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フェイス・トゥ・フェイスの信仰 Ⅱコリント3:12-18 

2024年1月21日 礼拝




3:12 このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。
3:13 そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。
3:14 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
3:15 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
3:16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。


タイトル画像:手に杖をもつムーサー(モーセ)(15世紀ペルシアの細密画),ウィキペディア


はじめに


前回3章1節から6節について見てきましたが、パウロはキリストを信じる信仰によって救われるという、新しい契約に仕える使徒としての資格を主張しました。その証拠として、十二使徒や司教といった権威ある人物からの推薦状があることが、伝道師としての資格があるとする偽教師たちの主張を抗弁するために、自らの推薦状はコリント教会そのものであるとパウロは主張しました。彼は自己推薦やほかの教会の推薦状を必要とせず、その代わりにコリント教会がその存在自体が彼の資格を示していると述べています。

また、新しい契約は律法の文字ではなく、人の心に聖霊によって書かれるものであり、これによって罪の赦しや解放が得られ、神の戒めに従って生きる力が与えられるということをはっきりとコリントの教会の人々に伝えました。そこで、重要であったことは、偽教師たちは、自分の権威付けのために教会の推薦状を用いました。神の栄光よりも自分の栄光を求める偽教師たちの姿を明らかにしました。

今回は、モーセが示した古い契約とキリストによる新しい契約との対比をパウロは教えます。私たちの信仰が、どういうものであるのかを学んでいきます。

古い契約に勝る新しい契約(7-11節)


コリント人への手紙第二
3:7 もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、
3:8 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。
3:9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。
3:10 そして、かつて栄光を受けたものは、この場合、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。
3:11 もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

7節を見ますと、モーセの栄光について触れています。パウロは、出エジプト記34:29-35に記されていることをこの節で触れています。そこでは、モーセが第二の石の板を持って山から下りてきたとき、「顔のはだが光」、「彼らは恐れて、彼に近づけなかった。」と記されています。
出エジプト記34:35には、「光を放った。」と書かれていますが、原文ではקָרַ֔ן(カラン)という単語であり、「輝く」であるとか「栄光」と訳されています。このカランという単語のもとにあるのは、קֶרֶן(ケレン)「角、特に雄羊の角」という言葉であり、聖書における角は、しばしば権力と支配を表す意味を持っています。

『モーセ像』ミケランジェロ・ブオナローティ作
Photo taken by User:Blorg, 2002-03-15., CC 3.0, commons.wikimedia.org
モーセ像には『角』があり、ヘブル語の解釈によって創作されていることが伺われます。
あつこさん教えてくれてありがとうございました。

出エジプト記34:35を見ると、主と会見したモーセは光を放ったとありますが、イスラエル人はその輝きと主の威光を見、畏敬の念を抱きました。その輝きから身を縮め、その輝きを最後まで見届けることも、その輝きが消えるのを見つめることも許されなかったのです。そのため、モーセはベールを被る必要がありました。

出エジプト記34:35
イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すために入って行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

しかし、モーセに与えられた神の律法は、古い契約であって、それをわかりやすくいえば、律法を怠りなく行うことで救われるとする旧約聖書の救いの限界を、パウロは7節で『死の務め』と言っています。律法主義的ユダヤ教の行いによる救いはいのちをもたらすどころか、かえって罪責と死をもたらすものでした。

しかし、そうした旧約の律法であっても、人が直視できないほどの輝きを持っていたわけです。一方、キリストがもたらした福音である、新しい契約は、古い契約以上の栄光があるのは当然とパウロは示します。

Ⅱコリント
3:8 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

ところで、なぜ、新しい契約に仕える務めはそれに勝るのでしょうか。

第1に、新しい契約は内容自体が旧約よりも優れています
モーセの務めが石に刻まれた十戒により、人を罪に定め、守れない人間を死に定める務めになります。
一方、新しい契約の務めは御霊の務めであり、それは、福音を心に刻み、命をもたらす務めであり、人を義とする務めです。

第2に、新しい契約は永続性という点で勝ります。
モーセの顔の光はやがて消え去るものでしたが、それは古い契約の栄光が一時的なものであることを示しています。キリストがもたらした救いという新しい契約の栄光の前では、一瞬にして古い契約は輝きを失うのです。
それに対して、新しい契約には永続する栄光があります。(10‐11)

Ⅱコリント
3:10 そして、かつて栄光を受けたものは、この場合、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。
3:11 もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

