自分の人生を生きるための方法

先日、仲間とこんな話が出た。
仲間と言っても居住区の仲間であり、心理学やセラピーなどに精通しているわけではない。
しかしながら、何とも面白いことに、互いに系統も分野も異なるのだが、気がついたら突如どかんと深い話に没入するようなメンバーである。
実はそのひとりが近日、退去されるため、その送別会として集まった。

そしてその中で、…送別会の中でするような話かどうかはわからない、ここがこのメンバーの面白いところでもあるのだが…、しかも一見どうでも良さそうな思い付きのままの喋り出しからいきなり深い話に突っ込むので話の発端も覚えていないのだが、
「(今の子供は便利社会の中で、目の前の物の使い方がわかっていないことがある。)今の子、蛇口がある水道の前に手を出して待っているんですよ」というような話題が出た。この実例を出したのは実際子供を相手にする専門の仕事をしている人なので、本当に良く見かけるのだろう。
そこからなかなか白熱して4人で深い話に没入したのだが。

例えばこの水道のような例であれば、そう、確かに、元々蛇口をひねって水を出すという仕組みを扱う時代を経て、電気とセンサーで自動になる、という変化を体験する場合は(まだ)いいのだが、そういう時代の変化と共に生きてきた人たちの感覚では、元々その新しい時代(手を出したら水が出てくる)だけを最初から体験してしまう世代の人たちの人間性・発育・心と身体にどこまでの思わぬ影響や弊害があるか、考えることが非常に難しい。

ひとつ良く言われるのが、ブラックボックスである。
ブラックボックスの一方から物を入れ、しばらくすると、ブラックボックスの反対の一方から、それが全く別の形になって出てくる。
具体的に例えば、ブラックボックスで覆われたベルトコンベヤーにいくつもの部品を入れると、ブラックボックスの反対側から出てくる時にはその部品が全て組みあがって製品になっている、など。
つまり、ブラックボックスの中に、入れたものを変化させる仕組みがあるわけだ。
しかし、昔は機械などなく、本当に道具、その道具すら手作りするような時代は、仕組みが全て見えていたのだが、時代と共に、その過程が全てブラックボックスとなってしまっている。ブラックボックスの中で何が起こっているか、その仕組みは、外側からは見えない。
考えてわかるような仕組みもあるのだが、わからない仕組みも多い。
例えば電気ケトルに水を入れてスイッチを入れると、どうして湯が沸騰するのか。洗濯機のスイッチを入れると、どうして回ったり水を入れたり脱水したりできるのか。
文字通りベルトコンベヤーのようなイメージでできるものもそうだが、こういった機械もブラックボックスである。
しかも、電熱コイルを使った電気ケトルくらいであればまだしも仕組みを予測しやすいかもしれないが、洗濯機だとか冷蔵庫だとかPCだとかとなると、もうなかなかに難しい。
その上、電熱コイルの仕組みなども例え理科の授業でほんの少しばかり習ったところで、コイル自体が日常で縁遠くなってしまっている若い人たちは、比較的簡単な原理であるこうした電気ケトルなども、「どうして湯を温められるのか?」と問われても、仮説を立てられなくなってきている。
そしてそれより若い年代となると、もはや、考える、ということ自体ですらも、思いつきもしない。だって、生まれた時から、スイッチを押しただけで湯が沸くのだ。ただスイッチを押せば、どんな難しいことも全自動で「やってもらえてしまう」わけなのだ。
そして、それらがもし壊れた時、もはや、直そうともしない。自分でも気付かぬうちに、自分の心に埋まっている「自分では直せるわけがない」という潜在的認識において、直そうという方向に動かないのだ。
捨てるか、業者に頼むかとなってしまっている。その前に何かやったとしても、その機械を叩くか、「なんでなんで!」とイライラするというくらいのものである。
ちなみに私の器の年代でもこれは危ういが(つい、その潜在認識は働こうとしてしまう)、それでも私は辛うじてまだ(世代がぎりぎりなのかそれとも辛うじてそういう思考回路を身につけてくることができたのか)、どうして壊れたか、何がおかしいか、どこの段階(部分)が問題なのか、くらいまでは、観察したり考察する。しかし、危ういのがやはりこの後である…スピード社会も相まって、結局ついつい、「ここが悪いのだろうな」というところまで仮説は立てても、だからと言って「自分で直そう、直るかどうかやってみよう」と分解してみたりするようなところには、なかなかいかない。ついつい放っておいてしまったり、機械の分解や組み立てには私よりも詳しいはずの実家の人に見てもらった方が良いだろうなと自動思考のように判断してしまったり、自分で動こうというところになかなか行っていないことに、後から気付く。
ともすればふとほんのちょっとした隙に、「もし新しいものを購入することになるなら…」と調べてしまったりもするのに、である。そのちょっとした隙があれば、「今目の前にある」その機械をもう少し観察してみたり修理を試してみたりした方が(もちろん壊れ方にもよるが)、よほど生産的建設的であっても、である。

