「あるがまま」とは何だろうと禅問答しているその姿があるがままと気付いていない「あるがまま」

絶えずあなたを何者かに変えようとする世界の中で、自分らしくあり続けること。
それがもっとも素晴らしい偉業である。―エマーソン


現代の社会は、とかくあらゆるものを「説明」しようとする。
顕在意識は、言葉で生きている。

「自分らしく」
「あるがまま」

だとかいう言葉すらも、「言葉」である。
人の顕在意識にわかりやすくするために作られた、「概念」である。

「自分らしく」「あるがまま」をどんなに説明したところで、その「言葉(人が作り出した概念ルール)」の意味をわかったところで、実際実質それ自体が、「自分らしく」「あるがまま」からは離れていく。
分かるということは、結局、自分の脳の中で分別する、分割する、ということ。
ひとの脳とは、非常に種類多く分別せねばならないゴミ集積場のように、これはこれ、あれはあれと細分化して分割して「わかったことにする」器官である。
クライアントさんと良く話す例だが、チョコレートパフェを理解するために、チョコレートパフェの一番上にほんのちょこんと乗ったさくらんぼ、しかもそのさくらんぼの茎の端っこを見て理解して納得したつもりになっただけで、チョコレートパフェ自体を知ることができた気になってしまう。
それでいて、本当にそのチョコレートパフェの甘みや優しさを体感することなく、逆に「それを知りたい」などと言うがために、今度はその甘みや優しさを言葉にしようとしてしまう。甘み、優しさからは離れていく。非常に口酸っぱく、辛く、厳しくお堅く、「甘み、優しさ」を議論し始めるからだ。

自分らしく、あるがまま、から離れてまで、自分らしく、あるがまま、を、知る必要があるのだろうか。
既にそこに、既にそうなっているあなたがあるのに。
そして、それを意図しようとすれば、その時点で既に自分らしくない、あるがままから仮面を作ろうとし始める。しかし、同時に、それをも含めてすべて、全体が今のあなたなのである。
しかし、そうしているあなたそれ自体があなたなのであるから、自分で自分を見ようとした時には、もはや自分の全体は見えない。
こう例えても良い。自分で自分の姿を見ようとした時、自分の顔を下に向けて、自分の下半身だけを見るくらいしか方法はないのだ。例え鏡で見たところで自分の全体を見ることは不可能であるし、そもそも「鏡に映った像」はあなたではない。
つまり、自分を見ようとし始めた時点で、既に、あなたの「あるがまま」は見ることができない、わかることができない道に入っているだけなのだ。


自分が何者であるかにこだわらなければ、自分になれるだろう。-老子


このエマーソンと老子の言葉が、すべてであると思う。


それでも、「自分らしく」「あるがまま」という「言葉」を創作しそれに翻弄されてしまって自分らしさから能動的積極的に離れようとしてしまう、既にそこにあるあるがままから必死で逃げようとし、その逃げようと積極的に離れようとしていること自体も既にあるがままなのに、それでも自分を見下ろして自分の小さな部分を見ることでなぜかそれを知ろうとする、クライアントさんというのはそれ自体に苦しんでいるからクライアントなのだ。

ある意味、写真やらビデオやらというものが発明され日々進歩して、それと同時にひとの認知力は(退化して、と書くのはここではやめておこう…)、いつの間にか「自分自身を(自分自身が他人を見ると同じように)見えるはず、判断できる、しかも自分なのだから正確な絶対値がわかる」などと潜在的に思い込むようになってしまっているのではないだろうか。


同時に言葉が流行するとともにこんな潜在認識も広まっていると思うのだが、しかし当たり前のことなのだが、「自分らしい」「あるがまま」にも、絶対値はない。こうすることが自分らしい、だとか、こうしていること・これ、が、あるがままの姿だ、などと、現代ほとんどのひとの脳は当て嵌めようとしている。
ひとは、常に1秒辺り1千万bitもの情報に晒され続けている。だから、脳は外界をそれでも自分が生きることに適応できるだけの形で解釈するため、ほとんどの情報を切り落とす。切り落とした残りの情報はぶつ切れで繋がらないので、無理やり自分の都合(自分にわかるための独特のルール、色眼鏡)で合理化したり歪曲したりする。それでいて、その結果を、自分の外界から受けている情報の全てだと思い込む。
ひとは、自分の中にせっかく感じさせてもらうことができる、しかも外側からではなく自分自身の奥底から出てくる「快(あるがままでいる)」を感じることだけで、十分すぎる、いっぱいいっぱいなのである。いっぱいいっぱいすぎて、外側に気をとられて、その「快」を感じる機能・フタすらも閉じてしまっているくらいなのである。