7‐11節では、モーセの顔の光に関する記事を解釈し、新しい契約に仕える務めの栄光が古い契約に勝ることを説明しています。新しい契約は内容が優れており、永続性を持つと述べています。

顔を会わせられる恵み(12-18節)


Ⅱコリ
3:12 このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。
3:13 そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。
3:14 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
3:15 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
3:16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

12‐18節を見ていきますと、モーセが被ったベールについてパウロが解釈して、使徒の宣教の態度やユダヤ教律法主義の限界を示しています。

律法の行いをするだけでは、救いに至りません。その律法の意味も分からず、行うことが義であるとしたのが、律法主義的ユダヤ教でした。
それが『覆い』の意味するところです。

旧約聖書がメシアである主キリストについて語っていることを信じなければ、聖書の語る意味がわからないままなのです。

3:14 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
3:15 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

14‐15節を見ていきますと、パウロは、ユダヤ教律法主義の限界を指摘します。モーセのベールは、古い契約の栄光がやがては消え去るべきものだという事実を人々の目から隠しました。同時に、自らを神の民と信じるイスラエルの人々の鈍さも、自らの心にベールをかけました。

同じ心のベールが今もユダヤ教会堂の礼拝で古い契約(律法)の朗読を聞く人々の心にかけられたままなのです。すなわち、彼らは古い契約の栄光がすでに消え去っていることを認めず、律法による救いに固執しているのです。しかし、キリストを信じる時、もはや古い契約が終ったことを知ることになります。このベールはキリストによってのみ除きうるものなのです。

主イエス・キリストを信じる2つの恵み

続けて16‐18節は、モーセが主と話す時はベールをはずしたとの記事(出34:34‐35)から、主イエスを信じる者に与えられる2つの恵みを語ります。

第1に、モーセが主に向く時に顔覆いをはずしたように、人が主(キリスト)に向けば、律法にこだわる頑迷さというベール(14‐15)が取り除かれます。

主キリストは「生かす御霊」(Ⅰコリ15:45)として信徒の内に働き、律法への奴隷から解放して下さります(16‐17)。

第2に、モーセが主に向かう時にベールをはずし、主の栄光を反映して顔が光を放ったように、主キリストを仰ぐ者は、ベールがないまま、主に会う頃とができ、「鏡のように主の栄光を反映させ」ることができます。この恵みは古い契約の時にモーセひとりしか与えられた恵みと異なり、キリストを信じる信徒すべてに与えられる恵みです。

また、モーセのように消え去る栄光ではなく、『栄光から栄光へ』と進み、『主と同じかたちに姿を変えられ』るというきわめて素晴らしい祝福へともたらされます。この世においては、本当かと疑問を持つ人もいるかも知れませんが、私たちは、終末の世にあって、私たちをキリストと同じ栄光の姿に変えてくださるとパウロは語ります。

ピリピ人への手紙3:21
キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

このように、私たちは、キリストを通して父なる神に会うことができる身とされています。このことを万人祭司という言葉で説明されていますが、イエス・キリストと直接に相対する恵みは、きわめて素晴らしい恵みであり、私たちの内に住んでくださる『御霊なる主』の働きによるものです。

大胆に語ることができる理由


ですから、私たちは、福音のことばに関して大胆に伝えることができます。
12節にこうあります。

コリント人への手紙第二
3:12このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。

ここで、『大胆にふるまいます。』と訳されている言葉ですが、παρρησίᾳ(パレーシア)という単語です。パレーシアとは「表立った自信」という意味をもち、そのふるまいは、聖霊によって生み出されるものであり、信者を勇気づけ、聖霊が内側に生み出されるすべてを大きな確信をもって公然と宣言させる力を意味する言葉です。

今や、私たちは主イエス・キリストを通して、神と直接対話できる者として召し出され、大胆に御言葉を語ることができるものとして遣わされています。それはなぜでしょうか。それは、私たちがイエス・キリストの十字架の死によって罪が赦されているからです。罪の赦しがあって私たちは罪なき神の子イエス・キリストの顔を見ることができます。さらに、イエス・キリストの贖罪によって、光り輝く父なる神のお姿を見ることすらできるように変えられています。それは、私たちが行ったことではなく、直接神と会うことができる存在として、選ばれているからです。

その恵みは言葉に尽くせないほど、素晴らしくたしかな祝福であります。
その救いのうちに私たちは加えられています。イエス・キリストを仰ぎ見るとき、自由があります。罪は私たちを不自由のなかに縛ります。イエス・キリストは私たちを縛るものから解放してくださいます。

Ⅱコリ
3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。