先程の、蛇口の水道の前にただ手を出して待ってしまう子供も同じである。
蛇口の前に手を出しても水が出ない。ならば、「水が出る方法」を編み出す必要があるわけである。
自分は水が必要なわけだから。

しかし、今の子供は、待っているだけで何もしない場合が多いようである。
その先に待つのは、「この蛇口は壊れている」の判断や、もしかしたら出ない出ないとイライラして癇癪を起こすことかもしれない。
今は敢えて少し極端に話をするが(いや、実際そういう時代も着実に近づいているかもしれないから言う部分もあるのだが)、そこにある蛇口たち(もし複数あれば、だが)が全部壊れているという可能性は非常に低いのではないか、だとか、他に水が出る方法があるのだ、だとか、水が出る方法を人に聞こう、だとか、そういう可能性にまず至ることすら、麻痺してしまっているわけである。
今の時代では、蛇口を相手にはまだそこまでのことはないかもしれないが、しかし、蛇口だけの話ではない。すでにそうなっているものやなりつつあるものは(しかも子供だけでなく成人ですら)、既にあるように感じる。

まだ、「蛇口から水が出る仕組み」を辛うじて知っている、考えることのできる世代は、まだしも、「では何か別に方法があるのだろうか」などと思いつくことまでは可能かもしれない。しかし、今の子供は、蛇口からどうやって水が出てくるのか、そこからしてそもそも知らないのだ。であれば、「水を出す方法を考える」可能性など、思いつきもしない。自分ではどうしようもない、が前提にあって仕方のない話なのだ。

スイッチを押せば(なぜだか電気がつき)部屋が明るくなる。
特定の場所に手さえ出せば(なぜだか向こうが勝手に気が付いてくれて)水が出てくる。
特定の場所に手さえ翳せば、(なぜだか知らないがその壁とは全然離れた場所にある)トイレが流れる。

今の子供は、寿司屋に行って魚を見ても、水族館や海を泳いでいる魚とは頭の中で結びつかず、切り身がそのまま海を泳いでいるのだと思ってしまっている子供も多いそうである。

ブラックボックスの中に何があるのか、自分の見えていないところで何が起こっているのか、これを考える、いや、もはやこの存在にすら、気付くことを削がれている時代になっている。
それに気付くことを教えない(大人世代以上はこれが当たり前であるから、今の時代はそれを教える必要があること自体に気付かない)、それを教える暇もなくもう次へ次へと進んでしまうスピード社会になっている、というようなことなども要素のひとつにあるだろう。
ただ、それ以外にも大きな要素がいくつかあるように感じられる。

本日は実はあまりしっかりと記事を書くつもりがないので、少々乱雑かもしれないが単刀直入にまとめたい。

先ず第一に、これは他人軸の押し付けではないか。
要するに、生まれた時から、もう全てのことを「外側の誰か・何か」が全てやってくれてしまう。言い換えれば、勝手にやってくる、押し売りされているのが当たり前の状態となっているのである。
手を翳すだけで水が出て来たり少しボタンを押したり倒したりするだけで全身に水がかぶってくる、ボタンを押しただけで汗だくになった衣類が綺麗になって出てくる。
何もしないのに置いておくだけで一晩でも二晩でも食べ物を冷えた状態に保ってくれる(つまりいつでも開けて触ったら勝手に冷えている)。何もしないのにボタンひとつで食べ物が熱く湯気を立てて出てくる。