安心するがために「安心って何?」「どうすれば安心できるのか?」という議論(言葉)に走る必要はないのである。
現代日本の流行り言葉で敢えて説明するならば、それをする時点で、他人(外側)の”安心”というものを今度は自分に貼り付け(自分自身の人生から離れそれを放棄し)ようとする「他人軸」である、と思ってもいいかもしれない。

「ではどうすればいいんだ!(つまり、やはりでは安心とは何なんだ!)」という声が聞こえてきそうだ。
なぜなら、これこそが堂々巡りで「安心とは何なのだ」という議論に持ち込もうとするパターンなわけで、それでいて、”安心できない(と感じている)人”いわゆる”他人軸で苦しんできている”ひとは、条件反射的にいつもこのパターンに走る他方法がないのだから。このパターンは、盾である。
「安心できない自分」を維持するための。

だが、この盾は、実は素晴らしい効果を持っている。
実は、この盾は、あなたの中に既にある「安心」を、本当に守るための盾なのだ。

あなたは今、既に安心を覚えているし安心しているし安心できているから、安心するといい。

と言われたら、あなたは一体どんな顔をするだろうか。


しかし、「あるがまま(今この瞬間、ここに在る)」の中にこそ、本物の”あなたの安心”があるのであるし、そこ意外に”安心”は、ないのである。

一言だけここで別の角度から差しはさむと、セラピスト(側)も、常にそのクライアントの、今ここに在るクライアント自身が今感じている(気付いていないだけで)”安心”を、セラピストのその眼に、映していたいものである。そうすれば、クライアントは必ず、自分の奥底から湧き上がってくるそれに気付く力にフタはしていても、セラピストの”眼”に映った自分の安心を見て、気付くことができるから。(以前の記事のいくつかで、私はセラピストの在り方のあらゆることをこの表現として繋げている)
(カウンセリングやセラピーに来るクライアントで、”安心・あるがまま・自分らしさ”を知らない・持っていないクライアントは、決していない。)


本日の記事は、論点をあまり定めず始めている。
今日の私自体がそんな感じだと認識していたらその通り、禅問答のような記事になってきた。

そもそも今日の私に限らず、私は記事を書く時、何をどう書いても結局、文字にすれば狭義で一面的(片側方面的)な記事になってしまう、と、少々記事を出すこと自体にも何やら…何というのだろうか…感じながら、書いている。
強いて言うなら、私は既に40日以上、毎日記事を挙げているが、例えごく一角度的でごく狭義の範囲で伝わってしまったとしても(そして人によってその角度も意味もバラバラであるから、例え様々に様々の語弊のある伝わり方をしたとしても)、それでも僅かなりでも
苦しんでいる人、迷っている人、もしくは学びたい人の心に、届くことがあるなら、その可能性があるならと思い、今はこれを続けてみる選択をしている。
例えどんな言葉でも、語弊にまみれて受け取られる場合はあるし、「愛している」が「死ね」に聞こえる(捉えられる)場合もある。だから、不特定多数への発信は例えどんな一言でも非常に危険なものだ。私のこの感覚は、だからこそ私のセラピーでのクライアントそれぞれに対するやり方の違いや言葉というものの扱い方にも出ているし、SNSや記事における発信に至っては少し前まで、私は意図と本当に真逆の捉え方をされてしまう層の存在が常に念頭に来て、発信そのものをしない選択をしていた。
今でもその人たちを念頭におかなくなったわけではない。だが、寧ろそういう人たちの層の方にこそ、本当に必要としている苦しんでいる心が隠れている、その潜在意識が手を伸ばしていることが見えてならない。
だからこそ、そこをも通して、本当に必要な人たちに僅かなり、届くことができるならという感覚である。


