世界や自身への認識がひっくり返る

私とセッションを共有していると、受講生も含め、クライアントさんたちは、私と会うたび、話すたび、どんどんどんどん、認識が変化していく。個々の中に、新たな世界が開けていく。

そして、中でも不思議なほどに、面白いほどに、特徴のひとつとしてあるのは、
その人が今まで思っていた、無理やり言葉で表現するならば「これが世界だ」「これが世の中の常識だ」「これが心の世界の常識だ(心とはこういうものだろう)」「あたりまえ」というような認識、自覚しながら認識していたものから自覚なく潜在的に認識していた事柄まで、悉く、どんどんどんどん、真逆だったことに気付いていかれる。

私は、少し前まで、実際これが私から見ても不思議と感じてしまう面があった。どうして、世の中のこんなに大勢の人は(というよりも、「意識領域」は)、私の物事の見え方、捉え方がここまで悉く真逆なのだろうと。そして、どうしてわざわざ真逆に捉えることで自分の首を真綿で絞め続けてしまっているのだろう、と。
ある意味、確かにこれはほんの少し考えると、それはそうだといえるところがあるのだ。

例え(顕在意識側の視点から見た)心理学であっても、心理学で学ぶ心の原理や性質、法則などは、そもそもこれだけでも世の中の非常に多くの人たちが「こちらが当たり前だろう」と常識的に認識している捉え方や考え方と、真逆のものが多い。

そして、五感のメカニズムなどのセミナーを(特に私から)受けられるとどんどんわかってくることになるが、そもそも、外界からあなたが感じていること、”外界の事実、外界の情報”であると思い込んで捉えている五感の感覚は、実は如何にその”外界の事実”そのものとは異なるものであるのか、そして如何に自分が当たり前だと感じていたことが実は真逆であるか、知ることとなり同時にいろいろなことが解放されて大変面白いのでお勧めだが、

つまり、そもそも(少なくとも)現代人は、そもそもひとの感覚や心について、自分自身についてでさえも、真逆に捉え真逆に解釈している、そもそもベースの部分からして真逆だと思っているのだ。
敢えて例えるなら、最初から白を見せられながら「これは黒なのだよ」と教え込まれて育っている、大きな箱を見せられながら「これはこう使うんだよ」と、箱を伏せて中に物が入れられない、良くても何かインテリアか踏み台か椅子かのように認識してきた、というような状態だ。

今までの記事の中でも良く出していることがあるが(そして今回は大幅に端折るが)、私は幼い頃よりひとの「潜在意識」とばかり、対話してきた。そして私も潜在意識からの物の見方、捉え方、感覚でおり、潜在意識から話してもいた。こちらの方が母国語であった。その上、今の私の自覚がもともとひとつの交代人格であった時分から、私(交代人格)は、実はそれよりも更に奥深い潜在意識の領域から浮上し、潜在意識の法則の方が寧ろ当たり前で、確立してここ数年で、何とか全てをひたすら顕在意識の言語に翻訳して顕在意識とも会話できるようになり、何とか翻訳しながら顕在意識の物の見方を同時にできるようになってきた、それくらいであったから、潜在意識の法則から見て「現代の世の中の意識さんたち」が如何にすべてが悉く真逆に見えるか、ある意味無理のない話だったのだ。

そして、ある人がふと、私のこの感覚を、また言語で補完してくれた。
現代のひとたちは、これが更にもっと根本的な部分から、物事を真逆に捉えるようになっている。
ひとの、自分自身の能力や性質について、からして。
私達は、ふと虫の報せや第六感で…例えば誰かのことを非常に久しぶりに考えた途端にその人から連絡が来たり、本当に小さな時に心に決めたこと(種を撒いたこと)が大人になってふと叶っていたことに気付いたり、例を挙げたらきりがないのだが、そんなことを非常に不思議なことであると捉えている。
それでいながら、これまた例えばなのだが自分が眠っている間に身体というとてつもなく複雑で壮大な宇宙に等しい大サーカスのメカニズムが見事な連携の歯車で呼吸や身体機能を維持してくれていることや、食事をした後その大宇宙のメカニズムが見事な連携作業で消化したり栄養を吸収したり排出したりして”己の身体”を作り続けてくれていることや、このあまりに想像を絶する規模の宇宙の中の「ここ」に、そしてこの時代「今」に、自分が存在する、生まれたことや、今呼吸ができていることなど……そういうものの方が、よっぽど壮絶な「不思議」のはずなのだが、これらを今の「意識領域さんたち」は、まさに「不思議なほど」に、「当たり前」だと感じて全て通り過ぎてしまっている。

私は他の角度からもたくさん同じことを言っているのだが、この角度からもまた、少し前の日本人…戦前や、江戸時代までの日本人は、この認識も「今」とは逆であった。先ほどの例でいえば前者のようなことは「意識・潜在意識」の働きとして道理であることとわかっており、後者の壮大さには畏れ、本当に不思議と奇跡に満ちて、その「不思議というものの存在」「とてつもないもの」(実はこれこそが本当の深い「潜在意識」ともいえるわけなのだが)をしっかりと常に感じていたことにより、(社会的表面的な自分で作ったものではなく)自分の奥底から湧き出てくる、そして自分を満たしてくれる感謝や幸せのエネルギーをしっかりと感じ、そしてそれを使って表、表面、社会に溢れさせいつの間にか自分が発揮されていることもできていた。


つまり、あなたは、敢えて段ボール箱を与えられながら”箱を伏せた”状態で捉えて(自分でそう捉えたものであろうがそう教えられたものであろうが)、全ての世の中や世界や自分自身に対する認識を逆に入れ込むことで、自分にフタをし、そして自分自身(顕在意識)と自分自身(潜在意識)を切り離して繋がることができないように分断し、連携できないようになってしまっているのである。

あなた自身、人から自分を全く勘違いして、違うように捉えられたら、どうして良いかわからない、その人たちともうまくいかない、自分も抑えつけられ発揮できなくなるだろう。
そして、あなたがもし、自分がどうも人から変にみられる、良くこう見られるんだけども違うんだけどな、などと感じることが良くあるひとならばなおさら、周りの人だけでなく、あなた自身も自分自身に対しての潜在認識においてそういうことが起こってしまっている。

ぜひ、お声がけいただき、私とお話してみませんか。
会うたび、お話するたび、あなたの認識がすっきりしていき、あなたの「世界」が拓けていくことを体感されるのではないかと思う。
また、逆に、自分はそんなに世界や自分自身の認識をおかしく真逆にとらえてなどいない、という方は、尚更。私はあまりに「翻訳」しながら生きていてまるで全く文化も物の言語パターンも真逆の国から留学に来ているかのような状態になっている。私と同系統の方向から話ができる方がおられたなら、それこそぜひ出会い、語り合うことが叶ったなら、個人として本当に嬉しい。


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