そして、「特定の」場所に手を添えれば全く関係のない場所にある電球の電気がついたり、離れた場所のシャッターが開いたり、水洗が流れたりする。

これらは、ある意味、別の方向から言えば、「自分で便利に環境をコントロールしているように見えて」、「自分には一切のコントロールが利かない、コントロール権がない」のである。全自動で全て決まったことが行われてしまう。
そして、全て他人(他物…?)が行ってくれるがために、ある意味で全て自分の方をそれに適応させる、それに合わせる。つまり、「特定の」場所に手を翳すように自分を条件付けしていく(自分が条件付けさせられていく)わけである。
そして、壊れたら、何の事前教育も保証もなく、突然動かなくなる。突然やってくれなくなる。突然自分が何もできなくなることを思い知らされる(しかし相手が生命のない物体であるがために、それまでそれが”やってくれていただけなのだ”ということには気付けず、ある意味いわば自分が突然無能になったかのような落差を感じさせられる)。
そして、仕組みを知らないがために、自分にはなすすべがない。
もはや自覚もできぬまま、「他人(外側の何から)が全てやってくれているのが当たり前、それを当たり前のように受け取っているのが当たり前、外側から勝手に来るから自分には決める必要もない、自分は何もできない、自分にコントロールはできない」というような潜在認識が根底に深く根付いて、もはや致し方ない、当たり前の社会である。

そして、私はセラピストの目線から見ても、やはりどんな問題を抱えていようがその下に「他人軸でしか生きられない、自分の人生を自分のものとしていない(自分軸が出来上がっていない)」ことが問題である人が急激に増えているように感じる。
愛着障碍であるとか解離性障碍であるとか発達障碍、HSP、人格障碍などなどと言うが、機能不全家庭で育ったとか脳の器質性のだとか言うけれども(それはそれで勿論本人にとっては大きいので見ていく必要はあるのだが)、その前に、もっと前の本当に幼い頃の段階で、この前提となる土台を築くことができたのだろうか(いや、そもそももはや時代と文化背景の問題でそこを論じても実質意味がない、仕方がないから、機能不全家庭だとか脳の器質―私はこの土台が築かれないゆえに気付いた時には既に器質的に変形し歪んでしまっているというわけではないかと考えるわけなのだが―と枠付けをせねば収拾がつかない―どうせついていないというところは置いておいて―、のかもしれないので、それは一理あると思う、そこもわかるのだが)。
機能不全家庭などと言ったら、結局のところ、現代日本の家庭は大半以上当て嵌まってしまうかもしれない。少なくとももうそうなろうと時代が突入しているのではないか。(ついこの前ここで、人生脚本の禁止令について書いた時にも似たようなことを書いたが、)それを「あなたは機能不全家庭で育ったからこうなった」と言ってしまうのは、本人とその家族にとって残酷でしかない。
確かに、明らかな機能不全家族もある。
しかしながら、だからといって、愛着障碍は、「機能不全家族の中で育てられた」というより、今の現代社会自体が、”機能不全家族”(これも近年流行り出した、作られた概念なわけだが)と呼ばれるような状態にならざるを得ない環境でもあるのである。

それから第二に、これも現代日本でこうならざるを得なくなってなっている環境であるが(私は物事の一面について考察しているだけであり、決して現代という時代や日本社会を非難・否定しているわけではない)、今の日本(戦前戦後辺りからだろうか)の”詰め込み教育”ではないかと感じる。