そして、私は、今や「セラピスト」という言葉を頭に浮かべない日はないほどの生活になってはいるが、それでも実は、私は、自分が「セラピスト」である、とは、思っていない。思っていないというより、感じていない。
無論、今ではさすがに社会的な意味で「セラピスト」と見られる、という意味では、セラピストであることはするし、セラピストとしての立場や持つべきことは、逆に酷くシビアに自覚し扱っているとも思う。

何が言いたいのか。
今の世の中では、表面的に「〇〇(役職)」が、重要視、もしくはあなたに”求められている”社会であるように、一見、見えかねない面がある。
だからこそ、その表面的なものをいつの間にか自分に貼り付けようとしてしまって「〇〇で在ろう、在らねば」が先に立っている人が多い。

しかし、その「〇〇(役職)」は、あくまであなたらしいあなたのあるがままがあった上で、そのあなたの奥底から出てくるからこそ、本当に望まれ求められている(信じられない人も多いかもしれないが)。

これはちなみに、障碍理解やマイノリティ理解の考え方にも直結している。
視覚障碍などの感覚障碍、四肢麻痺などの身体障碍、他にも発達障碍や精神障碍、性別の不一致など…
外側から見て目立つものもあれば、外側からは一見まったくわからないようなものもある。外側から目立つもので考えるとこの場合わかりやすいかもしれないが、
例えば視覚障碍がある、足が二本ではなく一本で生きている、などの人がいたとして、この人は、身体障碍者の〇〇さん、だろうか(これは身体障碍やマイノリティな特徴だけでなく高齢や幼子といった、年齢の違いでもそうかもしれない)。
そして、その身体障碍を持った人が例えば会社である役職を立派にこなしていたとしたら、その人は身体障碍者で(もしくは身体障碍者なのに)その役職の〇〇さん、だろうか。
つまり、身体障碍・役職・〇〇さん、というものが同時にあるのだが、そのどれかであることで、残りのものが薄れたり、ある要素が他の要素を邪魔したり、するのだろうか。
ちなみに、私のクライアントさんたちは、恐らく、私を見て、それは感じないことだろうと思う。私はクライアントさんと対面セッションの約束があり駅で待ち合わせをし、セッションルームまで案内する時、白杖歩行の私は、私が案内するにも拘わらずクライアントさんに掴まらせてもらい、周りに見えているものを教えてもらいながら(私独りで動く時は白杖で特定のものを探る特定の動きをするが、晴眼のクライアントさんと一緒の時はその独特のやり方に付き合わせるよりも、クライアントさん―晴眼の人の情報と効率で動くので)セッションルームまで移動する。
それでも、クライアントさんにとって、私の存在やセラピストの存在は、決して薄れていない。
非常に表現が難しいのだが…強いて言うなら、なぜなら私は、私が私であるからこそ、私の中から”クライアントさんにとってのセラピスト”が湧き出しており、それと同時に、私が私であるからこそ、視覚の問題も視覚の問題だけでなく、それ自体がクライアントのセラピーにも大いに役立っている、役立たせている。私はこの視覚認識の異常(というより要素)や、解離の経験、交代人格としての感覚や経験があるからこそ、クライアントさんたちにセラピストとして非常にわかりやすいと言われたり深い気付きを促すセラピーが可能となっていたり、これらゆえに私はセラピストとしての技術の使い方やセラピストとしての能力が引き出されていることも感じている。
だが、これらがもし繋がっておらず「私」と切り離された別々のところにあって、私のあるがままよりも前面にしゃしゃり出ていたりしたら、これらの僅かなどのひとつも、有益な方向へは発揮されていないわけだ。

その上で、ここまでセラピストとしてのと何度も書きながら、私は、セラピストになりたいと一度として思ったこともなければ、今も思っていなければ、セラピストであるとすら思っていない。
……できればセラピストなどなりたくないとすら思っている……まあ、これはいいとして。
(ちなみに私は、もちろん「セラピストとして見られる私」も「視覚障碍者と見られる私」も在るとは認識しているが、自分自身をセラピストであるとも視覚障碍者であるとも全く思っていない。)

