「ああ、こういうことだよなぁ。」という思いが湧いてくる。

背中で見せる。実際に見せる。感覚で現象をつかむ。学ぶってこういうことだよなと。

なんてことのない日常の一幕の中で、学びの本質に触れた気がした。

【「わかる」と「できる」を分けるもの。からだで掴む学び。】


ものごとを、頭(思考)ではなく、からだ(体感・感覚)で伝える。
言葉ではなく、一緒にやってみせ、からだの感覚や感触を通して教えることの大切さ。
 
たぶん、この子は次同じことが起こったら、この日体感した手の感覚を頼りに、おばあちゃんから教わったようにやってみるのだろう。
 
なんとなくふーんと知って終わりではなく、
体感的に「あ、こうやればできるんだ(できそうだ)」とからだで掴めたからこそ、次やってみようと思える。

学びって、次につながってこそ。

そして、なるほどと思ったことを、次の場面でやってみると、うまくいったりいかなかったり、そうこうして何回かやっていくうちに、からだがオートマティックに調整してくれるようになり、いつの間にかできるようになる。 

「分かる」を超えて「できる」ようになるきっかけとして、
今回の女の子のように、からだに残る学びが大切だと思っている。

頭で計画して実行するというよりは、身体の発露として繰り出す実践的な知恵のことを「身体知」と呼ぶ。

諏訪 正樹(2018), 『身体が生み出すクリエイティブ』, ちくま新書, p130

ぼく自身、人材育成に係わる仕事をする中で、数年来、身体性や身体知の重要性を感じていて、実体験を通して五感やからだで感じたことから自分ごとにしていく、身体知として落とし込んでいくプログラムをやっている。
 
“言葉”による説明や知識インプットではなく、体験やアウトプットを通した“体感”が先で、そこで感じたこと(考えたことではないというのがミソ)を頼りに、対話や内省を深めていく場のデザイン。

体験して感じたことを、自分の言葉で言語化することを繰り返すことで、体験の自分ごと化が促され、いつの間にか、そこでの体感覚や言葉にしたことが身体知化していく。

言葉から入ると、それが正解化したり、固定観念化したりして実践する際の邪魔になったり、なんとなく”分かったつもり”になって終わってしまうことが多々ある。なので、言葉と体験をひっくり返した学びのデザインが大切。

ぼくの好きな武術研究家 甲野さんの、武術における従来の指導方法(これは教育や企業の人材育成も同じだと思う)についての言葉も興味深い。

大抵の練習方法は、ひとつの「正解」を設定し、厳密にそれに向かい進められてゆきます。…(中略)…同じ動作を繰り返す生徒に向かって指導者が「正解」からの「ずれ」を厳しく指摘しながら修正するようなスタイルです。…(中略)…こうした「当たり前」の稽古法に、我々は大きな疑問を呈しているわけです。

甲野善紀, 方条遼雨(2020),『上達論 基本を基本から検討する』, PHP研究所, p30

ここで何が起こっているかと言うと、「細部」や「厳密さ」は二の次に置きながら、…(中略)…上塗りするように経験を重ねていきます。…(中略)…物事の習得も、これとよく似ています。…(中略)…「大きく学んで、後から細部を整える」これが私の考える上達の大切なポイントです。

同上, p32,33

また、「体験と言葉(内省)の行き来」は、先ほど引用した諏訪先生も「からだメタ認知」という表現で整理されている。


(からだメタ認知とは、)

外界と自分のありさまや、両者の相互作用のあれこれを、できるだけ言葉で表現するという行為です。

言葉で表現する内容は、先に述べた通り、思考内容(頭で考えていること)だけではなく、外界のものごとの知覚(外界で着目しているものごと)、自身の身体の動き、それが外界に何をどう働きかけているか、その時の体内感覚、外界は動変容しているか、など多岐にわたります。

諏訪 正樹(2020), 『「間合い」とは何か 二人称的身体論』, 春秋社, p223
リクルートワークス研究所, ”人事のアカデミア 身体知”(参照:2022/06/05)より引用


このように、”からだファースト”で「体験と言葉(内省)の行き来」することが、深くからだに残る気づきや学びに繋がっていくのだけど、

実際、その学びが人の意識や行動の変化に繋がっていったケースをたくさん見てきたこともあり、からだを通して学ぶことや身体知の重要性を、ぼく自身、肌で感じてきたのである。

【からだの学びをもう少し。】


からだに着目した学びや研究は、最近少しずつ増えてきた感じがする。

例えば心理学界隈では、「身体化された認知」とか「身体化認知科学」いう分野の研究や理論化するアプローチも進んできているみたい。

われわれが世界をどのように理解し、概念知識を構築するのかを決定するうえで身体 -具体的には感覚や身体的経験- が必須であると主張する。

レベッカ・フィンチャー-キーファー著(2021),
知識は身体からできている 身体化された認知の心理学』, 新曜社, pⅲ

言葉や概念、正解らしきことではなく、からだを通して学ぶことが見直されてきている。

そもそも、”からだ”(の可能性)は、デカルト以来の心身二元論による分解された自己観によって、近代以降なおざりにされてきた。

このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂は、身体[物体]からまったく区別され、しかも身体[物体]より認識しやすく、たとえ身体[物体]が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない、と。

デカルト著(1997),『方法序説』,岩波文庫, p46

ここで言っている魂とは、心とか精神、意識みたいな意味で、要するに、心とからだは別々のもので、心こそが自己の本質であり、自己にはからだは必要ないということを言っている。(いわゆる「われ思う、ゆえに、われあり」ということ。)

未だにこのパラダイムは色濃く残っているように思うけど、ものごとを二元論的に捉えて、言葉で説明しきることの不可能性や綻びが今多くの分野で言われるようになってきたように思う。

デカルトの自己には「身体」が必要ないのである。心と身体が別々のものであるとすると、では心と身体はどのように結びつけられているのかという新たな難問(「心身問題」)が生じる。デカルト自身は、脳の中の「松果体」と呼ばれる部位で心と身体の交流が行われるとしたが、これは現代の脳科学の見地からはとても受け容れられない。

嶋田総太郎(2019),『脳のなかの自己と他者 身体性・社会性の認知脳科学と哲学』,共立出版, p4

デカルトに始まる最初期のこころの哲学の理論家たちは、心身二元論を主張し、心的現象は身体から完全に切り離されているとした。しかしながら、デカルトの二元論に反対して、カントは知識がこころと外界の相互作用によるものであると主張した。そして、身体化された認知の理論の先駆けとして、身体は人にとって必須、または中心になるものであると示唆した。

レベッカ・フィンチャー-キーファー著(2021),
『知識は身体からできている 身体化された認知の心理学』, 新曜社, p3


いろいろと引用しているうちに、小難しい話になってきてしまったけど(自分の頭もこんがらがってきた…)、からだを通した学びって大切だ、ということが言いたかっただけw。

【最後に】

からだとか、学びについて、思ったことを書いてみて、
やっぱりまだまだ自分でも言葉にしきれないな~と思う。
そして、拡散しすぎてカオスw。

もっとシャープに語り切れないけど、それって大切だよねというものを、本質的だと思うものを、表現で着たらと思う。

とか、頭で考えることばかりしないで、からだを使うのだ。

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