何につけても、まず自分で考える・自分の力で生きるよりも前に、とにかく正解を教えるのだ(しかも大人数の集団で)。
表面的に例えそういう言葉を使わずとも、言語非言語において、その環境において、「何事も物事には正解がある」ということを子供たちに暗示してしまっているのが現代の日本の教育現場であるように見える。
それはつまり、少し暗示の仕組み理屈などを端折るので大げさに聞こえるかもしれないが、同時に非言語において、「自分で考え、自分で生きる前に、正解が外側から教えられる。つまり正解が教えられてから動け」という暗示ともなって子供たちに入っていく可能性が多分にある。
教師や養育者が否定しようが肯定しようが、もはや、子供たちは「最初の正解」を待つ、こと自体が正解となり、それより前に先に自分で動こうとすることを封じてしまう。だから、手を出せば水が出てくることを学んだ子は、蛇口の前に手を出して待つ他、選択肢・可能性がなくなっているのである。

その上に更に、「教師や養育者が否定しようが肯定しようが」と書いたが、現代のこのスピード社会の中で、子供は大抵、否定ばかりされている。
大人側にそのつもりがなくても、子供が何か効率の悪いことをしたら、例え「こっちの方がいいよ」という言い方であったとしても、そもそも「正解を出してくれる」暗示が入っている子供がそれを受けると、それだけでも「では自分のやり方は”しない方が良い””不正解なのだ”」という解釈で埋め込まれていってしまうパターンとなってしまう。
しかしだからと言って、大人には、その前に「うん、いいね~!それもいいよ!それと同時に、先生が考えたことなんだけど、こういうやり方もあってね、…ね、これも良くないか?そしてこれだと、効率も良いしこういうメリットもあってこういうメリットもあるんだ。君ももちろん好きな方を選んでいいわけだが、もっと他にもいろいろやり方があるかもしれないよな!」
…などとやっている暇はないのである。
それどころか、「こっちの方が良いよ」と言ったとしても、その前に、「そうやったのか、いいね」とたった一言子供の自発性を肯定してやる暇(余裕)すらない。

つまり、子供の中で、自分が自発的に動いたことのほとんどを「成功体験」として処理する時間がないのである。

ついでに言えば、ましてや、エジソンのように1万回2万回電球がつかない体験をしている暇など到底ないのである。
そうなれば、「一体この2万ある方法の中で、どれを試せば電球がつくのだろう…」とまず悩み、そして本末転倒なことに悩むことに時間を使い、結局何も動くことができない(できなくなる)人間がどんどんつくり出されていく。
その上で更に、教師や養育者の否定(失敗した時の訂正や叱り)を恐れてしまったら、尚のこと拍車をかける。

例えばもし目の前にペットボトルがあって、その開け方を知らなかったとしたら。
別に、ペットボトルの腹にひたすら噛みついて穴を空けて飲んだってかまわないのである。喉が渇いて中身を飲みたいのは、あなた自身なのだから。

だが、今の世の中、「どこかの誰かが作った」「製品」がもう身のまわり全てを占めてしまい、そしてそれには必ず「どこかの誰かが決めた」社会的「やり方(正解)」があり、暗黙の了解でそれを当たり前に行わねばならないような世界が成り立っている。

 私は日常で良く自身で気付くが、これは障碍理解にも繋がる話で、私は日常のほとんどにおいて、晴眼者と同じやり方で同じことができない(視覚だけの話ではないのだが、今はわかりやすく限定する)。だから、自分自身のやり方を模索しながらできる方法でやっていくしかないわけだが、しかし、誰かと一緒にいる時は特に(実は独りでもそうなのだが)、「いや、これは社会通念ではこういうやり方をするものだからこのやり方でできねばならない」という自動思考が、どこかでどうしても働いてしまっていることに気付く。「そのやり方では自分にはできない」とわかりきっているにも拘わらず、である。
私の会食恐怖の大きな理由は、実はここにある。無自覚に働くこの強迫観念によって、自分なりのやり方での食事を人前で極力見せてはならない、と、縛られてしまう。目の前に運ばれてきた盆や、その中にある箸や皿の位置を探ることからして、そして水の容れ物のある場所を同席の人に聞く、ということからして、したいのになぜだか歯止めがかかってできず、それが身体症状に転換されパニックに陥ってしまうのである。
……ということにも、実は私ですら自身のこの現象、理由に気付くことができたのはつい最近のことである。