ただ、気がついたら、いつの間にか、クライアントさん達とセラピーセッションを持つ生活になっており、そして日々、気付いたらいつの間にかひたすら研究したり専門書を苦労しながら読み進めたり探したり、専門的な記事や資料を作成したりするような生活をしている。

しかしながら、私自身は、ただただ、自分の足元…心地良い朝の起床をして心地良く健康を保つことができる時刻には眠り、食事を自炊したりしているだけ、実は、これも物凄く語弊がありそうで書くのは怖いのだが、実は、自覚としては、毎日、「生きている」「生かされている自分(不思議)を感じている」だけなのである。
そして……私は、よくよくよほど物事をひたすら考えている・寧ろ根詰めすぎるほどに考えすぎだ・よほど全ての時間なにかを熟考したり考え込んでいるのだろうと思われるのだが(まあ…こんな禅問答のような記事ばかり挙げていれば無理もないか)、…いや確かに過去そんな時期はあったかもしれない、だがそれは同時に、今ほどのものは一切出て来ず浅はかの極みだったが。今、今の私の自覚(顕在意識)としては、実は何も考えていない。ここ数日は、ついつい少しばかり、昼食に冷蔵庫の中の物をどう使って何を作ろうかと多少考えてしまうくらいだ。これすら考える必要はない。そして、考え込んで時間を浪費している時間の錯誤などなく、スムースである。
私は、一日でどうしてそんなたくさんのことができるのか、よほど目まぐるしい日々か、よほどひたすらいろいろなことを考えて過ごしているのか、と言われることがあるが(確かに私の活動ややっていることは非常に多岐にわたっているから)、逆に、顕在意識がただただあるがまま、何も考えなくなったから、こうなった。「自分らしさ」「あるがまま」の、”邪魔をしなくなった”のだ。


…ここまで私の不毛な記事、言葉の羅列を見ても(いや、ここまでこんな気分に任せたような記事を読んで頂いているなら私としては非常に嬉しくありがたいのだが。)、
理解できない、足りない、「あるがまま」とは何だ、「自分らしさ」とは何だろうか、どうすればいいんだ、自分はどう生きればいいんだ、何も考えなかったら何もできないだけのはずじゃないか(確かに表面的な言語で表すことのできる”何も考えない”こと=潜在意識を邪魔しないこと、にはならないから)、だからお前の言っていることはおかしい(だから言葉というのは狭義になってしまい語弊の連鎖を生むと言っています)、などなど、まさに私の禅問答の中に入っているような方や、逆にこの記事に共感していただいた方(実は逆、ではないのですが)、体感で本当に得たい方…は、

どうぞぜひ一度、私にお声を掛けてまずあなたの存在を私に知らせていただけたら、と私は思っています。

もし、この記事をここまでお読み下さったということは、あなたはご自身の中でも実は似たような禅問答をやっておられるということ、つまり「自分らしさ」「あるがまま」で在りたい、それを探したい、知りたい、体感したいということではないでしょうか。
そして、ご自身の中でぐるぐるしている禅問答から脱するヒントになるかもしれないと気付かれたからこそ、この6000字を超えてしまった禅問答の記事を読破して下さるに至ったのです(私は、実はこの記事は軽くさっさと1000時に満たない程度で終わると思いながら書き始めていました…)。

ご自身の中の苦しさや息苦しさ、生きづらさなどを、わざわざ認める必要も見つめる必要もないのです。これをやれば、今日ここまで書いてきた禅問答になりますから。
禅問答をやっている(そちらに気を向けている)間は、ご自身の中の自分らしさ、ありのまま、感謝、安心感などに、気付くことをせずに済みます。

禅問答をするもしないも、それを全て含めてあなたのあるがまま。
その「あるがまま」に気付くことをするもしないも、あなたのあるがまま。
日がな一日部屋の中、自分の中でひたすら考える人生も、なぜだか何も考えていないのにどんどんあるがまま内側の物が外側に発揮されている人生も、あなたのあるがまま、あなたが選択して良いものなのです。
あなたの「ありのまま」を体験して、あなたならではの「(エマーソンの言う)偉業」を、見てみたくはありませんか?


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