心理学者セリグマンの有名な実験で、こんなものがある。
犬を檻に入れ、この犬たちに電気ショックを与える。これを何度も行った後、犬たちを別の檻(実は電気ショックを止めるためのボタンがついている)に入れ替え、更にその檻の中に新しい別の犬を追加して入れる。
そして電気ショックをまた与えると、元の犬たちはもはや黙って耐えているだけとなってしまっているのだが、新しい別の犬は即座に檻のボタンを発見し、「なんだこれは、押してみよう」とボタンを押して、電気ショックが流れないようにしたのである。
この元の犬たちが、檻が変わったことやボタンの存在に気付けずただただ与えられるがままに電撃に耐えるようになってしまう、この「学習(条件付け)」を、学習性無力感と呼ぶ。
ちなみにこれに交流分析的な見方を少しだけ加えてみると、これは、環境が変わっても自分が最初に刻み付けた「自分には何もしようがない、選べない、選択肢も可能性もない」という人生脚本を後生大事に変えようとすることができない、という言い方もできるかもしれない。
良く言われる話に、こんな話もある。
幼い頃から檻に入れられて育った動物は、それがどんなに獰猛な動物であったとしても、成長してある時、檻の扉の鍵が開いていてもそれに気付くこともない。
幼い時から杭に鎖で繋がれて育った象は、大きく大きく成長してその杭を引き抜き鎖を引きちぎることができるような力を手に入れても、自分にそんな力が育ったとは夢にも思わず、繋がれたままに甘んじているという。

今の子供たちは、生まれてすぐにあまりに外側から与えられること(というよりは”される”こと)が多すぎて、自分の内側(本音や気持ち、更にはそれにとどまらず自分自身の感覚、体感に至るまで)に気付く暇がない。そして、そもそも本当に幼い頃からそんな環境で、それに”気付く”ことにすら気付けない。
そしてそのまま、成長しても「今ここ」を感じられず、今こここの瞬間の自分の中の思考や、それ(自分の内側)どころか「今この瞬間自分が何をしているか」すら気付かずに、気付いたら時間が経っていた、というような(時間を失う、という解離的な言い方をすると言い過ぎかもしれないが)子供や大人が爆発的に増えているわけである。

そして、更には、自分の中の自分自身の変化には麻痺して気付けぬようになっていながら外側から与えられるものに当たり前に慣れ過ぎて覆い尽くされているので、「電気ショック」のような負のストローク(交流分析では陰性ストロークと呼ぶが)ですらも、受けていないと、人生の時間を過ごすことができなくなってしまう。

もちろん効率的なやり方というのはあるが、それは、社会が決めたやり方だからだとかましてや「正解」だからなどではなく、「あなた自身も(寧ろ”あなた自身が”)」楽なやり方なのである。
別に、ペットボトルの腹に噛みついてみたって良いのである。そして寧ろその方が中の飲料を飲みやすかったり満足感を得やすい人だって場合だってあるかもしれないのだ。
あなたの人生はあなたが生きているのだ。あなた自身が試してみないとただの損である。
そして…、試してみて、良いのである。
そしてそれも不安なら、聞けば良い、周りと一緒に検討すれば良いのだ。
そんな検討相手もいないならば(確かに現代そんな時代である)、どんなに少なくとも、私がこのようなスタンスを以てここにいる。お声を掛けてくだされば良い。

あなたの可能性を、例え社会が言う方法や他者の決めた方法と結果的に同じ方法であろうが違う方法であろうが(書き添えておくが、「同じ方法」をとっているように見えたとしても、実は人が違えばどこか何か違うことをしているものである)、あなたの内側からどんどん引き出し見つけ出す、これができなければ、例え「キャップをひねってペットボトルを開ける」という社会が作った”効率の良い(とされる)”方法ですらも、あなた自身の人生、あなた自身のやり方とならないまま、人生を終えてしまう。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?